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26. 数式の可能性

 まだ夜明け前の湿った空気があたりに漂う頃、リュディア・イヴァロールは村の外れにある小さな臨時の治療所を覗き込んでいた。そこは賊の襲撃で負傷した住民たちが集められており、急ぎ応急処置を施すために布を敷いただけの簡易的な場所になっている。彼女が持参した薬袋をそっと置くと、怪我人の近くにしゃがみ込んだ。


「これで痛みが少しでも軽くなればいいのだけれど…」


 実家から持参した薬を分け与えながら、穏やかな口調でそう言う。頭を深く下げる村人に対して、リュディアは視線を落としたまま首を横に振った。


「気にしないで。大したことはしていないの…」


 実際、いま行っている回復魔法はそれほど高度なものではない。血筋による魔力でこそ人並み以上には治癒させられるが、それでも一晩で治せる怪我には限りがある。怪我人の痛ましそうな表情を見つめるうち、リュディアはどうしても思い出してしまう。幼い頃、平民出身の母が社交界で侮られ、どんなに努力をしても“純血ではない”と陰口を叩かれていた情景を——。


 ◇◇◇


 リュディアが治療所の奥から戻ってくると、エリアーヌが忙しそうに包帯や薬瓶を整理していた。


「ありがとう、リュディア。あなたが持ってきてくれた薬、とても助かってるよ。中には重症の人もいて…」


 エリアーヌの声はいつになく沈んでいる。一晩で賊を追い払ったものの、村には火の手がまわり、家畜や家を失った住民が多い。彼女もその惨状に心を痛めているのだろう。


「そう…少しでも役立てたならよかったわ」


 リュディアは細く息をつき、戸口の方へ目を向ける。


「他の負傷者はどうかしら?」


「村の広場のほうにまだ何人かいる。トールとミレーヌが看病してくれてるから、いったん落ち着いてると思う。でも、ユイスが気になって…」


「ユイスが?」


「今朝からほとんど休まずに動いてるみたい。自分の体だってかなり消耗してるはずなのに……」


 リュディアはその言葉に一瞬はっとした表情を浮かべると、隣に置いてあったローブをひったくるようにつかんで外へ向かった。


 ◇◇◇


 朝方の光がわずかに射してくる村の中央広場では、ユイスが畑の焼け跡や損傷した家を眺め、ノートに何やら書き込んでいた。彼の額にはうっすらと汗がにじんでいる。空が白んできているというのに、まだ夜明けの冷たい空気が残っていた。


「あなた、体は平気なの?」


 声をかけると、ユイスは驚いた様子で顔を上げる。


「リュディア…いや、大丈夫じゃないかもしれないけど、今はやることがたくさんあるから」


 その眼差しはどこか焦燥を帯びている。まるで自分を責めるように何かを必死に書き留めていたユイスの指先は、なおも震えそうな気配を残していた。


 リュディアは近づいて、彼のノートをちらりと見やる。そこには村の地形図や魔力コストの簡易的な計算が、びっしりと書き連ねられているようだ。


「もっと休みなさいよ。こんな状態で数式魔法だの改革だの言ってられないでしょう」


 思わず、少しきつい口調になってしまう。彼が無茶をしているのは分かっているが、それでも今は体のほうが心配なのだ。


「もし昨日の戦いでリスクを取らなかったら、もっと大きな被害になってた。わかってるんだ。自分の体力が限界近いことも、危険だってことも。でも…これ以上、見捨てたくないんだ。何もできずに失うのは、もうこりごりだから」


 その言葉を聞いた瞬間、リュディアは胸の奥で苦しくなる感覚を覚えた。襲撃される前にユイスが見せた強烈な数式魔法の威力は、彼の努力の成果そのものだ。それを支えたのは、血筋ではなく、彼自身が編み出した理論。——しかも、その理論は血統なしでもあれほどの強さを生み出すという事実を、誰よりも痛感しているのが自分だった。


「あなたは…ほんとにどうしようもなく頑固ね」


 言いかけて、言葉が途切れそうになる。少しでも気を抜けば「無茶しないで」と抱きとめたくなるが、そうするのは彼の心を折ってしまいそうに感じるから。


「いいから、少し休んだらどう? 貴族も庶民も、あなたが倒れては改革どころじゃないでしょう」


「休むわけにはいかない…って言いたいけど、説得力ないな」


 ユイスはかすかな苦笑いを浮かべ、ノートの頁を閉じる。


「わかった。せめて朝日がしっかり昇るまでは少し横になるよ。…ありがとう、心配してくれて」


 リュディアは彼の真っすぐな瞳を見返せずにいた。急に胸の奥が熱くなる。自分の血統がどれだけの魔力量を誇っていようと、あの夜の彼らの連携や思考には追いつけなかった。血統魔法が強さの全てだと信じ込んでいたわけではないが、現実として、こうも違うものなのかと痛感してしまったのだ。


 ◇◇◇


 治療所へ引き返す道すがら、リュディアの脳裏には幼い頃の光景がよみがえる。母が平民の出身だという理由だけで、伯爵家の令嬢でありながらも社交界の片隅に追いやられた過去。そのとき見ていた大人たちの冷たい笑顔は、今でも彼女の胸に爪痕を残している。


(もし…数式魔法のような新しい可能性が広がれば、母のように“純血じゃない”と後ろ指を差される人が減るかもしれない。血筋だけに頼らない魔法なら…)


 足元を見つめながら歩いていると、トールがこちらへ駆け寄ってきた。


「リュディアさん、これから負傷者を手分けして移動させるんだけど、手が足りなくて…」


「わかったわ。すぐ行く。薬もまたいくつか持っていくから」


 自分にできることを、必死に探す。それはユイスのように式を組んでみせる学術的なものではない。しかし今、自分が扱える血統魔法や家の薬を使って、ほんの少しでも回復を早められるなら——その積み重ねが、やがてユイスの数式理論とも結びついて、より多くの人を救う力になりうると感じ始めていた。


「そうだ、リュディアさん。ユイスがさっき、襲撃の件で『ただの賊じゃないかもしれない』って言ってたけど、どう思う?」


「…私もそう思う。こんな時期に、あれだけ大勢が襲いかかってくるなんて不自然だわ。誰かが裏で糸を引いている可能性は高い」


 リュディアの表情が引き締まる。保守派のクラウスが見え隠れしているのでは、とユイスも言っていた。正確な証拠はないが、ここで油断すれば、さらに大きな混乱がもたらされるかもしれない。


(血統に頼ってただ強いふりをするのではなく、本当に人を守るための力が必要なのね。あの夜のユイスと仲間たちみたいな——でも、私だって伯爵家の娘として、できることがあるはず)


 ◇◇◇


 夕方近く、一通りの負傷者の搬送を終えたリュディアは、村に残る焦げた家屋を見渡した。ほんの数日前までこの場所には、収穫を祝う笑い声があふれていた。今、破れた屋根越しに赤い空が広がっている。


 彼女の胸には、ある確信が芽生えかけていた。自分が血統を武器にしていたとしても、ユイスの数式魔法という革新と真摯に向き合えば、もっと多くの人を救えるかもしれない。伯爵家の立場を気にして躊躇するより、まずは実際に変化を起こしてみせたい。母の生まれを馬鹿にされて押し黙っていた自分は、もう卒業したいのだ。


「リュディア、そっちの作業は終わったのか?」


 振り返ると、少しだけ休んだらしいユイスが佇んでいた。まだ疲れは抜け切っていない顔だが、先ほどよりは呼吸が楽そうに見える。


「あなたこそ、ちゃんと横になってた?」


「一応ね。少しは楽になったよ。……ありがとう」


「べ、別に。そのくらいしてあげないと、そのうち本当に倒れそうだもの」


 思わず逸らした視線の先で、淡い夕焼けがゆっくりと夜の色へ溶け込もうとしている。リュディアは小さく息をつき、心の中でそっとつぶやいた。(もしこの村を変えられたなら、わたしの迷いも晴れるのかもしれない——血統だけで判断されるような世界を、いつか変えられるのかもしれない)


 そんな彼女の願いを知ることなく、ユイスは「今夜は早めに休むべきだ」とだけ言い残し、また何かの作業に戻るようだ。相変わらず無茶をする彼の背を見て、リュディアは「もう…」と呟いてから、静かに微笑んだ。そうやって人を守ろうとする頑固さこそが、ユイスの強さの根源なのだと思うと、なぜだか胸が熱くなるのを止められない。


(私にもできることがある。血統の力を否定する気はないけれど、数式魔法が生む可能性を見逃すわけにはいかない。伯爵家の令嬢としても、ユイスたちの仲間としても、もっと強くならなくちゃ)


 夕闇に溶ける村の通りを、リュディアは背筋を伸ばして歩き出す。遠くから聞こえる燃え残った家屋の崩れる音や、村人のため息にも、もう怯まない。次に何が襲ってきても、必ずやり遂げる。平民の母を背負う自分も、伯爵家の責任を担う自分も、そして仲間の力を知った自分だからこそ——そう強く信じながら、消えかけた灯りのほうへと足を進めた。

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