17. 初日
朝が白みはじめる頃、集会所の前でユイスは手作りノートを握りしめていた。まだ空気はひんやりしている。
トール、エリアーヌ、ミレーヌ、レオン、そしてリュディアが続々と集まる。その横では、シェリーが書類を抱えながら戸口に立っていた。
「みなさん、おはようございます。もう用水路の修繕に行くんですか?…本当に早いのですね」
少し眠そうなエリアーヌが、口を押さえながら小さくあくびをする。トールは朝から元気そうで、馬車旅の疲れなど微塵も感じさせない。
「オレらが目立つ成果を出せば、ここの住民の見方も少しは変わるだろ。な!」
トールが妙に前向きに声を上げ、エリアーヌの背中を軽く叩く。エリアーヌは叩かれた勢いでよろめきながら苦笑いを浮かべた。
「でも、住民の皆さんはどう思ってるのかな…手伝ってくれる人、少なそうだし…」
ミレーヌも心配そうな表情で、その隣ではレオンが冷めた口調を添える。
「所詮、向こうからしたら貴族の自己満足にしか見えないんだろ。まあ俺たちが何をやっても『また無駄なことを…』って言われるだけかもな」
リュディアがそれとなくレオンを睨むように視線を向ける。彼女の中には「そんな諦めた言い方はやめて」という気持ちがあるのだろう。だが、それ以上に口を挟もうとはしない。今はまだ確固たる成功例が何もないのだから。
「まずはやってみるしかない。シェリーさん、用水路の場所へ案内してもらえますか?」
ユイスが遠慮がちに声をかけると、シェリーは少しだけ表情を緩ませた。
「ええ、わかりました。私も詳しい地図を持っていますし、現地で状況を見ていただいたほうがいいでしょう。ただ…先に一つだけ言っておきますね。住民の協力は、残念ながら当分あまり期待しないほうがいいかもしれません」
◇◇◇
朝露を含んだ草が足元を湿らせる中、ユイスたちはシェリーを先頭に用水路の跡へ向かった。
村はずれまで来ると、木材や土で組み立てていたらしき水路が見えてくる。ただ、あちこちがひび割れていたり、板が朽ちていたりして、ほとんど機能していないようだった。
「去年の大雨でこのあたりが崩れたんですが、修理する資金もなく放置されてきて。ここの下流にある農地にも、もうろくに水が回らないんです」
シェリーが古い設計図を広げながら説明する。地図の上には赤ペンで大きく×印が描かれている箇所が多く、「崩落」「腐食」などと書き込まれていた。
しばらく眺めていると、若い男が二人ほど背後から歩いてきた。中肉中背で逞しそうなほうがボルド、隣でやや気弱そうな雰囲気のほうがテラらしい。二人とも言葉少なにユイスたちをちらりと見やる。
トールが意気込んで声をかける。「おお、お前たちも一緒にやってくれるのか?」
ボルドは少しだけ目をそらしながら、かぶりを振った。
「いや、悪いけど今日は畑仕事があるんだ。朝のうちにやること山ほどあるし、村でも他に誰も手伝いに来る予定はないと思う」
思わず肩透かしを食らったようなトールが、素直にうなずく。「そっか…そりゃ、仕方ないな。ごめん、邪魔したな」
横にいたテラも、すまなそうに言う。
「ごめんなさい。私もこれから祖父の看病や家のことがあるので…正直、どんな魔法で直そうが、私たちの生活には変わりがない気がして……」
その場に居合わせた住民の何人かも、それを合図にするように遠巻きに立ち去ってしまった。誰一人、率先して「手伝ってやる」とは言わない。
「むしろ放っといてくれって感じ、なのかな…」
エリアーヌが小さくつぶやく。彼女の声に混じる寂しげな響きは、周囲の冷たい視線を物語っていた。
◇◇◇
「さて…どうしようか」
ユイスはノートを広げ、そこに走り書きした土壌調査のメモを読み返す。やはり土がもろい場所では、魔法で適当に固めただけではすぐ崩れる。木材を補強するにも、ちゃんとした材木が必要だ。
「まずは、簡単な部分だけでも補修してみるんだろ? どこから手をつけるんだ?」
トールがどこか焦るように声を投げかける。
ユイスは地面にかがみこみ、崩れかかった板と土の隙間を指先で探る。そこを少しどけてみると、湿気を含んだ土がぼそっと崩れ落ちた。
「本来は、土の内部に魔力で固めの層を作って、そこに木材を固定するイメージを想定してた。そうすれば短詠唱で土壌を支えつつ、腐食しきった木を一時的に取り換えることもできると思ったんだ。……けど、これ、思ったより崩れやすいな」
リュディアが隣にしゃがみこむ。「つまり、数式魔法でうまく制御して土を硬くしなきゃならないわけね。どれくらい時間がかかるの?」
「計算上はそこまでかからないはずだったけど…実際にやってみないとわからない。少し試してみるよ」
ユイスはノートに書いた術式を指先でなぞりながら、微妙に配列を修正し始める。その様子をレオンが静かに見守る。
「どうせやるならさっさとやってみたら? こんなところで長々考えてたら、住民にバカにされるだけだろ」
皮肉っぽい言葉ながらも、レオンなりに背中を押しているようにも見える。
◇◇◇
シェリーとリュディアが少し離れた場所で周囲の安全を見守る中、ユイスは実際に数式魔法を使い始めた。まずは水路の崩れかけた部分を中心に、土を磁力のような形で引き寄せて結合させるイメージを組む。
詠唱を簡略化した新しい術式リライトで、余分な要素を削ぎ落としつつ、地面の奥まで魔力を染み込ませる。
「大丈夫かな……」
エリアーヌが一歩後ろに下がりながら、小声で不安を漏らす。ミレーヌも、ノートを抱いて後ろから見つめている。
土がほんのり光って、ユイスの魔力と混じり合う。柔らかい土が一瞬だけ固まったように見えたが――次の瞬間、ユイスが懸命に制御しようとしたにもかかわらず、違う部分がずるっと崩れはじめる。
「っ…ちょっと待って、こっちも支えないと!」
急きょトールが火魔法で土を焼き固めようと力を込める。だがその加減がうまくいかず、一部が焦げたような煙を立てて、逆に崩壊が広がってしまった。
「うわっ!?」
エリアーヌが慌てて後ずさる。土のかけらが彼女の足元に降りかかり、悲鳴こそ上げなかったものの、足首にまとわりつく泥に気勢をそがれたらしい。
「ご、ごめん! オレ、出力を抑えられなかった!」
トールが火球を消し止め、慌ててエリアーヌの方に走り寄る。
あたりに土埃が広がり、それが風に乗って舞い上がる。住民たちが遠巻きに見ているが、誰も手助けしようとはしない。むしろ呆れたような視線を送っている。
「ほら、貴族様が何かやってるけど…」
「やっぱり失敗するんじゃないか? 自分たちの仕事で精一杯なのに、のんきなもんだ」
そんな言葉がひそひそと聞こえてきて、ユイスの胸が痛む。
「これじゃ、住民の信用なんて得られないよね……」
エリアーヌが小さく息をつきながら言うと、ミレーヌも視線を落とした。
「材料も足りないし…。資材がなきゃ大掛かりな補修なんてできっこないわ。木材だって腐りきってるし、新しい板を買うお金だってないし…」
少し離れた場所でその光景を見ていたシェリーが、申し訳なさそうに近寄ってくる。
「あまり言いたくはなかったんですけど…やはり一朝一夕で解決できるものではないんです。資材調達も、領主本家には期待しづらい状況ですから…」
そこまで言いかけたとき、不意に背後から声がかかった。
「はは、な? 見ての通りだろう」
クラウス・エグレットが、木陰からひょいと姿を現す。冷たい笑みを浮かべたその表情には、どこか優越感が見え隠れしていた。
「魔力で土をいじったところで、ここの地盤が脆いのは変わらんのだよ。まさか短詠唱だとか数式だとか、笑わせる。大火力で全部焼き固める気かね? そんなことすれば、今度は畑が干上がるだろうよ」
ユイスは言い返したい気持ちをぐっと押し殺し、黙り込む。トールが血相を変えそうになるのをリュディアが抑え、クラウスをまっすぐ見据えた。
「あなたこそ、ここをどうにかする策をお持ちなのですか?」
リュディアの問いに対して、クラウスは鼻で笑う。
「私? 私は報告する立場なのだよ。成功しようが失敗しようが、ありのままを書き綴って上に提出するだけだ。面白い結果になるといいがね」
余裕たっぷりに言い残すと、クラウスは踵を返してその場を去った。まるで何かを見定める猟師のように、背後で静かな嘲りを漂わせながら。
◇◇◇
空気がどんよりと重い。崩れかけた水路の一部は、さっきの魔法でかえって傷口が広がったように見えた。
ミレーヌがしゅんと肩を落とし、ノートを抱きしめる。「やっぱり資材がないと難しいよね…石材とか、ちゃんとした木材とか。それに工事の人手も」
エリアーヌも、ほとんど泥まみれになった靴を見つめながら、涙目になっている。「ご、ごめんね、私がもっととっさにサポートとかできれば…」
ユイスは無言のまま、自分のノートを閉じた。何か言わなければならないのだが、頭がうまく回らない。
数式的には可能なはずだった。土壌の魔力バランスを計算して、短詠唱で固める。それで十分に水路が再生すると思っていた。けれども現実は、試し打ちさえもままならないほど脆く、そして物理的な資材も不足している。
「…ごめん。もう少し効率良くいけると思ってたんだけど、ちょっと甘かった」
ユイスがようやく絞り出すように言葉をこぼす。
「いや、ユイス一人のせいじゃないだろ。オレも火力を加減できなかったし…」
トールが苦い表情を向け、続いてレオンがふっと視線を外す。
「失敗するだろって思ってたけど、まさかここまでとはね。まあ、最初から順調にいくほうが珍しいだろうけど」
リュディアがユイスの肩をそっと叩いた。ひどくぎこちない仕草だが、少しでも励まそうとしているらしい。
「大丈夫。焦らなくていいわ。最初から完璧にはいかないもの。ここに来て数日も経ってないのよ。住民の信頼だって、急に得られるわけじゃないし…」
その言葉に、エリアーヌとミレーヌも頷いてみせるが、みんなの表情には落胆がにじんでいた。
◇◇◇
シェリーは地図を抱えたまま、申し訳なさそうに周囲を見回す。住民はすでに離れ、元の静かな荒地へと戻っている。時折、遠くで家畜の鳴き声や風が土をこすれる音が響く。
「やはり人を集めなければ、何もできないと思います。けど、皆さん自分たちの仕事や生活で手一杯なんです。領主からの指示も期待できませんし…こうなると、やはりどうにも…」
言いかけたシェリーの言葉をリュディアが引き取る。
「住民に協力してもらうには、私たちが一歩踏み出す必要があるわ。先に小さな成果を見せて、信頼を少しでも得るしかない。商家から資材を取り寄せる手段とか、学園との連絡で何か補助を得られないかとか…いろいろ考えられるはず」
ユイスは俯きつつも拳を握りしめる。
「正直、今回のやり方じゃ不十分だってわかった。もっとデータを集めてから手を出すべきだったし、住民を巻き込む工夫も足りなかった。何より、資材の確保がないときつい…机上の理論を試すにしても限度がある」
どうやったら手がかりがつかめるだろうか。予算もない、手もない。しかし、こんな状況で諦めたら、フィオナを救えなかったあの日と同じではないか――ユイスの脳裏には、その苦い思いが絶えずよみがえる。
「…諦めるのか?」
トールがそっと問う。その言葉にユイスは首を横に振った。
「いや、そんなわけない。ただ、最初の一歩が失敗しただけで投げ出すのは馬鹿げてる。もう少し、方法を考えるよ。こんな崩れやすい土でも、工夫すれば必ず何とかなるはずだ。僕が理想だけで作った計算式じゃなく、現実に合わせた新しい数式を組む」
その決意に、リュディアが小さく笑みを返す。
「そうね。私も協力する。保守派にあれこれ言われてるけど、王子の名前を借りてでも資金を集められないか探ってみるし。住民への呼びかけも一緒にやりましょう。あなた一人が背負う必要はないんだから」
ユイスはわずかに目を見開いた。リュディアがこの場所まで来て一緒に苦しんでくれている。問題児クラスの仲間も、失敗を責めるどころか前を向いている。
「わ、私も何かできるように頑張るよ。回復魔法とか…それにお菓子なら作れるから、みんなに差し入れしてちょっとでも元気出してもらうとか、そういうのも大事かもしれないし…」
「オレは火力制御をもっと練習しておく。あの火球じゃ土が溶けて崩れるだけだったからな。自分がやらかした分、次は必ず成功させたい」
トールの熱い視線に、レオンは口の端を皮肉気味にゆがめる。
「ふん、やる気だけはあるんだな。でもまあ、成功するならそのほうがいい。俺だって大失敗のまま学園に戻るのはごめんだし……」
「お、お金のことなら…私の家の商売ルートで多少は手配できるかもしれない。格安で木材を仕入れてもらえるツテがあるか、実家に打診してみる…」
それぞれが小さな可能性を示す。もちろん成功する保証はどこにもない。それでも、何もしなければ何も変わらないのは明白だ。
◇◇◇
シェリーは地図を抱え直して、少し安堵した様子で口を開く。
「ありがとうございます。皆さんがそう言ってくださるだけで、少し気持ちが楽になります。正直、私一人では無理だと思っていましたから……」
ユイスはノートの埃を払い落とし、顔を上げた。
「とりあえず、今日はこれ以上大がかりなことはできない。土の性質や崩れやすい箇所をもっと調べて、次の一手を考えたい。あと、村の人たちにも、少しずつだけど話を聞きたいんだ。どうやったら協力してくれるか、何が不安なのか…」
リュディアもうなずく。
「わかった。じゃあ私も力を貸す。まずはシェリーさんと一緒に、これまでの申請書類や領主本家とのやり取りを確認させて。少しでも補助金や援助を引き出す方法を探りましょう」
エリアーヌとミレーヌは「私たちも行く」「いいかもしれない」と力強く賛同。
「じゃあオレは足腰を使って、あちこち回ってみるぜ」
レオンも、「あちこちに顔を出すのは面倒だが、まあいい。暇つぶしにはなるからな」とそっぽを向きながら付き合う姿勢を見せる。
ユイスはそこにわずかな希望を感じた。もちろん水路の修繕は簡単じゃない。どこから資金を調達し、人をどう動かすか、課題は山積みだ。それに保守派のクラウスが邪魔をするかもしれない――けれど、こんなところで終わるわけにはいかない。
(フィオナを救えなかったあの時と違って、今は仲間がいる。レオナート王子の後ろ盾もある。不安もあるけど、利用できるものは利用してみせる。必ず道はあるはずだ)
「よし、今日はここまで。みんな、ありがとう。失敗したけど、これが何かのスタートになると思う」
気づけば、ユイスの声にはわずかに力が戻っていた。日差しがすっかり強くなり始め、遠くの畑では農作業の音が聞こえる。村は貧しく荒れていて、住民たちは厳しい目を向けてくる。それでも、ユイスたちは歩みを止めないと決めた。
風に乗って、誰かの嘲笑じみた囁きが聞こえてくるような気がする。
けれどユイスは背筋を伸ばし、ノートを握りしめたまま、次の一歩へ向かおうとしていた。




