28. 集大成
朝の陽ざしが穏やかに降り注ぐ小領地の村。かつて賊や保守派の妨害に苦しめられていたとは思えないほど、そこには活気が戻りつつあった。水路の脇では新しい灌漑システムが稼働し、軽やかな水音を響かせている。畑には見るからに健康そうな作物が並び、村人たちが手を取り合って作業を進める姿があちこちに見受けられた。
村の中心部では、ユイス・アステリアが問題児クラスの仲間たちと共に、整備したばかりの水路を点検している。足元の泥を軽く払いながら、ユイスは感慨深げにその流れを見つめた。
「水量も安定してるな。これなら、昔みたいに井戸水が枯渇して苦労することも減るはずだ」
「すげえ…まさか数式魔法でここまでできるなんてよ。オレが途中で火球を撃つのをやめさせられたのも、今ではいい思い出だぜ」
トール・ラグナーが腕まくりしながら、どこか誇らしげに笑う。彼が制御を失いかけた炎系魔法も、ユイスのリライト刻印のおかげで安全に収束できたのだ。
「でも、私たちができたのはあくまで下ごしらえに過ぎないんですよね。あとは住民の皆さんが、ちゃんと使っていけるかどうか…」
ミレーヌ・クワントが緊張混じりに小声でつぶやく。商家の娘らしく、彼女はいつもコスト計算や資材の調達面で助けとなってきた。
「そうだね。でも、最初のハードルは越えた。今回の設備を実際に使ってみて、次は改良を重ねていけばいい。僕たちが仕組みだけでも提示できたのは大きいはず」
「うんっ」
ユイスの言葉に応じて、ミレーヌは胸をなで下ろした。彼女の“あがり症”も、住民たちと触れ合ううちに少しずつ和らいできているらしい。
◇◇◇
テラとボルド、地元の若者ふたりが集落の東側から走り寄ってきた。彼らの表情は子どものように浮き立っている。
「ユイスさん、あっちの畑も大成功ですよ! これまでだと水不足で育たなかった野菜が、まるで生き返ったみたいに青々してます」
「こっちの水路も詰まりなし。みんな ‘ユイスさんたちのおかげだ’ って大喜びだ!」
ボルドがワクワクした声で続けるたび、ユイスは自然と顔に笑みを浮かべていた。ふとフィオナの面影が脳裏をかすめる。もしあのとき、彼女を救う手立てがあったなら……。ユイスは少し切ない気持ちに駆られながら、それでも今の達成感に胸が熱くなる。
そこへエリアーヌ・マルヴィスが、ごちそうを抱えた村の女性たちを連れてやってきた。香ばしい湯気があたりを包み込む。
「ユイスたちに食べてもらおうと思って、皆さんが作ってくれたの。野菜スープと焼きたてのパン、他にもいろいろ!」
「あなた方が改革してくださったおかげで、私たちもこんなに作物を育てられるようになりました。本当に感謝してます」
村の主婦らしい女性が笑顔でそう言うと、周りの住民たちも続々と集まって、賑やかに拍手や歓声を上げた。エリアーヌは受け取った木皿を嬉しそうに抱きしめ、少し涙ぐみながらペコペコと頭を下げている。
「えへへ、なんだか照れるね…わ、これすごくいい匂い。うわぁ、おいしい…!」
彼女が熱々のスープをすすり、頬をゆるめる様子に、周りも思わず微笑ましい空気に包まれる。トールはパンにかじりつきながら、「ずっと体力仕事ばっかだったから助かる!」とガツガツ頬張っている。
◇◇◇
その光景を少し離れた場所から見つめるリュディア・イヴァロール。彼女は風になびく髪を軽く押さえ、感慨深げに眼差しを向けていた。
(血統なんて関係なく、誰かを救える魔法があるなんて。それもここまで実用的だなんて……)
かつては “伯爵家の娘” としてしか見られなかった自分の境遇が、少し変わるかもしれない。そう考えた瞬間、胸に小さな高揚感が走る。同時に、目の下にうっすらクマを浮かべたユイスの姿が目に入った。
「ねえ、あなた…また寝てないの?」
「ん? ああ、ちょっと数式の検証で行き詰まってて、夜通し演算してた。大丈夫、ここが踏ん張りどころだから」
ひどく疲れているはずなのに、ユイスの瞳には揺るぎない決意が宿っている。まるで何かにとりつかれたかのような彼の様子に、リュディアは少し頬を膨らませながら、しかし目線はどこか優しい。
「まったく…あまり無茶をしすぎると、体を壊すわよ。私がどれだけ心配してるか、わかってるの?」
「……心配、か。いつもありがとうな、リュディア」
「べ、別に…。あなたが倒れたら、みんなが困ると思っただけよ」
そう言いつつ、リュディアはわずかに顔を赤らめて視線をそらす。彼女のツンとした口調を聞いて、ユイスは微かな笑みを漏らした。
そんなふたりの距離を、エリアーヌたちが「仲がいいね」「ほらほら、スープが冷めるよ」と茶化すと、リュディアは「余計なこと言わないの!」とさらに赤面するのだった。
◇◇◇
しばらくして、カディス・ルーファスが村の奥から姿を現した。王子レオナートの側近たる彼は、礼儀正しく軽く頭を下げ、用意していた書簡をユイスへ差し出す。
「小領地の改革、順調のようですね。殿下もあなた方の活躍を大変喜んでおられます。近く、王都にて成果を正式に報告する場を設けるとのことです」
「そう……あの人が喜んでいるのは、数式魔法の進展が都合よく使えるから、かもしれない」
ユイスは戸惑いと警戒が入り混じった表情で、書簡を丁寧に受け取る。カディスは微笑みを崩さず、しかし声をひそめた。
「保守派の動きが再び活発化する可能性もあります。殿下の後ろ盾があれば、小規模な干渉はしばらく抑えられるでしょう。しかし本気で潰しにかかられたら…」
「わかってる。だから俺も、まだまだ改良しなきゃいけない」
ユイスは心中にフィオナの姿を思い浮かべながら、強く拳を握りしめた。
そのやりとりを傍で聞いていたリュディアは、そっとユイスの横顔をうかがう。彼が次に踏み込もうとしているのは、さらなる数式理論の深化。それはまた彼の身体を酷使し、危険な場面に踏み込む可能性を意味する。
(でも……きっと、止めることはできないわね)
リュディアは小さくため息をつきながら、それでもユイスを支えようという決意を胸に宿していた。
◇◇◇
夜になり、村の一角にある小さな灯火のもと。ユイスは手製のノートを開き、簡易テーブルの上で黙々と計算を書き連ねていた。
遠くから聞こえる住民の笑い声が、今日一日の成果を物語る。数式理論が生み出したインフラ整備が、確かに人々の暮らしを変えつつあるのを肌で感じる。
ユイスはペンを置き、そっと目を閉じた。
(フィオナ……数式魔法がこんなふうに役立つなら、少しは世の中を変えられるのかもしれない。もっと、もっと完成度を上げて……)
荒い息をつきながら、ユイスはノートの端に刻印のメモを書き込み、疲れた指先を軽くもみほぐす。足音を忍ばせて近づいてきた仲間が声をかけようとしたが、寝不足のユイスを気遣い、そっと後ろ姿を見守るだけにとどめる。
(今のままじゃ、保守派の本気を相手にするには足りない。カーデルの件だってまだケリがついてない。俺にできるのは──理不尽を壊せる力を、数式理論で追い求めること)
ほんの一瞬、フィオナの微笑む姿がまぶたの裏に浮かぶ。ユイスはかすかに唇を引き結び、ペンを握り直した。
「……あともう少しだ」
誰に聞かせるでもなく、静かに誓うような声が暗闇に溶けていく。




