20. 不穏な気配
夕陽が沈む頃。
少し離れた路地裏にて、クラウス・エグレットの姿がある。背後には彼に従うらしい男が数人、妙に冷たい目つきで集落を見回していた。
「いいか。奴らがどんなに『生活に役立つ魔法』と言い張っても、結果として税を上げるかもしれん。お前たちの生活が良くなると思うか?」
クラウスの低い声。
彼は道端で足を止めていた村人に、あたかも親身になっているかのような態度で近づく。実際にはその口元が嫌な笑みを浮かべているが、暗がりにまぎれて分かりにくい。
「そ、そんなことは……でも、ユイス様たちが浄水の魔道具を配ってくれて、病人も助かる可能性があるって……」
答えたのは、やせ気味の初老の男。言葉こそ頼りないが、彼の中には一瞬「救われるのなら」という希望があった。
だがクラウスは鼻で笑い、上から見下ろす。
「領地の医療をそんな簡単に改善できるものか。下手に魔法をいじれば、魔力暴走もありえる。事故が起きれば領主様に責任を追及され、村の負担が大きくなるぞ。あの連中も所詮は“研究”とやらで遊んでいるだけだ」
言い終えると、初老の男の顔が少しこわばった。
「……そう、ですか。そう言われれば……確かに、魔力暴走というのは、怖い話ですな……」
喉を鳴らしながら、彼は踵を返した。明らかに心が揺れている。クラウスはその背を見つめ、満足げに唇を歪める。
◇◇◇
翌朝。
ユイスは村の中心部にある、やや立派な建物の前で足を止めていた。リュディア、トール、ミレーヌ、そしてレオンも一緒だ。建物の扉を開けると、そこには昨夜まで賑やかだった気配がうそのように冷え切った空気が漂っている。
小さな丸テーブルには住民たちの姿がちらほらあるが、どことなく落ち着かない表情だ。
トールは扉越しに集会所を見回し、首を傾げる。
「なんだか昨日と雰囲気が違うな。浄水魔道具を試した人たちは、もっと盛り上がっても良さそうなのに……」
エリアーヌが隣で、手に持った小さな回復ツールを握り締めながら深く息をつく。
「ねぇ、トール……もしかして、変な噂でも流されたのかな。昨日はあんなに喜んでくれてたのに……」
レオンが苦い顔をして呟く。
「保守派の嫌がらせってところだろ。あいつら、一度勢いづかせたら簡単に止まらないからな」
その言葉を聞いたユイスは、辺りを一瞥する。
「……やっぱりか。クラウスが動き出してる可能性が高い。シェリーさんが言ってたんだ。『叔父上は住民を煽るのが得意』だって」
苦い思いを込めたまま、ユイスは短く息を吐く。
◇◇◇
シェリー・エグレットがやって来たのは昼過ぎだ。
集会所の入口でユイスたちを見つけると、少し小走りに近づいてくる。いつもの落ち着いた表情は影を潜め、緊張感が滲んでいた。
「クラウス叔父様が昨夜、住民数名に直接声をかけたようなんです。『こんな魔法に踊らされて痛い目を見たくないだろう』とか、『結局ただの実験台にされるだけ』だとか……」
そう言いかけたところで、シェリーの眉が下がる。
「住民たちも戸惑っているようで……私は、何とかしようと思ったのですが、叔父様には通じなくて」
ユイスがテーブル越しに腰を下ろし、軽く頬に手を当てる。
「つまり、僕たちがせっかく作った浄水装置や回復ツールを“危険な試作品”と吹き込んでいるわけですね。住民の不安を煽られたら、たしかにもう一度信用を得るのは大変かも……」
リュディアが真剣なまなざしでシェリーを見やる。
「住民の中にも心配性な人は多いでしょうから、『魔力量の低い貴族が無理をしてると事故でも起きるかも』みたいな話を吹聴されたら、やはり身を引いてしまうかもしれませんね」
ゆっくりと言葉を区切る彼女の横で、ミレーヌが眼を伏せる。
「わたし、昨日は少し手応えを感じられたのに……うう、どうすればいいんでしょう。計画が根本から崩されたら、数式魔法が広まる前に拒絶されちゃう……」
「保守派にしてみれば、俺たちの活動なんて目障りでしかないからな」
彼は机の上にあった紙切れを手に取り、そこに書かれた文字を眺める。おそらく住民への簡単な案内文のようだが、「新たな魔法技術をぜひ協力して試してほしい」という文面が、今は仇になりそうだった。
「でも、こんなことで引き下がるわけにはいかないだろ」
「いくら噂で脅されたって、実際に魔道具を使って喜んでる人たちだっている。俺たちがもっと分かりやすい成果を出せば、『ほんとに役立つんだ』って確信できるじゃん」
エリアーヌも顔を上げ、「そうだよ、せっかく浄水で喜んでくれた人がいたんだし……」と力なく頷く。
◇◇◇
一方、その頃。
村の会合場から少し離れた細い通りでは、クラウスが別の住民に声をかけていた。周囲に目を光らせながら、あえて誰もいない場所で言葉を囁いているらしい。
「昨日の浄水? あれはな、ただ表面上だけを綺麗に見せただけかもしれんぞ。実際に飲み続けたら体に不調が出るなんてことはないと言い切れるか?」
「そ、それは……でも……」
話しかけられたのは、ボルドの友人という青年で、まだ十代後半の少年。やや頬がこけており、不安げな様子が見て取れる。
「お前たちが利用されているとも知らず、平気で魔道具を受け取ったら、将来大きな借金を背負わされるかもしれん。何が無料配布だ。世の中そんなに甘くないだろう?」
舌打ちを混ぜながら、クラウスは冷酷な目を向ける。背後に控えていた取り巻きたちが、無言の圧を加えるように少年を睨みつける。
「……そ、それは……」
青年は視線を逸らし、一歩後ずさった。心が揺れているのが見て取れる。
◇◇◇
数時間後。
集会所の軒下にテラとボルドが駆け込んで来た。二人とも顔が青ざめていたが、ユイスたちを見つけると急ぎ足で近づく。
「ユイスさん、大変……クラウス様が、また妙なことを言って回ってます。『無料の魔道具なんてあり得ない』とか、『失敗したらその賠償が村に来るんだぞ』って……」
ボルドが息を切らしながら言い、テラが悔しそうに唇を噛む。
「さっきまでご近所さんたちが『せっかくいいものを貰ったと思ったのに、不安だ』ってぼやいてて……。せっかく病弱な妹や祖父にも試してみようと思ってたのに、みんな怖がって……」
ユイスはノートを抱え直し、深呼吸を一つ。
「……なるほど。どこを突かれるかは分かってはいたけど、ここまで直接住民に扇動をかけるとはね。僕たちが成果を出したところを、徹底的に壊しにかかってる」
振り向けば、リュディアのまなざしが真剣にこちらをうかがっている。
「今、住民の不安を取り除ける手段は何かしら無いかしら。シェリーさんが動いても、クラウスの圧力には勝てないだろうし……」
ミレーヌがそっと手を挙げる。
「簡単にできることといったら……実際に使い続けてみせるとか、あの浄水を私たちが毎日飲む姿を見せるとか。住民の目の前で堂々とね。そうすれば安全性を証明できるんじゃないかな……」
なるほど、とユイスが頷く。
「うん、それはいい。『自分たちも毎日使っている』って実例を見せれば、住民も安心するかもしれない」
トールが肩を回しながら笑みを浮かべる。
「よし、それならもう一度皆の前で浄水するときに、俺たちが試しに飲んでみせるのもアリだよな。最初は少し抵抗があったけど、俺たち自身で証明すれば『本当に役立つんだ』って説得力があるはずだ!」
◇◇◇
そうして、その日の夕方。
再びユイスたちは小さな広場に浄水魔道具を持ち込んだ。先日は温かい雰囲気だったが、今日は少々違う。何人かの住民は後ろへ下がり気味で、様子を伺っている。
「皆さん、昨日もお見せしたとおり、これで水を綺麗にしようと思います。ただ、一度きりのデモンストレーションでは不安な方もいるでしょうから、僕や仲間が実際にこの浄水を飲むつもりです。むしろ継続的に飲みたいんです」
ユイスが落ち着いた声で話すと、後方から低いささやきが聞こえた。
「それで本当に安全なのか……。クラウス様はただの見せかけだって……」
ユイスの耳にもしっかり届いたが、動揺は見せずに淡々と魔道具のスイッチに相当する刻印を操作する。複数の術式を組み合わせた光が、濁った水へと送り込まれ、ほどなくして透明度が増していった。
すると、トールが笑顔で近づき、器に注がれた水をぐいっと飲み干す。
「……うん。ちゃんと平気。少なくとも俺は腹が強いからとかじゃないぜ。これをずっと飲み続けるつもりだから、なんかあったらすぐ分かる」
その言葉に、前の方にいた住民たちが顔を見合わせる。
続けてエリアーヌが恐る恐る器を受け取り、小さく一口、二口と飲む。少しだけ震えたままだが、「全然変な味はしないし、普通の水とそう変わらない……」とほほ笑む。
すると、観衆の一人が声を上げた。
「でも、本当にずっと安全なのか? 税金が上がるんじゃないかってクラウス様は……」
途端に周囲に緊張感が走るが、シェリーが遮るように前に出る。
「税金の話は、いま正式に領主様へ相談が来ているわけではありません。私が代理として拝命していますが、この改革によって村に余計な負担を強いるような政策を提案する気などありません。むしろ、生活基盤が安定したほうが領地としても利益が増え、税を無理に上げる必要はなくなる……そう私は考えています」
シェリーが真っ直ぐに住民たちを見据える。
その姿勢に、最前列で聞いていたテラとボルドが目を輝かせるように頷く。
「シェリーさんがそう言ってくれるなら……ほんの少しの期間だけでも、僕たち試してみようよ。魔道具は無料で貸し出されているし、変な契約書も書いてない。実際に自分たちが飲んでみないと、本当かどうか分からないじゃないか」
そう呼びかけるボルド。周囲の視線に戸惑いながらも、テラがさらに後押しする。
「私は妹の看病があるから不安だったけど、クラウス様の言葉だけを信じてなにも行動しないのも違うと思うの。だって、もし浄水が本当に病気の回復を手助けしてくれるのなら……こんな機会、そうそうないわ」
ボルドやテラの必死さにほだされたのか、ちらほらと「実際に見てみよう」という声が出始める。
一方で、後ろから見守る数名の住民はまだ不信感を捨てきれない様子だった。
◇◇◇
日が落ちた後、ユイスたちは一旦集会所に戻り、簡単な作業報告をまとめていた。
「正直、住民全員の心を取り戻せたわけじゃない。でも、今日みたいに何度も実演して、僕たち自身が使い続ける姿を見せれば、噂だけに踊らされる人は減るはずだ……」
ユイスが自分のノートをパラリとめくる。そこには“クラウスへの対抗策”として「継続使用の公開」「使用者の実感インタビュー」「税金についてシェリーと領主の意向を保証してもらう」などが走り書きされている。
「叔父様が話を盛るほど、私も領主代理として領地の主家へ相談する必要が出てきますね。ひとまず『新技術の研究費を住民に負担させる意向はない』というお墨付きを、書面の形でもらえないか交渉してみます」
シェリーがそう告げると、ミレーヌの目がいくらか明るくなる。
「それがあれば、クラウスさんの言葉も効果が薄れるはずです。私も少し商家の伝手を使って、周辺町から物資を安く取り寄せられないか探りますね。住民に『余計な負担が増えることはない』と示せれば、だいぶ違うと思うんです」
リュディアが椅子から立ち上がり、控えめに笑みをこぼす。
「少しずつ、でも確実にできることがあるはず。保守派の扇動は厄介だけど、ここで怯んでいたら成果は出ないわ。大丈夫、みんなの協力があれば乗り越えられる」
そして、ユイスはテーブルに手を置いて静かに息をつく。
「クラウスのような人は、ここで止まるとは思えない。もっと強引な手段を使ってくるかもしれないけど……こんなことで諦めるわけにはいかない。僕たちが真摯に成果を示していけば、住民たちはきっと分かってくれるはずだ」
その言葉にうなずくトール、エリアーヌ、レオン。そしてシェリーも、小さく笑みを返した。
◇◇◇
その夜。
誰もいない薄暗い道を、クラウス・エグレットが足音も荒く歩いていた。手下と思われる者が低い声で尋ねる。
「このまま扇動を続けるだけでは不十分では……? もっと実力行使を……」
しかしクラウスは鼻を鳴らす。
「焦るな。住民をじわじわ不安にさせるのが得策だ。あの小僧がどれだけ研究成果を出そうと、人が本能的に恐れるものを取り除くのは難しい。魔法で生活が変わるなんて、ろくな結末にならんと分からせてやるだけさ」
それでもしばらく押し切れないようなら、また別の手段を取るだけだ――そう言わんばかりに、彼の目は闇夜に光っている。
一方で、静まり返った集会所の明かりの下。
ユイスはノートに次の作戦を書き込みながら、仲間たちと顔を見合わせていた。
「不安は大きいけど、確かに少し希望がある。僕たちが負けたくない理由も、ここで諦めるわけにはいかない理由も、みんなわかってくれたから……」
その言葉に、小さく笑顔がこぼれるエリアーヌとトール。
「大丈夫。俺たちがもうちょっと分かりやすい結果を出せば、住民も振り回されなくなるはずだ。さあ、がんばろうぜ!」
「うん、やるよ。泣いてばかりじゃ前に進まないもんね!」
場の空気は決して明るくはないが、以前より強い連帯感が漂っている。クラウスの悪意は確かに影を落としていたが、それに屈する気は誰ひとり持っていなかった。
夜風が窓を揺らす。
ユイスはノートをそっと閉じ、わずかに瞳を細める。何かを決意したかのような静かな光がそこに宿っていた。
「……ここで止まるわけにはいかない。僕たちで、この改革を続けよう」
その声に反応するように、仲間たちも各々の手を動かし始める。回復ツールの制御印を見直す者、物資リストを再度点検する者――それぞれが今できることを探し、今夜も眠らぬまま作業を続けるのだった。
闇に沈む小領地の一角で、小さな灯火が絶えず燃え、前を向く彼らの姿こそが新しい希望であるかのように照らしたいた。




