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31. 次の野望

 夜風がそっと村の広場を撫でていた。昼間の喧騒が嘘のように静まった空気の中、ユイスは一本の木に背を預け、いつもの手作りノートを胸元で閉じたまま、目を伏せている。さほど強くない照明魔法が足元をほんのり照らし、彼の周囲だけを浮かび上がらせていた。直前まで数式を走らせていた指先を止め、ゆっくりと深呼吸をする。


「お疲さま、休まなくて平気なの?」

 少し離れたところで待っていたリュディアが、声を落として問いかける。広場全体は村人たちの感謝祭のような雰囲気に包まれていて、夜の遅い時間にもかかわらず活気があった。集落各所の石灯篭の灯りが柔らかく周囲を照らし、笑い声や談笑が途切れない。


 ユイスはかすかに笑ってから立ち上がる。彼のまわりで巻物の整理を手伝っていたエリアーヌが「ユイス、そろそろ少し休もうよ。村の人も『もう十分だ』って言ってたし…」と上目遣いで訴える。ユイスは軽く首を振った。


「大丈夫。ここ数日はずっと体を動かしてたから、むしろ頭を整理しないとな。今は落ち着いて魔法式を考えられる貴重な時間だ」


 エリアーヌが苦笑いしながら、紙束をユイスの脇に置く。

「でもさ、もうこの領地のインフラはほとんど完成したじゃない。灌漑水路も修繕完了で、日中は住民がすごく喜んでたよ。『ユイスたちが神様の使いに見える』って言ってた」


「神様の使い、か…」ユイスは呆れたように眉を上げて微笑する。「そんな大層なもんじゃないよ。ただ、まだ終わってないことがあるだけだ」


 リュディアが一歩近づき、彼の表情をうかがう。かすかな夜風が二人のあいだを通り抜け、リュディアのローブの裾を揺らした。彼女は昼間の賑やかさからは想像できないほど、静かに声をかける。


「カーデルのこと、まだ気にしてるのよね」

「……うん」ユイスは視線をノートへ戻す。「彼が本気を出せば、こんな小領地の改革なんてすぐ踏みにじられるかもしれない。兵を退けたとはいえ、あの男はまだ動いてすらいない」


 先日、カーデル伯爵の部下たちが現れたときには、ユイスたちは“専守防衛”を貫いて村を守り抜き、相手の攻撃意図が空回りに終わった。しかし伯爵本人が一切姿を見せず、撤退後の動向を探ろうにも情報はまだ少ない。村の人々は平穏に戻って安心しているが、ユイスの胸中には解決からは程遠い実感があった。


 ◇◇◇


 夜更けにもかかわらず、村は祝祭にも似た陽気さを帯びていた。広場では露店のように簡易の屋台が並び、住民が焼き立てのパンや野菜スープを振る舞っている。灌漑整備が仕上がったことで豊かになりつつある畑。今後の収穫への期待が、疲弊していた人々の表情を明るく変えたのだろう。


 テラとボルドの姿もあちこちで見られる。二人は住民と談笑しながら、インフラ整備がどれほどありがたいかを熱心に語り合っていた。雨水でぬかるんでいた畑も整地され、水路の流れがスムーズになったことで労力が激減したのだ。


「まるでお祭りみたいだな」トールがワクワク顔で歩き回っている。大柄な体格を揺らしながら、屋台をいくつも見て回り、「腹が減った…」と何度もつぶやくが、まわりの住民が半ば笑いながら「いっぱい食べてってくれよ!」と声をかける。


 エリアーヌはそんなトールを苦笑まじりに見つめ、「やっぱりトールは元気だね…私も少しもらおうかな」と、屋台のパンを手にかぶりつく。甘味がほのかに効いたパン生地の香りが、食いしん坊の彼女にとってたまらないらしく、思わず頬を緩ませていた。


 ユイスは、やや離れた場所でシェリー・エグレットと話し込んでいる。彼女の頬には安堵の色が浮かび、口元にかすかな笑みがある。


「ユイス様。これで村はようやく落ち着きそうです。現場を任されていた私としては、皆さんのお力添えが本当に救いでした」


「様付けはやめて。自分たちは特別偉いわけじゃないから。シェリーさんが住民の信頼をまとめてくれたからこそ、僕らも動きやすかったんだ」


「そんな、私こそ…」シェリーは小さく頭を下げかけるが、ユイスが制するように手を挙げる。そして彼女は顔を上げ、少し柔らかな声になる。「これで領地としての最低限の形は整いました。でもカーデル伯爵の意向がどうなるか…」


「わかってる。いずれあの男が本腰を入れて何かしら仕掛けてくるはず。それに備えて、もっと協力を続けたい」


 シェリーは村人が手作りした礼状を手にして、「住民はもうユイスさんたちを心底信頼しているみたいです。もし次に何かあったら、きっと一致団結してあなた方を守るでしょうね」と微笑む。


「ありがたいね」ユイスは視線を広場の一角に向ける。そこでテラとボルドが子どもたちと笑い合っている光景が見えた。「皆が笑ってくれるのは嬉しい。でも、まだ終わりじゃない…僕らはこの領地だけじゃなく、もっと根本的な理不尽を変えたいんだ」


 シェリーはその言葉を静かに受け止める。「理不尽、ですか?」

「…ああ。貴族が力を独占し、人々を踏みにじる構造。僕はそれを壊したい。でも同時に、誰もが使える力…数式理論をもっと広げて、過去のような不幸を減らしたいんだ」


 彼の瞳には確かな決意が宿っている。シェリーはその強さに少し驚きつつも、何か温かい感情を覚えたのか、そっと微笑む。「私が言うのも失礼かもしれませんが、頑張ってください。私たちはこの領地を守り抜きますので」


 ◇◇◇


 夜が深まり、少し落ち着いたころだった。村の入口付近にローブ姿の人影が見え、周囲の住民が「おや…?」と低い声を上げる。傍目には高位の出自を思わせる、その人物――カディス・ルーファスである。


 カディスは痩身ながらきちんとした身なりで、王族の紋章入りのバッジを胸につけている。彼は数名の護衛騎士を従え、村の広場にゆっくりと入ってきた。人々が驚きや敬意の入り混じった視線を送るなか、カディスはユイスに目を留め、すぐに近づいてくる。


 リュディアが小声で「レオナート殿下の側近…こんな夜中に?」と眉をひそめる。エリアーヌも「また何かあったのかな…」と少し不安そうだ。ユイスは警戒を解かずに、カディスの前に立つ。


 カディスは表情を崩さず、軽く一礼をした。「お久しぶりです、ユイス殿。王子より預かった書簡をお届けしました。大した中身ではありませんが、殿下があなた方の成功をねぎらう言葉を賜っています」


 ユイスは差し出された書簡を受け取り、封を切る。内容は簡単な礼と称賛の意。そして、さらなる施策を広域に拡大するための打ち合わせを近々行いたい、という趣旨が記されていた。すぐそばでリュディアが肩越しに文字をのぞき込み、「やっぱりレオナート殿下は次の展開を見据えているのね…」と呟く。


「ええ。殿下はここで得られた成果を、大々的に宣伝したいとのことです」カディスは淡々と続ける。「保守派を牽制する材料にもなるでしょう。ですが、その過程でまた紛争の火種が舞い込む可能性は否めません。ユイス殿としても、さらなる発展を望まれるなら、ご覚悟を」


 ユイスはわずかに眉をひそめ、カディスの目を見つめ返す。「覚悟、ね。結局、王子の思惑通りに動くなら、僕らもさらなる衝突に巻き込まれる可能性が高い。でも…」

 そこで彼は深いため息をつきつつも、しっかりと言葉をつないだ。

「この領地に命を懸けてくれた人々がいる。自分たちが退いてしまえば、せっかくの改革がまた踏みつけられるだけだ。僕たちが守り抜くよ。数式理論をさらに高めながら、どんな理不尽にも対応していく」


 カディスは一瞬、冷徹とも思える表情を見せるが、すぐに丁寧な口調に戻る。「わかりました。殿下も、その強い意志を期待しておられます。ここから先の道のりは険しいでしょうが、ぜひ突破していただきたい。私も微力ながら動きますので」


 そう言うと、カディスは踵を返し、護衛たちを連れて村の宿へ向かう。あまり長居するつもりはないらしく、村人との必要以上の交流は避ける態度だった。


 ◇◇◇


 それからしばらくして、住民たちの宴もお開きとなり、賑わっていた広場には穏やかな静寂が戻った。ユイスたちは村の人々に挨拶を交わし、労いの言葉を何度も受けながら一人また一人と別れていく。最後に、暖かなランタンの光が消えかけた頃、トールやエリアーヌ、ミレーヌら問題児クラスの面々がぞろぞろと集まってきた。


「ユイス、今日はもう寝るんだろ?」トールがすでに眠気まなこであくびしながら言う。


「朝から作業ぶっ通しだったし、さすがに限界だろ?」


「そうそう、もうたまには休もうよー…」とエリアーヌが甘いパンをかじりながら訴える。


 ミレーヌも苦笑しつつ、「今の領地は大丈夫そうですし、私たちだって疲れが溜まってます。明日に備えましょう」と控えめに意見を述べる。


 ユイスはノートを閉じ、苦笑い気味に仲間たちを見回した。「みんな、ありがとう。確かに体は悲鳴を上げてる。じゃあ今日はもう引き上げて、明日からまた考えようか」


 レオンは少し離れた場所で腕を組み、皮肉屋らしい口調でぽつりとつぶやく。「ふん、やっと休む気になったか。ま、俺たちもいつまでも動きっぱなしじゃ体力がもたないしな」


 他の仲間が苦笑する中、ユイスはリュディアを振り返る。「リュディアも…ありがとう。今日はもう部屋に戻って休もう」


 リュディアは小さく頷く。だがその瞳はどこか思いつめた色合いを帯びている。「ユイス…私も、あなたを止めたりはしないけど、無茶だけはしないで。カーデルを追い詰めたい気持ちはわかる。でもあなたが倒れたら、本当に困るのはみんなよ」


 ユイスは微かに苦笑しながらも、真剣な表情で応じる。「わかってる。僕の命を賭けるようなつもりはない。守るべき人たちを守る。そのうえで数式魔法を発展させて、いずれは…」

 フィオナの名を飲み込むように言葉を切り、彼は夜空を見上げた。「あと少し…あと少しで、何かが変わるかもしれないんだ」


 ◇◇◇


 翌朝。陽が昇りきる前の涼しい風が、村中を吹き抜ける。いつもなら眠り続けている住民も、最近は畑仕事が捗るらしく、すでに幾人かが水路の見回りに出ている。子供たちがはしゃぎながら伸びきった雑草を引き抜き、改良後の農地を眺めて喜んでいる姿が微笑ましかった。


 ユイスはまだやや寝不足な顔をしつつ、問題児クラスの仲間とともに村の中心へ足を運ぶ。シェリーやテラ、ボルドたちと朝のあいさつを交わし、最後の仕上げとして細かな道具の点検を行う。昨晩の宴でぐったりしている者が多いかと思いきや、住民たちは意外なほど元気に、テキパキと動いていた。


「いい雰囲気だな」トールが周囲を見渡しながら素直に感心する。「何だか、最初に来たころとは別の村みたいだ。みんな笑顔じゃん」


「うん、そうだね」エリアーヌも同調する。彼女はパンくずをぺろりと舐めながら、「昔はこの辺り暗くて寂しかったって言われてたのに…ちゃんと日常が戻ってる」と瞳を輝かせた。


 住民の一人が通りがかりに「おはようございます! 今日も一日頑張りますよ!」と声をかけてくると、仲間たちははにかみながら手を振って応える。最近は彼らの扱いがすっかり“村の頼れる技術者”という感じで、身分差はほとんど気にされなくなったようだ。


 ユイスはその光景を見つめ、ノートを取り出してパラリとめくり始める。新しい術式の考案や、今後の改良計画が断片的に書き込まれたページが目に入るたび、胸が熱くなった。自分の数式理論が確かに人を救っている――かつては夢のような理想だったが、今は現実になり始めているのだ。


 ただ、彼の胸底には一つの決意が渦巻いている。カーデル伯爵との最終的な対決は、どうしても避けられない。今、村が平穏を享受できるのは、その伯爵がまだ本腰を入れていないだけかもしれない。しかし、この地で培った数式魔法の応用があれば、きっとさらなる守りを固められるはず。そう信じて、ユイスは新たな演算式を頭の中で組み立てていた。


「ユイス」

 隣に並んだリュディアがそっと声をかける。早朝の日差しが彼女の髪に当たり、金色に反射して眩しい。


「レオナート殿下の使者、もう朝早くに発っていったみたいよ。私たちが帰還したら、また色々と“次のステップ”へ向けた動きがあるかもしれないわね」


「そうだろうね。殿下は保守派を黙らせるために、もっと大々的にこの成果を使いたいはずだから」


 リュディアは一瞬言葉を探すようにしながら、真剣な表情で告げる。


「あなた、気をつけて。王族の思惑が絡む以上、単純な善意だけで進む改革じゃないから」


「わかってる。レオナート殿下がすべてを善意で動かしていると思ってない。…でも、俺も利用するだけ利用させてもらうよ。数式魔法を完成させるためには、今の段階じゃ王子の後ろ盾が必須だから」


 リュディアはほっと息を吐き、わずかにほほ笑む。


「あなたらしいわ。あまり無茶ばかりしなければいいけど」


 そう言いながら、リュディアは周囲の住民に手を振る彼女なりの気遣いも忘れない。彼女が伯爵家の令嬢であることを知っていても、もはや差し障りを感じる住民はほとんどいないようだ。「ありがとう、イヴァロール様!」と親しみをこめて呼ぶ村人もいる。


 ユイスはそんな光景を横目にノートを静かに閉じる。優しい太陽の光が村全体を包む中、彼の目は先を見据えていた。まだまだ前途は長く、カーデル伯爵との決着も、保守派との衝突もこれからだ。だが、この地に根付いた笑顔や改革の成果を見捨てることはできない。


「フィオナ…もうちょっとだよ」

 ユイスは胸中でそっと幼馴染の名を呼ぶ。彼女の面影を追いながらも、過去にとらわれすぎないように前を向く。専守防衛であっても、いずれ真っ向から挑むべき現実がある。その時が来たら、一歩も引かずに戦わなければならない――そう覚悟を決めて、ユイスは仲間の方へ振り返る。

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