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15. 宿場町

「…頬に当たる風が少し冷たい。けど、それも新鮮に感じられる」


 ユイスは小さく息を吐き、馬車の背もたれに体を預けた。まだ日は高く、空気には昼の名残が漂っている。それでも街道沿いは人の姿がまばらだ。前方には、いくつもの緩やかな丘が連なる景色が広がっていた。


「ここから宿場町までは、日没前に着けるかどうかってところかな」


 馬車の揺れを気にしながら、リュディアが窓辺に身を寄せて外を見やる。彼女の声には落ち着いた響きがあったが、その横顔にはどこか疲労の色がにじんでいた。伯爵家からの指示で、今回の小領地派遣に同行せよとの命が下ったときから、彼女はあわただしく準備を進めていたようだ。


「へっ、あんまり退屈させないでくれよな。折角の遠出なんだしよ」


 反対側ではトールが体を乗り出し、窓から外をのぞき込む。普段は飽きっぽい彼だが、長距離の移動に対してはむしろワクワクしている様子だ。農家出身ゆえか、馬車に揺られる生活もどこか懐かしいのかもしれない。


「うぅ…わたし、こんなに揺れる乗り物は初めてかも。ちょっと辛い…」


 エリアーヌが小さな声で鼻をすすりながら、座席の端に寄りかかっている。彼女の目は心なしか潤んでいて、トールが半笑いで「大丈夫かよ」と背をさすっていた。


 ◇◇◇


「やっぱり丸一日、馬車に揺られるってしんどいわね」


 リュディアが誰にともなく呟く。その言葉に賛同するように、ミレーヌがそっと頷く。緊張しやすい彼女も、旅の疲れか、少し眠そうなまぶたをこすっていた。


「……俺は大丈夫」


 ユイスは一言だけ呟いて、手元のノートに視線を落とす。今は馬車の中で大掛かりな計算はできないが、簡単なメモ程度なら書き込めそうだ。


「ユイス、お前なんか顔色悪くねぇか?」


「無理しすぎると、また倒れでもするんじゃないの?」


 トールとレオンが、似たような調子で問いかける。トールは心配そう、レオンは皮肉まじりに。しかしユイスは笑みとも呼べない硬い表情のまま首を横に振った。


「大丈夫だ。学園にいるときよりは寝てるよ」


 確かに、深夜の実験で衰弱しそうになっていた頃よりは少しマシだ。移動中は強制的にでも体を休めざるを得ない。今はそれだけでも幸いだと思っておくべきかもしれない。


 ◇◇◇


 淡々と走り続ける馬車が、ようやく小さな宿場町へと辿り着いたのは、空が赤く染まりはじめる頃だった。町と呼ぶにはこぢんまりとした場所だが、旅人たちが疲れを癒やすには十分な規模の宿と食堂が並んでいる。


「夜道を行くより、ここで泊まった方が安全そうね。そういう話が伯爵家の地図にあったわ」


 リュディアが伯爵家からの手配書を広げ、辺りを見回す。そこから見える大通りは石畳ではなく、固められた土の道。だが人の行き来はそこそこあって、商人風の男が荷車を引いていたり、犬を連れた子どもが走り回っていたりと、小さな活気がある。


「どこかの宿に行こうぜ。エリアーヌ、今にも倒れそうじゃん」


 トールは馬車を降りるや、エリアーヌの腕を取って支える。エリアーヌは青い顔をしたまま「ごめん…でも、早く横になりたい…」と弱々しい。


「宿…ここなんかいいんじゃない?」


 レオンが視線を向けたのは「夜露よつゆの宿」と書かれた古めかしい看板の宿。入り口に吊るされた小さなランタンが揺れている。


「設備はあまり期待できないけど、空いてそうね。行ってみましょう」


 リュディアがそう言って先に扉を開くと、中から丸顔の宿屋主人が驚いたように顔を出した。


「おや、まだ日が暮れ切る前から来客とは珍しい。いらっしゃい、部屋は空いてるぞ」


 ◇◇◇


 部屋は質素だが掃除は行き届いているようで、エリアーヌは何よりも先に布団に潜り込んだ。トールが隣で「落ち着いたか?」と声をかけ、彼女がわずかに顔を上げる。「うん…ありがとう、馬車酔い、ちょっとマシになりそう…」


 ユイスは宿屋主人と簡単に相談し、夕食を用意してもらう話をまとめていた。ミレーヌは宿賃の計算を頭の中でしているらしく、ぎこちなく数字を呟いている。


 リュディアは宿の通路の壁に背を預け、深く息を吐いた。口では言わないが、彼女自身もかなり疲れているのだろう。昼間の移動から、みんなの世話まで――あれこれ気を配る役をこなすのは大変だ。


「私も少し休もうかしら」


 ◇◇◇


 夜半。夕食を取り、エリアーヌも馬車酔いから幾分回復した頃。宿屋主人が血相を変えて部屋に飛び込んできた。


「こ、ここに魔法が使える人がいるんだろう!? 町外れに、魔物が出たって大騒ぎなんだ!」


 ベッドに腰かけていたユイスは、思わず立ち上がる。リュディアやトール、エリアーヌ、ミレーヌ、レオンも顔を見合わせた。


「魔物って、こんな場所まで出るのかよ…?」


 トールが不安げな声を出すと、宿屋主人は慌てて続ける。


「夜中に前触れもなく現れて、通りを荒らしてるらしい! うちの宿にも来るかもしれないって…」


「わかった。俺たちが行くから、宿の人たちは中に籠もって」


 ユイスがそう言いかけたとき、ドン、と宿の外壁を何かが叩く音が響いた。宿屋の灯りが揺れ、別の部屋から悲鳴のような声が聞こえる。


「行こう!」


 ユイスが手のノートを瞬時に開き、指先で術式を組み始める。トールが拳を鳴らし、レオンは皮肉交じりに「結局、静かな夜にはならないわけか」と呟く。


 ◇◇◇


 外へ駆け出すと、あたりは薄暗い。通りには明かりが少ないせいで、魔物の姿をはっきりとは捉えづらい。それでも、角ばった影が複数動いているのがわかる。背の低い、四つ足の獣のようだが、赤い目が不気味に光っている。


「ちっ、コボルドか。こんなところに群れで現れるなんて」


 リュディアがわずかに眉をひそめる。コボルド――低級の魔物だが、群れをなして襲うと、それなりに厄介だ。宿場町の人々が騒ぎ立てるのも無理はない。


「やるしかないな。ユイス、どうする?」


 トールが身構えたところで、ユイスはうなずき、短く指示を出す。


「トールは前衛。エリアーヌは回復準備と援護で、ミレーヌとレオンは後方から見張って。リュディア……火力を欲しい時、頼んでもいいか?」


「わかったわ。無茶しないでよ!」


 リュディアの声音には、かすかな緊張が混じるが、どこか頼りになる力強さがあった。


 ◇◇◇


 ユイスは指先で空中に数式を描くと、声にならない詠唱を組み上げる――術式リライトだ。昼間は馬車で過ごし、まともに実験できなかったが、もう頭でシミュレーションは済ませてある。


「…よし、火球をリライトしたやつで牽制する」


 ブツブツと独り言が口をつく。前世プログラマ脳の名残を感じながら、彼は魔力をこめた。


 ――一発目。


 詠唱時間を大幅に短縮した火の玉が宿場町の闇を切り裂き、コボルドの一体をかすめる。小さな咆哮が聞こえ、周囲にいた魔物たちが動きを止めた。次の瞬間、トールが意を決したように地面を蹴る。


「オレが相手してやる!」


 そこそこの炎系魔法が使えるとはいえ、トールはまず素手で相手をひるませるタイプだ。躍りかかろうとした魔物の頭を殴り飛ばし、そのまま転がしていく。荒いがパワーだけは間違いなく本物だ。


「ぎゃっ…!」


 不気味なうなり声をあげて魔物が後退する。だが、三体ほどが横合いからトールに飛びかかろうとしていた。


「危ない……っ!」


 エリアーヌが焦って叫ぶ。彼女は急ぎ回復魔法の詠唱を始めようとしたが、すぐには間に合いそうにない。


「こっちは任せて」


 背後からレオンが地面を蹴る音。皮肉屋の彼も、いざというときは行動が早い。短い杖を振り、風の刃のような魔法を放って魔物の横っ面をはたき飛ばす。隙をつかれた一体が悲鳴をあげて退散。


「ありがとう…!」


 エリアーヌが安堵に息をついた一瞬、また別の魔物が宿屋の方へ回り込もうとする。


(まずい。宿屋に一般の客がいる…)


 ユイスは即座に次の術式を組み替え、再び短詠唱で火球を連射した。姿勢を崩しながらも、ほんの一拍で火の玉が生まれる。勢いに任せて射出すると、魔物が鋭い悲鳴を上げてあとずさる。


「やった…!」


 ミレーヌが震える声でそれを見届け、そしてすぐに廊下側を振り返る。宿屋の中では主人やその家族らしき者が顔を真っ青にしているが、どうにか扉を閉め込んで身を守っている様子だ。


 ◇◇◇


 コボルドの群れは、数式魔法による牽制とトールたちの物理攻撃、リュディアのバリア補助によって、徐々に勢いを失っていく。ユイスはあえて大技を使わず、小さな火球を何度も重ねる形で制圧を図る。


「逃げていく…!」


 トールが拳を構えたまま声を張り上げた。魔物の群れが一斉に後退し、林の奥へと消えていく。暗い森の向こうに、赤い光がちらちらと揺れ、やがて完全に見えなくなった。


「……なんとか、追い払えたみたいだね」


 リュディアがホッと息をつき、腰の剣をゆっくり納める。エリアーヌは無事か確認するようにトールの腕を見たり、レオンの服のほこりを払ったりして忙しそうだ。


 ユイスは胸を抑え、荒れた呼吸を整えようとする。まだ多少の疲れは残るが、深刻な怪我はなさそうだ。


「数式魔法、短詠唱の連射はなかなかうまくいったな…。前より暴走しにくいし、今回は連携もうまく取れたと思う」


 小声でそうつぶやくと、隣でリュディアが何か言いたげにこちらを見た。彼女は唇をかすかに引き結び、それから微笑む。


「……良かったわ。あなたが無茶するんじゃないかと、内心ヒヤヒヤしていたのよ」


 彼女らしい遠回しな褒め言葉に、ユイスはうなずきだけ返す。実のところ、自分も多少怖さは感じていた。夜の戦闘、そして不完全な術式。それでも、今は成功した事実が何よりの慰めだ。


 ◇◇◇


 宿屋前に戻ってくると、主人が恐る恐る扉を開けて覗いてきた。「大丈夫かい…? やっつけたのか?」と。


 トールがやや得意げに「ま、逃げていったぜ。これでしばらくは襲われないだろ」と胸を張ると、主人は目を丸くして「ありがとうな! あんなに大人数で踏み込んでくれるとは…助かったよ!」と拍手までしてくれる。


「全然たいしたことないですよ。あれくらいなら僕たちで十分対応できます」


 エリアーヌはまだ鼓動が速いのか、かすかに震えた声で答えたが、主人や宿の客たちは彼女に感謝と賛辞を送っている。ミレーヌも苦笑しながら、安堵の表情だった。


「いや、十分立派だったよ。下手すりゃ宿屋は壊されて、どこかに逃げるしかなかったかもしれないんだ。ほんとにありがとう」


 宿屋主人が頭を下げてくるのを見て、ユイスは内心ほっとする。自分たちが多少なりとも役に立てた――それが単純に嬉しかった。


「俺たちは…小領地へ向かう途中の身なんでね。ここを守るのが使命ってわけでもないけど、迷惑かけられたら黙ってはいられないし」


 そう言うと、レオンがちらりと視線をそらす。どこか照れくさそうで、皮肉屋の彼にしては珍しい仕草だ。宿屋主人は「ゆっくり休んでくれ」と何度も頭を下げて部屋へ戻っていった。


 ◇◇◇


 それから少しして、一行は宿の奥の畳部屋に集まり、簡単な打ち上げのような雰囲気になっていた。宿から差し出された熱いお茶と軽い夜食のパン。トールはそれを噛みしめながら、まだ興奮気味だ。


「うおー、やっぱ魔物退治って燃えるな! もうちょっとガツンと強いのが来ても平気な気がするぜ!」


「トール、その勢いはいいけど、私たち…特にエリアーヌはひどく疲れが残るんだから」


 リュディアが苦笑して目を伏せる。エリアーヌは甘いパンを齧りながら「うん…私、もう少し眠りたいかも…」と申し訳なさそうに呟く。


 ユイスは膝の上にノートを広げたまま、火球のリライト術式をもう一度目で追いかける。今回の戦闘で効果を確認できたが、本当に完璧かどうかはまだわからない。


「……まぁ、実戦で使えるのは悪くない。だけど、あれはあくまで応急処置みたいなものだ。小領地で待ち受けている困難は、こんなものじゃ足りないかもしれない」


 彼の一言に、周りの空気が少しだけ引き締まる。トールが飲み込んだパンの端を見せながら「ふむ…そうだな、もっとでかい奴とかいるかもしれないし」と漏らす。


 リュディアは「そうね」と低く答えた。そこには、レオナート王子が絡む大きな計画があり、保守派貴族たちの妨害も目に見えている。今夜の魔物退治は、ある意味では前哨戦に過ぎない。


 ◇◇◇


 翌朝。宿場町の夜明けは思いのほか早く、いつの間にか町の人々が動き出していた。宿の廊下に出ると、主人や従業員が「本当に昨夜はありがとう」と笑顔を向けてくれる。


「ああいうトラブルが年に何度か起きるもんでね。いつもは町の警備が追い払うんだが、昨夜は人手が足りなくて…本当に助かったよ」


 宿屋の従業員がペコペコ頭を下げながら、荷造りの手伝いまでしてくれた。エリアーヌは「こちらこそ、お世話になりました」と頭を下げ、ついでにこっそり菓子を購入していた。


「おや、そんなに買って大丈夫なのかい?」と驚く従業員に、エリアーヌは「い、いいんです…旅は長いから…」と頬を染めている。


「さて、もう出発するのか?」


 トールが大きく伸びをしながら馬車の方へ歩いていく。レオンはあくび交じりに荷物を積み込み、ミレーヌは「宿賃は…交渉できるかも」と宿屋主人と何やら談判していた。


 ユイスはその様子を見ながら、背後でリュディアが静かに笑っているのに気づく。


「なに?」


「ううん……今のあなたたち、なかなかいいチームね。学園じゃ毎日、研究やら何やらで慌ただしかったけど、ここではちゃんとみんな役に立ったでしょう」


「まあ…昨夜のことで、ちょっとだけ自信にはなった。でも本番はまだ先だ。小領地でどれだけできるか……」


 彼は言いかけて、胸の奥にある小さな不安を押し込める。


「それでもいいんじゃない? やっぱり成功体験は力になるもの」


 リュディアの言葉に、ユイスは微かに微笑む。彼女なりに励ましてくれているのだろう。ツンとした態度は相変わらずだが、その裏には確かな優しさがあると感じられた。


 ◇◇◇


 そして一行は再び馬車に乗り込み、宿屋の人々の見送りを受けて宿場町を発った。前より疲れの影はあるが、どこか顔は晴れやかだ。トールの声が大きく弾む。


「よし、次は本当に目的地方面までまっすぐ行くぞ! 魔物もかかってこいってんだ!」


「やれやれ、あまり調子に乗らないでくれよ。こっちまで巻き込まれたらたまったもんじゃない」


 レオンがそっぽを向いて言い、エリアーヌとミレーヌが笑い合う。ユイスはノートを膝に乗せたまま、続く風の冷たさにほんの少し頬を引き締める。


(これから先、どんな大きな問題が出てくるのか。けど、まずは一歩ずつ……やれるだけ、やってみるしかない)


 まだ朝日が昇りきらない空を見上げ、心の中でそう誓う。馬車は揺れながら、次の目的地へ。いよいよ小領地を目指して、旅路は続いていく――。

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