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29. 妨害

 夜はすっかり深まり、村の外れにある小さな倉庫小屋だけが、かすかな明かりを灯していた。倉庫と呼ぶには簡素な建物だが、ユイスたち問題児クラスが寝泊まりや作業場の一部に使っている場所である。寝静まった村の闇を吹き抜ける風は涼しいはずだが、扉の隙間から漏れ出るランプの光が、内部の暑苦しい熱気を際立たせていた。


 ユイスは倉庫の片隅で、傷だらけのノートを膝に乗せ、黙々と術式の書き込みを続ける。


「もう少しで…この大規模施術の演算が完了する。ここをこう組み替えて、位相重ね合わせを安定させれば…」


 夜更けというより、もはや深夜に近い時間帯だというのに、彼の視線はまるで眠気を拒むかのように鋭い。ノートの端には擦れやインク染みが増えつつあり、これまでの試行錯誤の痕跡がくっきり刻まれている。


 ◇◇◇


 夜明け前、わずかな仮眠しか取れなかったユイスは、トールの響き渡る声でようやく顔を上げた。


「ユイス、お前、まだそんなところで寝てたのかよ! そろそろ朝飯の時間だぞ!」


 倉庫の外から顔を出したトールは、大柄な体格をさらに大きく見せるように両手を腰に当て、呆れたような口調だ。彼自身、早朝から村の広場を走り回り、体力を持て余すかのごとく世話役を買って出ていた。


 ユイスは、まだ頭の中で残っていた術式の走査を中断し、目を何度かしばたたく。


「…ああ。ありがとう。ちょうど区切りがついたところだ」


 立ち上がるとわずかに足下がふらつく。トールがやれやれという顔をしながら腕を貸してくれた。


「お前、くたばるなよ。昨日だってほとんど寝てないだろ。食うもん食って寝ないと倒れるぞ」


「平気だ。…って言いたいけど、たしかに少し休まないとな」


 ◇◇◇


 朝日が村全体を照らし始めたころ、住民たちはいつもどおり畑や家畜の世話へと動き出す。しかし、今日の村には奇妙な緊張感が漂っていた。何人かが落ち着かない様子で、村の中央広場に集まっている。


 そちらに向かうと、シェリー・エグレットが必死の形相で書状を握りしめていた。美しくまとめた髪はわずかに乱れ、その表情は困惑と怒りが入り混じった複雑な色を帯びている。


「おはようございます、シェリーさん…どうかしましたか?」


 ユイスが問いかけると、彼女はハッとしたように顔を上げる。


「ユイス様…。あの、実は──」


 彼女は胸元に抱えていた手紙の封をちらりと見せた。


「カーデル・ロートレイン伯爵の名代を名乗る役人が、昨夜遅くに正式文書を送り付けてきました。『ここでの改革活動は違法行為。すぐに全て中止せよ』と、かなり強い口調で通達が…」


 その言葉が広場に集まっていた村人の耳に届くと、人々は不安げな声を上げる。


「やっぱり伯爵様にはかなわないんだ…」


「税金をさらに増やされるんじゃないか。ああ、どうしよう…」


 その怯えにも似た雰囲気に、トールは憤る。


「ふざけんな…今さら『やめろ』だと? 俺たちが命懸けで工事してきたのに! こちとら王族殿下の勅令があるんだぞ!」


 だが、その叫びには村人の不安を払拭するほどの力はない。誰もが「伯爵に目を付けられたらどうなるか…」と、背筋を凍らせているのだ。


 ◇◇◇


 ほどなくして、視界の端に馬車の姿が見えた。村の入口から、カーデル伯爵の紋章付きの旗を掲げた衛兵と数名の役人が乗り込んできたのである。


 先頭に立つのは痩せぎすで神経質そうな中年男だ。腰に小さな短剣を下げ、まるで自分がこの地の支配者であるかのように胸を張って歩いてくる。


 彼は村の中央広場に到着するなり、あたりを見回しながら口を開いた。


「ここか…。ずいぶん勝手に作り変えているようだな。伯爵家の許可なく水路を拡張? インフラを勝手に整備? 聞いてあきれる。まったく無法者どもが!」


 その男が名乗るよりも先に、シェリーが一歩前へ出る。


「おはようございます。私は当領地の領主代理を務めるシェリー・エグレットです。そちらは伯爵家の命令書をお持ちで? この改革活動に違法性があるとおっしゃるなら、まずは正確な書面を見せていただきたいのですが」


 言葉遣いこそ丁寧だが、その瞳には毅然とした光が宿る。男はニヤリと軽薄な笑みを浮かべると、書類の束をばさりと振りかざした。


「書面なら、ここにそろっている。何しろ領主であるカーデル伯爵様の直筆だ。お前たちが勝手に行った設備…水路工事や灌漑装置…すべて撤去せよ。従わないなら、相応の罰を受けることになる」


 役人の後ろに控える数名の兵士が、硬い表情で村を睨んでいる。


 それを目にした住民の一部が後ずさりし、悲鳴にも似た小声が上がった。


「ひどい…。今さら全部壊せだなんて…」


「伯爵様が本気なら逆らえない…どうしよう…」


 ◇◇◇


 その光景を黙って見ていたユイスは、拳をギュッと握り込む。


(フィオナを救えなかったあの貴族たちと同じだ。弱い者を見下し、平然と踏みにじる…)


 再び込み上げる怒りをかろうじて抑え、ユイスは穏やかそうに口を開いた。


「ここで行っている改革は、レオナート王子殿下から直々に認められたものだ。違法どころか、王家公認の実証実験と言っていい。あなたたちこそ、正式な手続きを踏んでいるのですか?」


 役人は一瞬目を細め、むしろ面白がるように鼻を鳴らす。


「はは、王子殿下だと? 殿下の勅令があろうがなかろうが、この土地の正式な領主はカーデル伯爵様だ。伯爵家の管轄下で無断工事など、まさに越権行為。王家の書面も見たことがないが? そんなものがあるなら出してみるがいい」


 挑発に近い言い草。トールは一気に血の気を上げようとするが、ミレーヌに制止された。


「トール、だめ…! 向こうには兵士もいるし、下手をすれば処罰されちゃう…」


 トールは悔しそうに口を結び、役人を睨み付けたまま後ろへ下がる。


 ◇◇◇


 エリアーヌがユイスの袖を引く。


「ユイス君、どうしよう? せっかく村のみんなが協力してくれたのに…こんなの、今さら撤去なんて…」


 彼女の目には涙がうっすら滲んでいる。住民たちを手伝い、共に汗を流した日々を思い出しているのだろう。


 村のあちこちで改修された水路や畑は、今では以前の数倍の効率で作物を潤し、大勢の生活を支える基盤になりつつある。その成果が“伯爵の都合”で全て壊されるなど、とても受け容れられるはずがない。


 ユイスは冷静を保とうと息を整え、役人を真正面から見据えた。


「もし本当に書類が正当なものであれば、王族が下した許可証と衝突するかもしれない。だが、まずはレオナート王子殿下にも確認する必要があるはずだ。すぐ壊せというのは、いくらなんでも乱暴すぎませんか?」


 役人は書類をバサバサと振りかざしながら言い放つ。


「貴様、口の利き方を知らんな。伯爵様の御威光を侮辱するなよ? 王子殿下とやらが何を言おうと、この土地を直接治めるのは伯爵家だ。伯爵様の意に背けば、貴様らには相応の処分が下る…この意味がわからないのか?」


 兵士の一人が手の甲で剣の柄を軽く叩く。嫌な空気が流れた。


 住民たちは一斉に目をそむけ、誰も声を上げられない。あの過去の“恐怖政治”を思い起こすかのようだ。既に涙を浮かべている年配者もいる。


 ◇◇◇


 リュディアはそんな沈黙の中、一歩前へと出る。


「待ってください。その命令、本当に正式な判断なの? カーデル伯爵が自ら署名した書状だとしても、現在この小領地改革はレオナート殿下の承認を経ています。伯爵家が全面的に妨害するなら、王家と真っ向から衝突する可能性も…」


 一見穏やかだが、彼女の声にははっきりとした強さが宿る。


「イヴァロール伯爵家の令嬢である私が保証します。わたしたちには公的な許可がある。カーデル伯爵家が表立って違法扱いするなら、保守派と王族の争いに発展しかねません。よろしいのですか?」


 役人の眉がわずかにひきつった。「イヴァロール家…? 確かに有名だが、ふん、母が平民出身という話の令嬢か…」と小声で口にする。その言葉を聞いたリュディアの頬がピクリと震えるが、必死に怒りを鎮めている様子だ。


「どちらにせよ、伯爵様が直々にこの改革を無効とおっしゃっているのだ。王子殿下の承認だろうが、書類を突きつけられたら従うしかないだろう?」


 役人はそう吐き捨てると、今度はシェリーを指さす。


「領主代理であるお前が、直ちに工事の中断命令を出せ。存分に使ったこの水路や畑も元通り埋め戻せ。さもなくば…わかるな?」


 シェリーはきつく唇をかみ、手元の書類を強く握りしめた。


「…私はレオナート殿下の特別プロジェクトを預かっています。このまま何の連絡もせず、工事を止めるわけには──」


「では、力ずくで止めるまでだ!」


 役人の合図で、兵士たちが周囲の畑や水路を見回り始める。何かを壊そうとしているのか、工具らしきものを手に歩き回る姿も見える。


「やめろ!」


 テラが叫んで駆け寄ろうとするが、ボルドが肩を押さえ、必死で引き留める。


「行くな、テラ! 相手は兵士だぞ、武器を持ってる…」


 村人たちは次々に後ずさり、混乱と怒り、悲しみがごちゃ混ぜになったような騒ぎが広がる。ユイスは頭を巡らせ、どう動くべきかを瞬時に考える。


 ◇◇◇


「落ち着いて!」


 ユイスは腹の底から声を張り上げた。


「ここで無理に衝突したら、向こうの思う壺だ。彼らの暴力を誘発すれば、住民が余計に危険に晒されるだけ…」


 その言葉に反応したのか、ボルドはこわばった表情でうなずく。テラも悔しそうだが、なんとか踏みとどまった。


 リュディアが小さく息をついて、ユイスの隣に立つ。


「ユイス、どうにか回避方法を考えないと…。このままでは、私たちだけじゃ止められないわ」


「わかってる。だけど、ここで手をこまねいていたら、全てを壊される。シェリーさん、あなたも上に掛け合ってもらえますか? レオナート殿下に急報すれば、伯爵の独走を止める手段があるかもしれない」


 シェリーは目を伏せ、一瞬だけ躊躇した様子を見せる。


「もちろん、殿下への連絡はすぐにでもします。でもそれで間に合うのか…」


「やってみるしかないでしょう。あなたが領主代理として正式に抗議を上げる。そして俺たちは…」


 彼は自分のノートにそっと手を置き、決意に満ちた眼差しで続ける。


「俺たちは、この村を守り抜く。フィオナを見捨てた奴らと同じ轍は踏まない…」


 シェリーが小さく、けれどしっかりと頷く。「はい。必ず殿下に報せます」と、すぐに近くの部下に指示を飛ばす。その表情には、揺るがぬ覚悟が宿っていた。


 ◇◇◇


 一方、役人は「何をこそこそ話している?」と侮蔑を込めたまなざしで彼らを見ている。


「こちらは急ぐと言っているんだ。さあ、現時点で工事を止めてくれるかね? 従わないなら…いかなる手段を使っても排除するぞ」


 ユイスはその男に対し、できるだけ冷静な口調で告げる。


「あなたたちは兵士を連れてきているが、暴力を振るえばただの襲撃になる。それを王都に報告すれば、あなた方にとっても不利になるのでは? どうか少しだけ時間をもらいたい」


 役人は唇を曲げながら笑った。


「ほう、面白いことを言う。では猶予をくれてやるとしよう。とはいえ、一刻ともたずに従わなければ、私たちも『強制撤去を命じられた』という形で動くまでだ。村人に流血の責任を負わせるのは忍びないが、それも選択次第だな」


 凍り付くような空気が村を包み、誰もが沈黙した。そんななか、ユイスはぐっと唇を引き結び、わずかに首を横に振る。


「わかった…とにかく、少し時間をくれ」


 ◇◇◇


 やがて役人たちは村はずれに馬車を停め、部下の兵士を数人散らして村内を監視させる態勢を取る。これでは住民が迂闊に工事を再開することもままならない。


 整備した水路や灌漑システムを勝手に破壊される可能性もあり、問題児クラスのメンバーは村人を守ろうと、手分けして監視体制に入る。


 トールが眉をひそめたままこちらを振り返った。


「ユイス、どうする? このままじゃ、奴らの好きにされちまう。あいつら、手当たり次第に壊しやがるかもしれないぞ」


 ユイスは周囲を見渡し、緊張した面持ちの住民たちに視線を送る。


「とりあえず暴力だけは避けたい。いまシェリーさんが王子殿下に緊急連絡を送っているはずだ。カーデル領主の行為がどれほど強引か、王都に伝われば正面から止められるかもしれない」


 エリアーヌは胸の前で手を組んだまま、小さく震えている。


「でもレオナート殿下が動く前に、兵士が強行してくるかも…そうなったら私たちに抑えきれるかな…」


「僕らは戦いが本分じゃないとはいえ、数式魔法で守る力はある。だけどあくまで防衛目的にしないと、大義名分が崩れる。レオナート殿下の支援を受けている以上、ここで下手に手出しできないから…」


 ユイスは自分に言い聞かせるように言葉を吐く。


 ◇◇◇


 リュディアが静かに言葉を継いだ。


「下手に先に攻撃してしまえば『王子の改革派はクーデターまがいの暴挙をやらかしている』という口実を与えるだけになるものね。そうなれば伯爵側もさらに強く出てくるわ」


 ユイスは深く頷いたあと、ノートを見つめる。


「…カーデル領主本人が、さらに大兵力を差し向けてくる可能性もある。そうなる前に何とかしないと」


 村人たちは不安に駆られながらも、ユイスたちの言葉に耳を傾けている。中には「もう伯爵様に逆らわないほうが…」とこぼす者も現れ、テラとボルドが必死に説得する声が遠くから聞こえた。


 ◇◇◇


 日が高く昇るにつれ、村には落ち着かない雰囲気がじわじわと広がっていく。


 いつもなら水路の水がさらさらと流れ、住民が活気づいた作業をしているはずの場所には、伯爵家の兵士が足を踏ん張り、険しい表情で見張っていた。


「勝手に動くなよ」と睨まれるたび、村人たちは委縮し、立ち尽くす。


 やがて、トールが歯ぎしりをしてエリアーヌたちと顔を見合わせる。


「こんなの耐えられねぇ。ほんの数日前まで笑顔で作業していたみんなの顔が、また暗いままじゃねえか…」


 エリアーヌは泣きそうな顔で首を振る。


「でも、力づくであの兵士たちを追い返したら…どうなるんだろう…。もっと恐ろしい報復が…」


 ユイスは二人の言葉を耳にしながら、強い決意を胸に抱く。


(何もできずに奪われていく姿を、ただ見ているわけにはいかない。俺は絶対、失敗しない。あの時のように、フィオナを救えなかった無力さを繰り返すものか…)


 そこにリュディアが駆け寄ってくる。


「ユイス、シェリーさんが手紙をまとめ終わったわ。すぐに使者が王都へ出発するそうだけど……。伯爵家の手が早ければ、その報せが届く前に彼らが暴れ出すかもしれない。心の準備をしておいたほうがいいと思う」


 ユイスは目を閉じ、一瞬だけ息を深く吸った。


「わかった。とりあえず、問題児クラスの仲間で村の防衛ラインを作ろう。真っ向から兵士と戦わないまでも、住民が無理やり排除されない程度に護衛を配置する。数式魔法の結界やバリアも用意できるかもしれない」


 リュディアの表情に複雑な色が浮かぶ。


「わたしも協力するわ。伯爵家が王子の許可を無視してこんなことをしてくるなんて…許されない。人々を守るためなら、血統でも数式でも、使える力は全部使いたい」


 ◇◇◇


 そうして準備を始めようという矢先、カーデル伯爵の役人らしき男が再び広場の中央に姿を見せた。焦れた様子で兵士を数名引き連れ、声を張り上げる。


「おい、そっちの学生ども! 勝手に動くな。破壊を命じたものは、いますぐ解体作業に入れと伝えたはずだが?」


 ユイスは相手を直接見やり、ギリリと奥歯を噛む。


「我々は、この村を良くするために改革を続けています。あなたがたの言う“違法”というのが本当か、王都との連携がつくまで判断を待ってほしい」


「それはお前たちの都合だろうが。伯爵様の領地で勝手に実験などして、のうのうと偉そうに。…ふん、時間をやったところで無駄かもしれんが、貴様らがそこまで言うなら──」


 彼は極端に口角を吊り上げる。


「今日いっぱいだ。日が沈むまでに、撤去作業を開始しないなら、私たちが武力を使ってでも止めさせる。いいな? 下らぬ抵抗などすれば、殿下の勅令以前に“反乱”と見做すぞ」


 それだけ言い残すと、男は兵士を数名引き連れ、再び馬車のほうへ去っていった。村人たちは呆然とその背中を見つめるしかない。


 ◇◇◇


 一気に重い沈黙が落ちる。誰もが青ざめ、動揺を隠せないままユイスに視線を向けた。


「日が沈むまでって、あと十時間もないぞ…!」


「もし抵抗したら、どうなるんだ…? もしかしたら兵士の数が倍に増えて、もっとひどいことに…」


 ユイスは住民たちへ優しく声をかける。


「大丈夫です。すぐにどうこうはさせません。僕たち問題児クラスで、あなたたちの安全を守ります。だから、どうか落ち着いてください」


 心配気味に見上げる幼い子どもや、俯いている老人たち。その姿が、ユイスの胸をさらに熱くさせる。


(このまま引き下がれば、せっかく実った成果が全て無に帰す。何より、住民の悲しい顔はもう見たくない)


 ◇◇◇


 ユイスは仲間と顔を見合わせてから、皆に向かってはっきりと言い放つ。


「僕たちには、王都に報告する手段がある。シェリーさんが急いで手紙を送り、王都からの援護を待つことにする。時間はあまりないが、何とかして伯爵の横暴を食い止める対策を講じよう」


 トールはこぶしを握った。


「やってやろうじゃないか。俺たちの数式魔法を見せつけてやれば、あいつらも迂闊に手は出せねえはずだ」


 エリアーヌは不安そうな表情ながら、それでも震える声で言う。


「みんなで力を合わせれば…絶対に負けない。住民さんたちを守りたいもの…」


 ミレーヌやレオンも静かに頷き、リュディアはユイスの隣で目を伏せる。


「このまま伯爵家に踏みにじられるのは、私も許せない。…わたしなりに役に立つわ。イヴァロール家の力も、何とか動かせないか探ってみる」


 シェリーが駆け寄り、小声で語り掛けた。


「報告の手紙はもう手配しました。馬車で王都へ向かってもらっています。到着には丸一日以上かかるでしょうが、殿下が動いてくだされば何らかの救いがあるはず。でも、その間この村はどうなるか…」


 ユイスはしっかりと彼女の目を見つめ返す。


「大丈夫。僕たちが村を守ります。力ずくではなく、あくまで“防衛”の形を取りますが…必要があれば、数式魔法で住民を傷つけさせないようにする。そのための準備を、今から急ぎます」


 シェリーは瞳を潤ませながら、ひどく責任を感じている様子で頷いた。


「ユイス様…どうか、お願いします。わたしも最大限できることをして、時間を稼ぎます」


 ◇◇◇


 カーデル領主の圧力は刻々と迫っている。日が沈むまで、猶予は残りわずか。


 村には重苦しい雰囲気が漂い、住民たちも混乱のまま日常の手を止めてしまっている。しかし、ユイスたち問題児クラスは決意を固めた表情で足早に動き出す。


 トールは村の入り口へ行き、脅しに来る兵士たちを牽制する準備を。エリアーヌとミレーヌは住民に声をかけ、不安な人々をなだめ、一緒に隠せる物資や大切な道具を安全な場所に移す。リュディアはシェリーと共に書類や勅令の写しを整理し、カディス・ルーファスら王子派の近侍へ連絡できる手段を整える。


 それら一連の連携が、いつ乱されるかは分からない。だが、今やるしかない。


 ユイスは倉庫小屋に戻り、愛用のノートを再び開いた。数式理論をさらに改良し、防御陣を築く術式を練り上げようとしている。


「伯爵が実力行使で来たら、最悪の場合は戦闘に…いや、できるだけ村人を巻き込まぬ形で止めたい」


 彼は静かに目を閉じ、亡きフィオナの笑顔を思い出す。


(ここで立ち止まってはいられない。必ず、この改革を守りきる。再び誰かを失うわけにはいかないんだ…)


 倉庫の中は暑苦しく、外では兵士の不穏な足音が聞こえる。しかし、ユイスの決意は揺るぎない。ペンを走らせる彼の手はまったく休もうとせず、脳裏に浮かぶ術式を次々に書き込んでいく。


 日は高く、あと数時間もすれば夕刻を迎える。


 この僅かな時間で、果たして伯爵家の横暴を止められるのか。それとも悲劇が再び繰り返されるのか──


 ユイスは音を立てる扉の外を気にしながら、ノートへと視線を注ぎ続けた。


 ◇◇◇


 日没まであとわずか。その緊迫した時が刻一刻と迫るなか、村のあちこちでは問題児クラスのメンバーが身構えていた。声を潜めながら、仲間同士で合図を交換し合う。


「兵士たちはいまだに様子見を続けてるが、そろそろ動き出すかもしれない…」


 レオンが冷ややかな口調で囁くと、トールは腕を振り回して鬱憤を晴らすような仕草を見せる。


「来るなら来い。俺は退かねえぞ…」


 その横でエリアーヌが、ハラハラと落ち着かない表情。


「せめてレオナート殿下からの返事が間に合えば…」


 シェリーも固く結んだ唇を震わせている。


「信じています。殿下は私たちを見捨てない…はず。どうか一刻でも早く返答が…」


 ◇◇◇


 村人たちは家屋に閉じこもる者、子どもや年配者を隠し、畑周辺の貴重な道具を運び込む者など、慌ただしい。あの賑やかで明るかった改革の空気は、どこへ行ってしまったのかと思うほど冷たい沈黙が支配していた。そんな中、ユイスだけは最後まで姿を現さず、倉庫小屋に籠もって準備を続けていると聞く。


「ユイスくん、一体どんな術式を用意してるのかな…」


 ミレーヌがそんな呟きを漏らすが、誰も答えられない。


 そして──


 ◇◇◇


 日は西の地平へ沈みかけ、村の空がオレンジ色に染まり始めたころ。ついに伯爵側の役人が広場へ姿を現した。兵士の数も先ほどより増えている。あからさまに強硬手段に出るつもりなのだろう。


「さて、お前たちに与えた猶予は終わりだぞ。改革とやらをすぐに撤去しろ。さもなくば…」


 沈黙のまま、兵士たちが無言の圧力をかけながら押し寄せる。重い足音が近づくたびに、村人たちは後ろへ後ろへと逃げ腰になる。


 そのときだった。倉庫の扉が開き、ユイスがゆっくりと外へ姿を現した。以前よりも一段と鋭い目をしているが、その奥にはどこか悲しげな決意が垣間見える。彼はノートを抱え、仲間のもとへ駆け寄る。


「…時間切れか。わかった。ならば、僕たちのほうも準備はできている。簡単には壊させない」


 伯爵の役人が小馬鹿にした笑みを浮かべる。


「ほう? お前のような落ちこぼれが、何を言う。兵士たちの前でひとたまりもないだろうに。まさか戦うつもりではあるまいな?」


 ユイスはノートを抱く腕に力を込める。


「戦うつもりはない。ここにいる人々を守るための策を取るだけだ。それを見て、あなたたちがどう動くか…試してみようと思う」


 周囲の仲間たちが一斉にユイスへ視線を送る。彼はそんな視線を背中に受けながら、一歩役人たちに近づいた。


「この村を、改革を、守りきってみせる。二度と、理不尽に誰も奪われないために…」


 ◇◇◇


 一触即発の緊張状態が、夕陽に赤く染まる村を包み込む。その光景を目にしながら、住民たちは祈るような気持ちで息を呑んでいた。カーデル伯爵の使者がここで暴れるのか、それとも王都からの救いが届くのか──どちらに転んでも時間はほとんどない。


 ユイスたち問題児クラスが配置につき、リュディアも並び立つ。トールが歯噛みする。エリアーヌが唇を噛む。シェリーは震える手で書類を持ち、今にも飛び出したい気持ちを堪える。


 兵士の長が無表情に剣を抜き放つと、瞬間、空気が凍りついた。


「では…始めようか。馬鹿な庶民どもが、どんな奇術を使えるのか見せてみろ」


 その声は、あまりに嘲りに満ちていた。


 ユイスは強いまなざしで相手を睨み、ノートをぱらりと開く。その数式魔法の記述には、いくつもの新たな術式が編み込まれている。


(この先、どう転んでも…俺たちは負けない。フィオナ、見ていてくれ)


 そう小さく心の中で呟くと、ユイスはノートの文字に指を当てて静かに詠唱を始めた。

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