5.5. 幕間
――私はフォードという。村長という立場ではあるが、肩書ほどの権威はない。何せこの村は辺境も辺境、領主様の足元にも及ばぬ小さな集落だ。だが、それでも村人と苦労を分かち合い、細々と暮らしてきたつもりだった。
フィオナが亡くなったあの日から、村の空気は変わった。いや、正しく言えば、あの少年――ユイスが変わってしまったのだろう。もともと器用な子ではあったが、あの悲しみをきっかけに何かが壊れたように見えた。
夜中に納屋へ灯りをともして、何やら実験をしている姿を目撃したときがあった。戸の隙間から、私がふと覗いた場面だ。村人の一人が「どうにも不穏な光が見える」と言うので、様子を見に行ったのだが、納屋の中では赤や青の光が明滅し、ユイスが額に汗を浮かべながらノートを掻き殴っていた。まるで目の奥が血走っているように見えたほど、すさまじい執念だ。慌てて声をかける気にもなれず、私はただ戸の外で息を潜めていた。
翌朝、村人と顔を合わせるたび、彼の名がひそひそと話題にのぼった。
「最近のユイスを見たか? 夜な夜な不思議な光を出してるらしい」
「フィオナが死んでからずいぶんと…まるで何かに取り憑かれたようだ」
誰もがそんな噂を口にするが、直接は何も言えない。表面上は、ユイスの気持ちに寄り添おうとする者もいた。しかし、村には限界がある。領主様に頼っても医療魔法が受けられなかった無力さが、ここには根強く残っているのだ。
フィオナが眠る墓に、ユイスが足しげく通っているという話は耳にしていた。私も何度か後を追ったが、距離を置いて見ていると、彼は墓に触れて黙り込み、そこから家に戻るときには決まって急ぎ足だった。それはまるで、自分の中の何かを奮い立たせるかのような仕草に映った。
フィオナの死後、ユイスはしばらく村に閉じこもりきりだった。ところがある日、私の家を訪ねてきて「学園へ論文を送りたい」と言い出したのだ。正直、その時は何がなんだか分からなかった。貴族の子弟が入る魔術学園に、こんな農村の少年が……。だが、彼の瞳には、ただならぬ光が宿っていた。
「村長さん、書面であれば証明できるんです。あの人たちが求めているのは理屈ですから」
その言葉に、私は無理を承知で動いた。村に残されていた書類の類を掘り起こし、あの子の書いた数式だらけの論文を王都に送る。もしかしたら門前払いかもしれぬ、と半ば思いながら。けれど奇跡のように返事があった。論文を評価する書簡が届いたのだ。
あの頃から、ユイスが夜な夜な納屋で何をやっていたのか、少しだけ分かったような気がした。彼は“魔法”を組み替えるなどという、通常では考えられぬ研究をしていた。村人にすれば、魔力など貴族のものに過ぎないという共通認識しかない。下層の者は授業を受ける機会すらなく、医療も恵まれない。なのにユイスは、そんな通説を覆そうとしていたようだった。
ある晩、村の若い男が私の家を訪ねてきた。少年が独り言をつぶやきながら納屋をうろついていた姿を見て、気味が悪いと。だが、口ではそう言いつつも、彼もまた心配そうな顔をしていた。フィオナと仲の良かったユイスが、あの子を救えなかった悔しさに苛まれている……それは村人みなが薄々感じていたからだ。
そして、また別の日。年配の女性が畑仕事の帰りにこう漏らした。
「ユイスがあんな風になってしまうなんてねぇ。フィオナが死んでから、ぽっきり心を折られたようで……。でも、何とかして王都でうまくやってくれると助かるかもしれないね」
口調は同情半分、期待半分だった。皆が救えなかったフィオナの死に責任を感じている。だからこそ、ユイスが何か大きなことを成し遂げれば、この村にとってほんの少し救いになる――そんな気持ちがにじんでいたのだろう。
言葉にこそ出さないが、ユイスの背負う“憎しみ”は人並みではない。私もそれを知っている。領主カーデル殿下に嘆願しても、フィオナが一向に医療魔法を受けられなかったあの時――。ユイスは激しく拳を握りしめ、涙すら流さず、じっとなにかを睨んでいた。それ以来、ここにいながらできることは何もない、と冷たく悟ったようだった。
あれから幾度とない夜を通して、彼は納屋で“数式魔法”とやらの研究に没頭していたらしい。私が見た、闇夜に浮かぶ鮮やかな光と、ノートに走る筆先。それは“狂気”という言葉でさえ生ぬるく思えるほど、強烈な執念の炎だった。
結局、王立ラグレア魔術学園からは「特例奨学生として迎えたい」という返答が届いた。書簡には、ユイスの理論に興味を持った学園関係者の言葉が綴られていたらしい。村人たちは皆、その知らせに胸を撫で下ろす思いだった。「あの子なら、きっと大成してくれる」と期待を口にする者もいれば、「わが身を滅ぼさなければいいけどねぇ」と不安を隠せない者もいた。
やがて、ユイスが村を出発する朝を迎えた。私は村の広場に皆を集め、形だけではあるが見送りの場を設けた。大したものは用意できず、行商人が差し出した旅費の補助と、数人からの食糧ぐらいが精一杯だった。それでもユイスは「ありがとう」と一言だけ言って、冷ややかな表情で荷物を抱えた。
「必ず、結果を出すつもりです」
そう呟いて、村外れの道を振り返ることもなく歩き始める。私は少し躊躇い、迷った末に彼の背中に声をかけた。
「もし、どうにもならないときは……戻ってくるがいい」
本心ではそう願っていた。危険な道に踏み込んでいるようで、不安だったのだ。だが彼は立ち止まらず、遠ざかる。風の音に紛れて、確かに聞こえた。
「ありがとう、でも…戻りません」
その声は静かな烈火のようだった。
――こうして、あの子は村を去っていった。
私は村長として、彼の旅立ちに何の助力もできなかったことを思い返しながら、ひとり墓前に立つ。そこに眠るフィオナは、今頃どう思っているのかと、ふと考えてしまう。もしかすると、ユイスはフィオナが生きていたころの笑顔をずっと胸に焼き付けていて、その思い出を支えにしているのかもしれない。いや、むしろ思い出が彼を縛りつけている、と言うべきなのだろうか。
「あの子にとって、フィオナは救えなかった唯一の光だったんだろう」
墓前で、そう呟いてみても、石の下から返事はない。ただ、私自身がその言葉を噛みしめているだけだ。はるか昔、フィオナとユイスが一緒に川辺で笑っていた姿を覚えている。二人は同じ苦しい生活の中でも、お互いを支え合って輝いていた。
「あの子の怒りが、どうか正しく使われんことを」
それだけを願うよりほかに、私には何もできない。もしユイスが復讐だけに囚われる道を選んだなら、この村は再び大切な者を失うかもしれない。けれども、あの執念がいつか理不尽を壊す手段となるのなら――私はただ、祈るしかない。
「フィオナ、聞こえてるかい。ユイスはきっと、そっちへ行く前に何かを成し遂げる。貴族様に踏みにじられるばかりの世の中を、変えてしまうかもしれないんだ」
声に出しても、耳に届くのは風の音ばかり。だが、微かに鳥の鳴き声がして、私は少しだけ空を見上げた。雲の切れ間に光が差している。あれはまるで、ユイスが胸に抱いた思いの炎のようだ。遠く離れた場所でも、あの光は消えることなく燃え続けるだろう。
もし、あの子がいずれ貴族社会を内側から揺るがす日が来るならば、それはきっとフィオナの残した微かな希望の延長線上にあるのだろう。私たちにできるのは、ただ待つこと。村に残った者は、地を耕し、日々の糧を得ながら、時折ユイスの噂を耳にするかもしれない。良くも悪くも、あの子の話題はいつか風に乗って戻ってくる。
私は墓の前で帽子をとり、静かに頭を下げる。マントを少し押しやって、気づけばもう日が傾き始めていた。帰らなくては、村の世話をする人間がいなくなる。ユイスだけではない、ここで生きる人々を守るのが私の役目だ。そして何より、彼がかつて暮らしたこの土地を荒れ果てさせないように、できるだけのことをしなければ。
立ち上がる足には、わずかな重さがつきまとった。それは村長としての責任か、あるいはユイスへの罪悪感か、判別がつかない。ただ、私は心の中で繰り返す。
「願わくば、その怒りが正しく使われんことを、だよ」
そうして、ひとり墓場を後にする。振り返った先にある石碑は、夕陽を受けて長い影を落としていた。あの子の決意を見送った私たち村人は、この静かな大地で今日も明日も農具を握り、生き続けるしかない。そして、あの子がいずれ貴族社会を揺るがすほどの力を得るのであれば、それが私たちにとっての唯一の救いなのかもしれない――そう思いながら、村の坂道を下っていった。