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12. 空回り

 夜が更けても、王立ラグレア魔術学園の北棟は、どこかざわついていた。保守派教師の巡回が厳しくなる時間帯だが、問題児クラスの実験室にはまだ明かりがともっている。教室のすみには魔法陣を書き連ねたノートや、魔道具の部品が散らばっていた。


 ユイス・アステリアは、机の上に広げたノートの上で震える手を止めようとせず、小声で数式をつぶやいている。目の下に深いクマがあり、髪は手ぐしで荒く整えられたまま。前夜からろくに眠っていない様子は一目でわかった。


「次は術式リライティングの位相合わせを……いや、まだ出力が……」


 彼の声はかすれていた。つい数刻前、寮の自室で手作りの護符を握り締めたまま、「まだやらなくちゃいけない」と言い残して、ここへ戻ってきたのだ。フィオナの存在を思うたび、身体よりも心が焦ってしまう。カーデル・ロートレイン……あの名を聞いただけで、何もしなかった自分への悔しさが胸を苛んだ。


 ◇◇◇


「……あなた、いい加減にしなさいよ!」


 鋭い声が響いたのは、深夜を過ぎた頃だった。ふらりと入ってきたリュディア・イヴァロールが、扉を乱暴に閉めながらユイスの背後へ近づく。彼女は上位クラスの制服の上にローブを羽織り、顔にははっきりと怒りが浮かんでいる。


「寝てないんでしょ? 顔色が最悪じゃないの」


 ユイスはノートに視線を落としたまま、掠れた声で返す。


「大丈夫だ、計算はもう少し……ほら、あとここを詰めれば、二つの術式を同時に重ねることが……」


「無茶ばっかりして、今度こそ倒れたらどうするのよ。体力だって無限じゃないってわかってる?」


 リュディアの声音には苛立ちが混じっていた。それでも本当は心配で仕方がないのだろう。彼女はユイスの机へ歩み寄り、手元のノートを取り上げるようにして読もうとする。すると、ずっと握りしめていたペンがガタリと落ちた。


 ユイスは虚ろな目のまま、慌ててペンを追いかけようとする。


「返してくれ……ちょっと計算の続きを……」


「もういい! これ以上夜更かしするなら、無理やりでも引きずって寝かせるわよ!」


「やめろ、リュディア! まだ終わってないんだ。時間が……俺には時間がないんだよ……」


 言いながらユイスの肩が小さく震えた。夜通し続けた思考の疲労か、あるいは心の奥に抑えている焦りのせいなのか。彼は床に落ちたペンを拾い上げ、そのままよろめきそうになる。


「何がそんなに急ぎなのよ。身体を壊してまでやる価値があるの?」


「……ある。俺が強くならなきゃ、誰も救えやしない」


 抑えた声だったが、その言葉の底には烈火のような感情が滲んでいる。ユイスは唇を噛みながら、掠れた声のまま続けようとした。


「……過去に何もできなかったんだ。誰も助けてくれないなら……自分で力をつけるしかないから……」


 そこまで言いかけて、言葉が途切れる。フィオナ。彼女の顔が脳裏に浮かぶたび、胸が焼けるようだ。


 リュディアはそんなユイスの表情をまともに見て、眉をひそめた。ツンとすました顔を保とうとしても、その瞳には明らかに動揺が走る。


「やっぱり……何かあったのね。それを話さずに勝手に背負うから、こんなに無茶をするんじゃないの?」


 ユイスは小さく首を振る。歯を食いしばり、ノートに視線を戻そうとする姿が痛々しくも映った。


「言えないなら言えないでいいわ。でも、倒れたらどうするのよ。あなたは……」


「うるさい。ほっといてくれ」


 ユイスの言葉が冷たく響く。リュディアの眉がぴくりと動いた。


「ほっとけるわけないでしょうが。私たちだってね……あなたが突然倒れたら困るし、それに……」


「……なら、余計に放っておいてくれた方がいい。研究が終わらないんだ」


 リュディアは唇をぎゅっと結んで机にノートを叩きつけると、その場を足早に離れようとする。


「わかったわよ。そんなに自分を追い込みたいなら、勝手にすればいいじゃない!」


 少し震える声のまま、彼女は扉を乱暴に開けて出ていった。ドアの開閉に伴う音が研究室の壁に反響し、暗い静寂が再び落ちてくる。


 ◇◇◇


 ほどなくして、問題児クラスの仲間たちがひとり、またひとりと心配そうに顔を出した。トール・ラグナーが額に汗をにじませて言う。


「なあ、そろそろ寝ないか? マジで倒れるぞ」


 エリアーヌ・マルヴィスはお菓子袋を胸に抱え、オロオロと視線を彷徨わせる。


「ユイス……少しでも休んで。ほら、甘いもの食べて……」


 ミレーヌ・クワントは声をかけづらいのか、小さく「休んだほうが……」と呟くが、気弱に俯いてしまう。レオン・バナードは無言で壁にもたれ、厭世的な目をしながらもユイスの動きを見守っていた。


「……みんな、ありがとう。でも、もう少しだけ……」


 ユイスは仲間たちにそう言ったきり、手元のノートに意識を戻す。彼の肩は先ほどから微かに震え続けているのに、それを止める余裕さえ見せない。トールが苛立ちまじりに声を荒げる。


「おまえ、ほんと頑固だな! そうまでして何を――」


「悪い。今は……何でもないんだ」


 再び、それ以上の追及を拒むようにユイスは黙り込んでしまう。しばらくの間、仲間たちは途方に暮れた表情で立ち尽くしていたが、どう声をかけても今の彼を動かせそうにない。その場をどうにかできる雰囲気ではなかった。


「……仕方ないわね。あんたが大丈夫って言うなら……」


 エリアーヌが涙目でそうつぶやくと、皆もそれぞれ重い空気を残したまま部屋を出ていく。彼らとしてもユイスを気遣いたいが、それ以上は踏み込めなかった。


 ◇◇◇


 やがて研究室はユイスの独りきりとなった。外はすでに深夜を越えた時刻。廊下もシンと静まり返り、保守派教師の巡回が近づく足音だけが遠くでかすかに響いている。


 ユイスはノートの隅に記された一つの文字をじっと見つめる。その文字は、かつてフィオナに教えようとした小さな初歩術式。幼いころは、魔法で救えると信じていた。しかし現実は、あのとき彼女を救えなかったばかりか、助けを求めても領主は聞き入れてくれなかった。


「……俺はもう、何も失いたくない」


 机を握り締める指先が白くなる。悔しさと怒り、そして絶望を振り払うように、彼は術式の計算に再び没頭する。


「カーデル・ロートレイン……このままじゃ、あいつに何も言えない。勝ち目なんて、ない。だったらもっと強くなるしかないだろ」


 呟く声はかすれていたが、瞳だけは狂気的なまでに鋭さを増していた。時間がない――その思いが、彼を眠らせてはくれない。


 ◇◇◇


 一方、リュディアは自分の寮の廊下で苛立ちと不安を抱えたまま立ち止まっていた。両手を強く握りしめ、わざと大きく息を吐く。ユイスの態度に腹が立つし、理解もできない。でも、それ以上に心配が募る。


「あんな顔……見たことなかったわよ……」


 深い呟き。彼女の表情はどうにも整理がつかないようだった。何としてでも止めたい、でも受け止めきれない。結局あの研究室に戻る勇気も出せず、彼女は身を翻し、やや疲れた足取りで自室へ戻っていく。


 ――夜の校舎は依然として静寂の中にある。問題児クラスの実験室だけを明るく照らす灯火が、廊下の影を長く落としていた。ユイスが数式ノートと向き合うその姿は、どこか悲壮な決意を帯びている。そして、彼を案じるリュディアの複雑な思いは、暗い廊下にそっと溶けて消えたままだ。


 やがて時計がさらに一刻、二刻と進んでゆく。ユイスは背中に重たくのしかかる疲労を感じながらも、手は止めない。あのとき守れなかった人を思い出すたびに、焦燥感は止めどなく増していく――そうして夜は、まだまだ長い時間を残していた。

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