14. 荷造りと出発の朝
トールが寮の扉を開け放ち、荷物の包みを抱えたまま「よし、オレの荷造りは終わったぞ!」と胸を張った。まだ空が白んだばかりの早朝だというのに、その声にはやけに張りがある。
廊下に並んだトランクや木箱の数々を見回しながら、エリアーヌがそわそわと落ち着かない様子で小さく叫ぶ。
「うう…どうしよう、回復薬も持っていくなら鞄に余裕がなくなっちゃう…それにお菓子の袋がこんなに…」
エリアーヌは両腕いっぱいに抱えた袋を少し持ち上げて見せた。中には彼女特製の焼き菓子や、小腹がすいたとき用の甘いスナックがぎっしり詰まっているらしい。トールが「そこまでいるか?」と呆れた顔をしながらも、彼女の慌てように苦笑まじりに声をかける。
「まあ食い物は大事だよな。長旅になるし、現地の飯が合わない可能性もあるだろうしな」
「そ、それだけじゃなくて、回復に糖分が必要って言うし…ほら、緊急時には役に立つかもしれないし…」
エリアーヌの言い訳めいた返事に、レオンが手元の小型トランクを閉めながら軽く鼻で笑う。
「ずいぶんと見通しが甘いことだ。まぁ、それだけ用意してるなら、何かしら役には立つかもな。俺は……期待はしてないけど」
彼は皮肉を言いつつも、鞄の奥にはいつものように何冊かの本を忍ばせているらしい。表紙の一部がちらりと見え、難解そうな古代史のタイトルがのぞいている。その横でミレーヌが、おずおずと手を挙げた。
「わ、私も必要最低限の荷物にしたつもりなんだけど……計算用の用紙や試算ノート、それから数式魔法の素材費を記録するメモ帳が思ったよりかさばって……」
「たくさん仕入れ計画を立ててくれるのは心強いけど、かさばるならまとめ方を工夫すればいいだろ」
トールが大雑把な口調でミレーヌに助言する。彼女は「そう、そうだね…」と苦笑しつつ、鞄の整理を始めた。
◇◇◇
朝もやの差し込む校舎裏。問題児クラスのメンバーが小さな荷車や箱を整えていると、馬車の車輪が石畳を蹴る音が聞こえてきた。華やかな紋章は見られないが、堅牢な造りがひときわ目立つ。リュディア・イヴァロールがその馬車の扉から顔をのぞかせる。
「やっぱりここにいたのね。みんな準備はいい?」
リュディアの姿は伯爵家の令嬢にふさわしい上品さがあるが、その表情には少し気負いも混じっている。馬車の後ろには小ぶりの積載スペースがあり、そこに問題児クラスの荷物を乗せられるよう手配済みだ。トールやエリアーヌたちが荷物を順に放り込むと、リュディアが淡々と確認する。
「私も同行することになったの。『現場をしっかり監視しなさい』っていう指示よ。……別にあんたたちのために特別頑張るわけじゃないけど、必要なら手助けしてあげるつもりだから」
いつもの凛とした口調にユイスは軽く苦笑する。彼の手元には、相変わらず分厚い手作りノートが握られていた。小さく一礼してから、静かに言葉を返す。
「助かるよ。正直、現地で何が起きるかわからないからな。保守派の連中が妨害してこないとも限らないし……」
ユイスはそう言いかけて、ちらりと学園の廊下を見やる。そこにはギルフォードが腕を組んで立っていた。エリートクラスの制服をいつも以上に整え、まるで「わざわざ見送りに来たぞ」とでも言わんばかりの態度だ。しかし、彼の瞳は冷たいまま、こちらをまっすぐ射抜いてくる。
「小領地で実地実験をするだと? くだらない。そんなことをやる暇があるなら、もっとまともな血統魔法の研究をすればいいものを」
彼はあからさまに鼻で笑って、ユイスたちの荷物を見下ろす。挑発的な光が宿る視線に、トールが苛立ちをこらえきれない様子で拳を握りかける。だがユイスは手で制し、小さく首を振った。
(答えは行動で示せばいい。いまは何も言わなくていい)
その思いが伝わったのか、トールは渋々拳をほどく。一方でギルフォードは、嘲るようにかすかに笑っただけで踵を返す。彼の後ろには保守派の教師らしき影が幾人か並んでいて、「どうせ失敗するに決まってる」などと聞こえよがしに囁いているのが見える。
ユイスがその光景に目を伏せかけたとき、別方向からコーヒーの香りが漂ってきた。見ると、グレイサー・ヴィトリアが湯気の立つマグを片手にのんびりした足取りで近づいてくる。
「よお、朝っぱらからやる気だね。ま、無理はするなよ。実地でしかわからないことも多いからな」
グレイサーはいつも通りの飄々とした口調で、まるで行楽にでも行くかのように言葉を投げかける。ユイスはそのまっすぐな視線を受けて、少しだけ姿勢を正した。
「今度こそ、成果を出してみせます。先生が言っていたように、現場を知らなきゃ話にならない。だから……行ってきます」
グレイサーはうっすら笑みを浮かべ、視線を保守派教師たちのほうへ向ける。
「お偉方は小うるさいかもしれないけど、こっちは気にせず好きにやりな。成功しても失敗しても、それを糧にするのが学びってもんさ」
保守派教師たちが目を細めてこちらを睨むが、グレイサーは肩をすくめて受け流す。その様子にリュディアが小さく息をつく。そして、小声で「さっさと馬車に乗りましょう。こんなところで時間を浪費したくないし」と促す。
◇◇◇
荷物を積み終えた馬車は、学園の門へ向かう石畳をゆっくりと進み始めた。トールが勢いよく乗り込み、エリアーヌは遅れまいと慌ててステップを上がる。ミレーヌとレオンが最後に乗り込むころ、ユイスはふと学園の正門を振り返る。
背後には、ギルフォードと保守派教師の無言の視線が残っているように感じられた。だがそれをまともに見返さず、ユイスはこぶしを握って唇を引き結ぶ。馬車の中は手狭ではあるものの、仲間たちの息遣いが感じられる安心感がある。
「なあ、ユイス。お前、この研究には相当な自信があるんだろ? もう暴走しないんだよな?」
「暴走しないように調整はした。でも完璧とは言えないから、現地で修正しながら試すしかない」
ユイスが低い声で答えると、エリアーヌが落ち着かない手つきでお菓子の袋を両手に抱え直す。
「う、うまくいくよね。わたし、補助魔法とか頑張るから!」
「正直、未知数ね」リュディアは横目でユイスを見る。
「でも……何とかなるでしょ。少なくとも、私がいるから無茶だけはさせないよ」
その言葉にユイスはかすかに笑みを浮かべ、かつての模擬戦を思い出す。あのとき、リュディアは彼の短詠唱魔法の可能性を誰より強く感じ取っていた。表向きにはツンと構えていても、根底には仲間を思う優しさがあるのはわかっている。
「わかった。無茶は……ほどほどにする。俺にも、守りたいものがあるからな」
そう呟いたユイスの手には、いつものノート。ページをめくるたび、修正の跡と書き込みで溢れかえった術式が目に飛び込む。フィオナの面影を胸に、彼は決意を新たにする。
やがて馬車が学園の正門をくぐる。風がごうっと吹き抜けた気がした。空はまだ朝の光を残していて、これから迎える旅路を静かに祝福しているかのようだ。
門を出た先で、遠巻きに見送る者の姿は徐々に小さくなる。ギルフォードの姿はもう見えないが、保守派の嫌味な視線が背中に突き刺さるような、そんな気配だけが残っている。
だがユイスは、その重苦しさを振り払うようにノートを抱きしめる。次に帰ってくるときは、必ず目に見える形で成果を示す。その思いが、彼の胸中を熱くしていた。
「じゃ、しばらく馬車の中だ。退屈な移動になりそうだけど、しっかり休めるなら休んでおけよ」レオンが淡々と言い、窓から外を眺める。トールは「いや、オレは退屈はしないぞ。初めての本格的な長旅だしな!」と気負い気味に背筋を伸ばした。エリアーヌは「……あ、あたし、乗り物酔いしないといいけど…」と既に顔を曇らせている。
そのやり取りを聴きながら、リュディアが小さく笑みを零した。彼女は馬車の窓越しに学園が遠ざかるのを見送りつつ、最後にユイスへ視線を向ける。
「あなたがどこまでやるのか、私もちゃんと見届けるわ。……だから無茶して倒れるなんてことは、絶対にやめなさい」
「心配性だな。……でもありがとう。気をつけるよ」
その返事に、リュディアはツンとした顔で視線をそらす。けれども頬にはごくわずかに赤みが差している。その仕草を目に留めたミレーヌが、緊張しっぱなしの面持ちを少し緩め、「何だか楽しそう」と小声で微笑んだ。
◇◇◇
馬車は問題児クラスのメンバーたちを乗せて、石畳から続く街道をゆっくりと進んでいく。これから先、二日ほどかけて小領地へ向かう旅になる。道中には盗賊が出るかもしれないし、保守派の妨害があるかもしれない。そんな不安を抱えながらも、彼らの胸には奇妙な高揚感があった。
ユイスは座席に腰を落ち着け、ノートを開く。ページには短詠唱や位相重ね合わせの改良メモがびっしりと書き込まれていた。成功率の数値を小さな文字で記しては訂正し、また新たな仮説を加えて――いつのまにかその作業に没頭しかけたとき、トールの大きな声が馬車の中に響く。
「よーし、まずは意気込みを確認しようぜ! オレは魔法の火力を安定させて、一人前の戦力として住民の役に立ってやるつもりだ!」
「わ、私も負けないよ。サポートと回復、頑張って…!」エリアーヌの声が続く。
「むしろ余計なトラブルに巻き込まれたくはないが……まぁ行く以上、全力で手は貸す。退屈しないならいい」
「私からは…ごちゃごちゃ言わないけど、統制は私がきちんとするから」
ユイスはノートから視線を上げ、仲間の顔を順に確かめる。皆、それぞれの立場でこの旅立ちを受け止めている。その光景を目にして、内心でフィオナを思い出した。
(守れなかったあのときから、随分遠くへ来たな。だけど、今度こそ結果を出す。カーデル…俺はお前に、あの日の償いをさせる。だから見ててくれよ、フィオナ)
その思いを胸に、ユイスは再びノートのページをめくる。そして微かな笑みとともに、仲間たちへ短い言葉を口にした。
「行こう。俺たちの研究が、本当に役立つのかどうか――その答えを見つけるために」
誰に向けるともなく告げたその言葉に、馬車の中の空気が少しだけ引き締まる。問題児クラスとリュディアを乗せた車輪は、がたん、と振動を伴ってさらに道を進む。学園はすでに背後の景色に溶け込み、姿を消しつつあった。
こうして、彼らの長い旅と、数式魔法の真価を証明するための新たな挑戦が幕を開ける。彼らの誰も、この先に待ち受ける荒廃した土地の現実や、そこに潜む保守派の思惑をまだ知らない。それでも希望と不安を胸に、彼らは学園を後にした。




