7. 王都ラグレア
ユイスは山あいの街道を離れ、王都ラグレアへ続く広い幹線道路を一人歩んでいた。行商人ラッドと別れたのは数日前のこと。簡易的な数式魔法で修理してやった魔導ランプが、彼の旅をいくらか軽くしているといい――そんな淡い思いを抱きながら、ユイスは黙々と歩みを進める。
遠目には、ゆるやかな起伏をなぞる道が地平線の先へ続いている。初夏の風は乾いていて、肌にふれると少し心地よい。だが、頭の中は一向に晴れなかった。胸の奥では、フィオナの死へ繋がった理不尽が燃え残り、ふとした拍子にその火種が熱を帯びる。
「……待っていろよ」
言葉には出さずとも、心の底で何度となく呟いた。王立ラグレア魔術学園に入れば、数式魔法をもっと洗練できるはず。貴族にも、社会にも、新たな風穴を開けられるかもしれない。
やがて、街道を進む人通りが増え始める。旅商や行脚中の神官らしき姿、あるいは馬に乗った下級役人らまで、服装も目的もさまざまだ。どこか浮き立った空気が漂うのは、王都へ近づいている証なのだろう。ユイスが遠くを見やれば、巨大な城壁と鋭くそびえる塔が、陽光を受けて燦然と光っているのが見えた。
「あれが……王都ラグレアの外郭か」
ごくりと喉が鳴る。王都の存在感は、それだけで人を圧倒してしまうほどだった。
近づくにつれて、まず視界に飛び込んできたのは頑強な石造りの外壁だ。厚みのある城壁の間に据えられた門は、飾り細工こそ精緻だが、門番の目つきは厳しく、通行証の提示や身分の確認に余念がない。貴族らしき馬車が通る時だけは、軽く頭を下げてスッと通す一方で、薄汚れた服の旅人には時間をかけてあれこれ問いただしている。
ユイスが順番待ちの列に並んでいると、後ろに続いていた男が小声でぼやいた。
「まったく、平民には何かと面倒でな……金でも握らせねえと長引くんだ」
見ればその男は中規模の荷車を引いている行商人らしい。彼の顔には諦め混じりの疲労が刻まれていた。ユイスは嘆きたくなる気持ちを胸に収め、静かに前へ進む。
運よく、ユイスが見せた奨学生の合格証明書(正式な通行許可状)が功を奏したらしく、そこまで厳しい詮索は受けずに済んだ。門番はやや訝しそうに書類を覗き込んだが、最終的には「よし、通れ」と言うだけで済んだのである。
門を抜ければ、そこには華やかな通りが広がっていた。石畳がどこまでも続き、大きな噴水のある広場には旅人や商人、あるいは観光客のような人々が雑多に行き交っている。露店が並び、客寄せの声が重なって耳に騒がしい。貴族の出入りが多いと見え、金や銀の装飾を施した馬車がゆっくりと行き過ぎ、馬具のきらめきが眩しかった。
「見ろよ、あの馬車。侯爵家の紋章だぜ」「ほら急げ、変にぶつかったら厄介だ」
庶民らしき通行人が道を避けるように左右へ散る。荒々しく威圧するわけでもないが、馬車の存在だけで自然と人がどけるのだ。その光景を見て、ユイスは思わず息を詰めた。
まるで貴族が走る道と庶民が歩く道は、もともと別々に引かれているようだ。見渡す限り、華やかに飾られた建造物が並ぶ一画と、くすんだ色合いの家屋が肩を寄せ合う地域が入り混じっている。それが同じ王都内で連続しているのだから、対比はいっそう際立つ。
やや大通りを外れたあたり、粗末な服を着た少年が座り込んでいる姿を見つけた。ユイスが目をやった途端、少年はか細い声で「薬……安く、治してほしい……」とつぶやいた。しかし、往来の大半の人間はそ知らぬ顔で通り過ぎる。銅貨を投げていく者は、ほんの一握りで、それも満足な施しと呼べるほどではなかった。
傍には傷を負ったまま倒れ込んでいる子どももいる。どう見ても適切な治療を受けられる状態ではない。その場にいた一人の女が、おそらく母親なのだろう、震える指で子どもを抱きしめて必死に呼びかけていた。しかしあたりを巡回する衛兵らしき姿はなく、医療魔法の届く気配もない。
ユイスは歩みを止め、思わず拳を握る。
(フィオナを救えなかった時と何も変わらない。弱い者はいつも置き去りか……)
彼は数歩だけ近寄り、その子どもの状態を確かめようとする。しかし子どもの傷は深く、簡易な治癒術でどうにかなるものではなさそうだった。そもそもユイス自身、今は大掛かりな治療ができるほどの魔力量も持ち合わせていない。
「くそ……」
ユイスの胸を焦げ付くような憤りが駆け抜ける。目の前の光景を黙殺することは、まるでフィオナをもう一度見殺しにするようで耐えがたかった。けれどここは王都。許可のない医療魔法の行使は重大な掟違反となる。カーデルに阻まれたあの夜から何も学んでいないのか――そう自分を嘲る声も頭をよぎった。
「あんた、やめときなさいよ」
通りすがりの老婆が、低い声でユイスに囁く。ユイスが反射的に老婆の方を見れば、その眼差しは疲れ切っていた。
「貴族の認可なしで助けるなんて、不可能に決まってる。下手に手を出せば捕まるだけだよ」
言い終えると、老婆は諦観の混じった溜め息をこぼしながら、その場を後にする。
(こんなことが……まかり通っていいわけがない)
フィオナの姿が脳裏によみがえる。助けを乞う声を届かせられなかったあの日。あの苦しげな呼吸と、消えそうな笑顔。何もできずに見送るしかなかった。ユイスは奥歯を噛んだまま、スラムのような裏通りにしばし目を向ける。埃が積もった小道の先には、同じように行き場を失った人々がぽつりぽつりと座り込んでいる。
「ごめん……今の俺には、どうしようもない」
低くかすれた声が自分の喉から漏れる。忌々しく感じつつも、現実は変えられない。ユイスは瞼を閉じ、もう一度だけ悔恨の想いを噛みしめると、背を向けて歩き始めた。急がなければ――学園へ行き、数式魔法を極めるしか道はない。そうしなければ、何も動かせないのだ。
最初こそ観光地のように賑わっていたが、王都を奥へ進むにつれ、だんだんと貴族街の景観が強まる。大理石を惜しみなく使った邸宅が建ち並び、鉄製の門扉には貴族の家紋が誇らしげに描かれている。令嬢たちがきらびやかなドレスを纏い、道行く高級馬車を眺めては微笑み合う。その一方で、道の端に寄せられた下層民が羨望と嫌悪の入り混じった視線を投げかけていた。
飾り立てた貴族の笑顔と、見捨てられる者たちの沈黙。両者の埋めようのない溝が、ユイスの視界の中で際立つ。まるで、豪華絢爛な刺繍の裏糸を引きずり出して見せられているようなものだ。
「ここも結局、俺の村と同じだ。強い者だけが守られ、弱い者は踏みにじられていく」
ユイスは奥歯をぎりりと噛む。失ってしまったフィオナを思い出すたび、心が焼け焦げそうになる。けれどその怒りと悲しみこそが、自分を進ませる燃料だと信じていた。
しばらく大通りに沿って歩き、ようやく見上げた先に、壮麗な建造物が姿を現した。高い柵の先に広大な敷地があり、大理石の外壁が連なる。門扉には“王立ラグレア魔術学園”の紋章がきらめき、門番の兵士が厳粛な態度で立ち尽くしている。
「……ここか。王都ラグレア魔術学園」
ユイスはほとんど無意識のうちに口を開いていた。高くそびえる門の上部には、歴史ある意匠を刻んだ紋章が彫られ、その荘厳さに一瞬気圧される。だが、同時に喉の奥が熱くなるのを感じた。ここで学び、研究し、数式魔法を完成させなければならない。何が何でも、力を手に入れなければ。
門のそばには、さきほどの王都外郭と同様に書類をチェックする衛兵が配置されている。だが彼らは淡々と仕事をこなすだけで、入学手続きと思しき若者にはそこまで冷淡ではないようだ。その背後には、既に入学を済ませて学園の敷地内を歩く生徒たちの姿も見える。華やかな制服を身にまとい、笑みを浮かべて談笑している者。あるいは緊張した面持ちで足早に進む者。みな貴族やそこそこの家柄の出身なのだろう。ユイスのように粗末な旅着で立っている者は、見渡した限りいなかった。
(どうせ目立つだろうな。貴族連中に鼻で笑われるのは、村を出る前から覚悟している)
それでも、引き返すわけにはいかない。学園に潜む“貴族主義”を正面から突き崩すための道でもあるのだから。ユイスはゆっくりと門の内側へ足を踏み出そうとした。その瞬間、無意識に胸の奥に微かな痛みが走る。いつのまにか、フィオナの笑顔が思い浮かんだ。彼女がもし隣にいてくれたら、どんな言葉をかけてくれただろう。
――ありがとう。あなたの魔法なら、きっと誰かを救えるよ。
確かにそんな声が聞こえた気がして、ユイスは思わず瞼を伏せる。救えなかった後悔を噛みしめながらも、前へ進む意志を固めることが、今の自分にできる唯一の償いだ。フィオナとの思い出は、傷と同時に支えでもある。
門の前で立ち止まったユイスは、深く息をついて小さく呟く。
「見ていてくれ、フィオナ。数式魔法だって、俺の意志だって、ここで証明してみせる」
両の手を固く握りしめると、門の向こうから吹き込む風がユイスの頬を撫でた。あの日、村のはずれで味わった切なさが胸を刺すけれど、今は震える指先を自分で奮い立たせるしかない。弱き者が報われる世界を創るために、そして復讐を遂げるために――ユイスはこの巨大な学び舎の中へ、一歩を踏み出した。
足元の石畳が硬く響き、空には王都の鐘の音がわずかに反響する。王都ラグレアの壮大さに目を奪われながらも、ユイスは黙々と学園の中庭を歩いていく。
振り返ることなく、前だけを見据えて。