1. 帰還
朝焼けを背に、ユイスたち問題児クラスの面々は学園の正門前まで戻ってきた。馬車や荷車での移動は長旅となり、服には道中で舞い上がった埃がこびりついている。それでも彼らの表情には、ほっとした安堵と微かな達成感が漂っていた。
「やっと…戻ってきたな」
トールが馬車の荷台から勢いよく降り、腰に手を当てながら軽く伸びをする。エリアーヌはその姿を見て、小さく笑った。
「トール、そんなに喜んでるなら荷物も片づけてよ。だって一緒に帰ってきたもの全部、ほこりまみれなんだから」
「わかってるって。とにかく一息つきたいだけだ。あー…背中がバキバキする…」
馬車の脇ではミレーヌが、「これは購買部用に運んだ小道具、これは報告書の控え…」と忙しそうに点呼をとっている。その隣でレオンは、まるで他人事のように鼻歌まじりで通り過ぎる下級生たちを見ていた。彼らは口々に「小領地改革、成功したんだって?」「マジなの?」と小声でささやき、時おりこちらに興味深そうな視線を送ってくる。
「まあ、向こうでは大きな仕事をしたさ。そう簡単に信じるやつばかりじゃないだろうけどね」
レオンがひそかに言い、視線をそらす。その口調には皮肉屋特有のとげがあったが、以前よりはやわらかい空気をまとっている。
◇◇◇
門の先、学園の中庭では保守派教師のデイムローズ子爵が待ち構えていた。整った制服姿に貴族の勲章をきらりと光らせ、彼はわざとらしい微笑みを浮かべている。
「ご苦労だったな。馬車の音が聞こえたから出向いてやった。さて…報告はレオナート王子に直接? それとも学園長にするのかな?」
軽薄に思えるほど上から目線だが、ユイスたちは特に反論せず黙って頭を下げる。デイムローズは肩をすくめて、鼻で笑った。
「なんだ、礼儀だけは覚えたらしい。王子の力を借りた“数式魔法”とやらで、貧乏領をちょっと立て直したそうじゃないか。まあ、どうせお飾りの成功だろうに」
そう言って、わざわざ馬車を軽く小突くように触れる。そこに積んである道具や書類が傾きかけ、エリアーヌがあわてて支えに回った。
「や、やめてください! 大事な書類が入ってるんですよ…!」
彼女が小さく抗議すると、デイムローズは片眉を上げて鼻先で笑うだけだ。
「こんな埃まみれの荷物が何の役に立つ? ……まあいい。いったん寮に運びこむなり何なり好きにしろ。報告の場は明日か明後日か、学園上層部で話し合ってから決めることにしよう。せいぜい準備しておくがいいさ」
そのまま踵を返して立ち去る教師を、トールは憤然とした面持ちで見送っていた。レオンが横目でトールの拳の震えに気づき、こっそり声をかける。
「無視しておけ。騒げば面倒になるだけだ」
「でもさ…折角、小領地の住民を守ったのに、あんな態度はないだろ…」
「いつものことさ。成功したことを素直に認めるわけがない」
その会話を聞きながら、ユイスは唇を結んで静かにうなずいた。学園全体がそういう空気に染まっているわけではないにしろ、保守派の要職に就いている教師は少なくない。せっかく小領地で目に見える成果を出しても、学園に戻れば“王子の後ろ盾”と揶揄されるのがオチなのだろう――そう悟っている節が、ユイスのまなざしから伝わる。
「ひとまず寮に荷物を置いて、今日は休もう。報告会への準備は、これから少しずつ整理すればいい」
ユイスがそう提案すると、トールが大きく首を回しながら賛同した。
「だな。体も限界…食堂で何か食べたい」
「お前はいつでも食べたいんだろうけど…まあ、いいんじゃない」
レオンは少しばかり呆れ顔で言うものの、実際、全員がかなりの疲労を抱えているように見える。エリアーヌもミレーヌも肩がぐったり落ちていた。
◇◇◇
問題児クラスのメンバーが寮へ向かう中、リュディア・イヴァロールだけは少し離れた位置を歩いていた。普段なら「全員一緒に」という形をとることが多いが、彼女はさっきから妙に視線を伏せがちで、足取りがやや重い。
ユイスが気づき、後ろから声をかける。
「リュディア…体調でも悪いのか? 顔色があんまり良くない」
一瞬ぎくりと肩が震えたが、リュディアはすぐにいつもの張り詰めた表情を作った。
「…何でもない。小領地から戻る道中、ちょっと寝不足になっただけよ」
「ならいいんだけど…あまり無理するなよ」
言葉をかけつつも、ユイス自身も疲労は同じく深い。相手を気遣うつもりが、どこか言葉がぎこちない。リュディアは「あなたに心配されるほど弱ってはいないわ」という調子で、あからさまにツンと首をそらした。だが、その横顔には明らかに不安の色がにじんでいる。
「……ねえ、ユイス」
廊下の角で、リュディアが小さく振り返る。
「もし、今後、私に何かあっても…あなたたちはあなたたちなりの道を進めばいいのよ。余計な負担になりたくないし」
「は? どういう意味だ?」
ユイスは怪訝そうに聞き返したが、リュディアは答えず、小さく首を左右に振る。
「ごめんなさい。変なこと言ったわね。とにかく、私はこれから自室に戻る。お互い、今日は休んだほうがいいんじゃない?」
「あ、ああ…そうだな」
リュディアはそのまま踵を返し、寮の反対側の廊下へと消えていった。残されたユイスは小さなため息を落とす。いつもなら、彼女はもっとはっきりした態度をとる。今日のリュディアはどこか上の空に見えた。
◇◇◇
リュディアが向かったのは、女子寮の上階にある自室。ドアをそっと閉め、窓の外を見つめる。遠くの空にはまだ朝日が残り、橙色がうっすら伸びていた。
「母様…本当に、何も変わっていないの…?」
彼女は窓辺に寄りかかるように立ったまま、心の声を落とす。先日届いた手紙には“母の体調が優れず安静が必要”と書かれていた。さらに、伯爵家からの信頼を得た保守派の医師が治療に当たっているという話もあったが、具体的にどう処置されているのかは不明だ。
「私が小領地に行ってる間、もし悪化していたら…どうしよう」
ぎゅっと自分の手を握りしめる。あの母は幼い頃からいつもリュディアを温かく見守ってくれた。貴族のしきたりに馴染めず、嫌な思いをする度に、「堂々としていれば大丈夫」と励ましてくれた。そんな母がいま苦しんでいるかもしれない。それなのに、自分は何もできないまま――。
「馬鹿みたい。…なぜ、母を直接治してあげる力がないのかしら」
手元に抱えた鞄には、まだ小領地のまとめ資料が入っている。数式魔法で領民を助けた成功例や、ユイスらが試作した術式の簡易メモなど。しかし、伯爵家の医療方針は“血統魔法至上”であり、これまで彼女の母への治療に対しては曖昧な姿勢しか示さなかった。もし、伯爵家が保守派と同調してしまえば、母がどう扱われるか…考えるほどに暗い気分が増していく。
「血統に頼らない治癒だって、ユイスの研究なら…」
一瞬、脳裏をかすめる。その可能性を否定したくはないが、実際に伯爵家がそれを認めるかといえば、相当に難しいだろう。母は平民出身――伯爵家の純血を阻む要因でしかないと見なす輩もいる。下手をすれば、血統魔法を受けさせるどころか、“見殺し”にされる危険性すらある。
「…どうすればいいの」
部屋の中には誰もいない。リュディアはその場で膝を落としかけたが、必死に踏みとどまる。伯爵令嬢として育った彼女は、人前で感情を乱すことを嫌ってきた。今朝もユイスに心配されるのを避けようとしたのに、言動が空回りしてしまった。
「ふぅ…」
小さく息を吐いて、机に荷物を下ろす。手紙を読み返す気力はない。ベッドの端に腰掛け、じっと床を見つめる。目を閉じると、小領地改革を終えたユイスや仲間たちの顔が浮かんだ。みんな疲れながらも充実感を抱いていたし、自分だって彼らと過ごした時間は貴重だったはずだ。だが今は、母の容態を知らない不安と、伯爵家への義務が重くのしかかる。
「大丈夫…大丈夫。時間をつくって伯爵家に戻って、母を直接見に行かないと」
思わず声に出して自分に言い聞かせる。直後、ドアの外を誰かが歩く足音が聞こえ、彼女は口をつぐんだ。寮の廊下を誰かが通り過ぎていく気配。リュディアは一瞬だけドアに意識を向けるが、結局何もしない。
「母様…お願いだから耐えて。私がちゃんと救いに行くから」
小さく眉を下げ、リュディアは両手をぎゅっと組み合わせる。彼女の瞳は微かに潤んでいたが、涙までは流れない。今はまだ、こらえきれている。しかし、その胸の奥で小さな叫びが反響しているのは間違いない。
◇◇◇
一方、ユイスと問題児クラスの仲間は寮棟の玄関先で荷物整理を終え、ようやく部屋に戻ろうとしていた。トールとエリアーヌはすでに食堂へ直行するらしく、連れ立って姿を消す。ミレーヌは重たい書類をかかえ、あわあわと焦りながら階段を上がっていく。レオンは背後でそんな様子を見やり、「まったく落ち着かない連中だ」と呟いた。
ユイスは手製ノートを抱えながら、ちらりとリュディアの方角を振り返る。しかし姿は見えない。さっき交わした会話が頭に残り、違和感が拭えないまま、ユイスは小さく眉を寄せる。
「リュディア…何を抱えてるんだろうな」
声に出すつもりはなかったが、思わず漏れてしまう。レオンが隣で首をすくめた。
「何か家の問題だろ。母親が平民出身なんて話、保守派に目をつけられやすいからな。想像はつくさ」
「…そうかもしれない。だけど、俺たちに何かできるのかな」
「直接口を出しても嫌がるだろ。あの人、ああ見えてかなり意地っ張りだから」
レオンの言葉は皮肉混じりだが、ユイスは黙ってうなずいた。相手が辛いときほど、リュディアは強がる。その性格を考えると、無理に踏み込むのは得策ではないかもしれない。だが放置して本当に大丈夫かと問われれば、ユイスには不安がこみ上げてくる。
「まあ、そのうち必要になったら向こうから声をかけるんじゃないか? 伯爵家だとか貴族のいざこざは俺たちには重すぎるが…何か助けがいるなら言ってくるだろ」
「……そうだな」
ユイスは複雑な気持ちを抱えつつも、今夜は体を休めるしかないと判断する。小領地改革のあと始末だって、明日から再度学園の上層部とすり合わせが必要だ。いきなりリュディアを追いかけても、彼女の心をこじ開けられる保証はない。
(もし、彼女が真剣に助けを求めるなら、全力で手を貸す。それだけは変わらない)
自室のドアノブに手をかけながら、ユイスは心中で小さく決意を固めた。ほこりだらけの服をまずどうにかしないといけないし、戦い続きの疲れを癒さねば明日からの報告会で正しく話せない。夜明けを迎えたばかりの学園は静まり返っていて、彼の心にも一瞬だけ落ち着きが訪れる。
だが、その静寂の裏でリュディアの苦悩が深くうずまいていることを――ユイスはまだはっきりと知る由もなかった。
◇◇◇
夜は少しずつ更けゆき、学園寮の灯りがちらほら消えていく。リュディアの部屋の窓にだけはまだ僅かな明かりが残り、誰にも見えぬように彼女の影が動いている。机にひじをつき、母の手紙を再び読み返しながら、震える声で何度も問いかけていた。
「母様…どうか無事でいて。私が何とかする。血統主義なんかに負けてたまるものですか」
言葉は切れ切れでも、その眼差しには決意の光が浮かんでいる。小領地での改革に成功したあの仲間たちの姿を思い出すと、ほんの少しだけ勇気が湧いてくる。明日になれば、伯爵家からまた連絡があるかもしれないし、自分から動く手段も探せるはずだ――そう信じるしかない。




