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8. 保守派との火種

 通りを行き交う生徒たちの視線が、やや騒然としていた。正門脇の掲示板に、普段ならあり得ないお触れが貼り出されていたからだ。


 “問題児クラスに臨時研究室を設置する”──そんな見出しが大きな文字で記され、貴族会からの補助やら、王族の特別許可といった単語が並んでいる。


「あれ、本当なのか? 落ちこぼれに研究施設?」


「王子のお戯れじゃない?」


 聞こえてくる囁きは好奇と嘲笑が入り混じったものだった。普段どおりなら通り過ぎるだけのユイスだったが、今日は嫌でも注目される立場になってしまったらしい。


 ◇◇◇


 薄暗い廊下をまっすぐに歩いていたユイスは、仲間たちの足音を背中で感じ取る。


「おい、マジで俺たち専用の研究室がもらえるってことか?」


 とトールが嬉しそうな声をあげた。


「そうらしいね。学園の命令として正式に告知が出たんだから、間違いないはずだよ」


 エリアーヌがちらりと掲示板の紙を振り返りながら小さく笑う。彼女の表情には安堵の色も混じっているが、まだ信じ切れてはいないようだ。


「保守派の連中、よく許したもんだな」


 レオンが肩をすくめる。彼の視線は冷めているが、その奥にわずかな期待が見え隠れする。


「みんなをまとめるんだろ、ユイス」


「ああ。確かにレオナート殿下の力は大きい。でもそれに甘えきったら、結局笑われるだけだ。自分たちで成果を出すしかない」


 ◇◇◇


 ところが廊下の角を曲がった瞬間、数人の姿が待ち受けるように立っていた。


 先頭にいるのはエリートクラスのギルフォード。侯爵家の嫡男として名高い彼は、手近な貴族生たちを取り巻きに従え、ユイスたちの前に立ちはだかる。


「へえ。問題児クラスがずいぶん勢いづいているようじゃないか」


 刺々しい声に、背後の取り巻きが軽い嘲笑を浮かべる。


 トールが即座に眉を寄せ、「なんだよ、どけよ」と突っかかりそうになるが、ユイスが腕で制止した。


「……何か言いたいことがあるんですか、ギルフォード」


 ユイスはなるべく冷静な響きで問いかける。


「さあな。王子に媚びて、特別扱いを手に入れたんだって? 模擬戦で無様に敗れたあんたらがさ」


 ギルフォードの笑みは、まるで牙を隠した肉食獣のように冷ややかだった。


「血統主義の尊さを思い知ったはずだが、まだ懲りないのか?」


 一瞬、トールの拳がぎゅっと握られる気配がする。エリアーヌが不安そうに視線を落とした。


 だがユイスは彼らを正面から見つめ、肩の力を抜いてみせた。


「そうだね。あんたの言う通り、大した力もなくて、模擬戦では惨敗した。けど……」


 わずかに息を整えてから続ける。


「だからこそ、これから先にやることがある。王子とどういう関係になろうと、結局のところ結果を出せるかどうかだろ?」


 ギルフォードの瞳に一瞬だけ苛立ちが混じる。


「ほう、まだ吠えるとはね。お前らの実力なんて、またいつでも分からせてやる」


 そう言い捨てると、彼は取り巻きたちを促して横を通り過ぎていく。トールが悔しそうな顔で振り返るのを、ユイスは再び腕で制止した。ここで言い返すより、先に進むほうが先決だった。


 ◇◇◇


 掲示板から少し離れた場所に、鉄格子のような扉がある。普段は物置として使われていた部屋──そこを改装したのが、今回の“研究室”だった。


「ここなのかな……」


 エリアーヌが扉を開けると、薄暗い室内の埃っぽい空気が鼻についた。トールが「うっ」と顔を背けながら、端に積まれた荷物を除ける。


「なんだよ、物置のまんまじゃねえか。こんなとこで本当に研究なんかできるのか?」


 彼は掃き出しに使えそうなホウキを見つけ出し、わざわざ通路を掃き始める。エリアーヌも「でも空き部屋があるだけ助かると思わないと」と笑って荷物を持ち上げた。


「設備は貴族会から補助が出るって話だけど、すぐに整うわけじゃなさそうね」


 ミレーヌが大きな紙束を抱えておずおずと口を開く。


「……いちおう備品リストを確認して、必要な道具をまとめておくつもりだけど」


「助かるよ。ミレーヌ、頼んでいい?」


 ユイスが礼を言うと、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。


「う、うん、がんばってみる」


 レオンは部屋の隅を見渡し、ぽつりと皮肉を投げる。


「本当にこれ、王子様のおかげで用意されたのか? しょぼいもんだな」


 とはいえ、その横顔はどこか真剣だった。家具や壁を一つずつ見比べるようにしている。


「何もないよりはずっといいわ」とエリアーヌが再度明るく言い添える。


「私、ちょっと掃除しちゃうから、トールくんも手伝って!」


「おう、やっとくよ!」


 トールは余ったホウキを持って、埃を巻き上げないようにゆっくりと床を掃き始めた。


 ◇◇◇


 廊下側から覗く人影を感じて、ユイスが振り返ると、保守派教師のヘルガ・ファルネーゼが冷たい視線を向けていた。中年の女性で、いつも厳格な表情を崩さない人物である。


「あら、ずいぶん意気込んでいるじゃない。王子の犬として借り受けた研究室が嬉しいのかしら?」


 言い方こそ静かながら、その棘ははっきりとしている。


 ユイスはどこかで聞き覚えのある嫌味だと感じながらも、努めて落ち着いて答えた。


「……どんな設備だろうと、使わせてもらう価値はあります。口出しされずに済むなら、助かる」


「せいぜい楽しむといいわ。どうせすぐに打ち切りでしょうけどね」


 保守派教師は小さく鼻を鳴らして廊下を去る。ミレーヌが青ざめた表情で「うう……まだまだ大変そう」とこぼした。


 だが、その直後に現れたグレイサーが少し笑いながら肩を竦める。


「いちいち気にするな。好きにやるのが、お前たちのいいところだろ」


 担任教師の穏やかな声に、部屋の空気がわずかに和らいだ。ユイスはグレイサーに向き直り、軽く頭を下げる。


「ありがとうございます。まずは部屋を整えて、研究内容を具体的に詰めていくつもりです」


「そうか。手伝いは必要ないよな? 俺は見てるだけだ」


 グレイサーの放任主義ぶりに、トールが「相変わらずだな」と苦笑した。エリアーヌは「私たちで何とかできるよね」と前向きにうなずく。


 ◇◇◇


 ギルフォードや保守派教師が投げつける視線は相変わらず険悪だ。それでもユイスは、研究室の窓を開け放って古い埃を払い落としながら、胸の奥に揺るぎない意志を抱いていた。


「よし、じゃあ、まずはこの部屋をまともに使えるようにしよう」


 ノートを取り出すと、予定している“数式魔法の実験”プランや必要な器具などをいくつか書き留めてゆく。


「ミレーヌ、備品リストが固まったら教えて」


「う、うん。たぶん夕方までにはまとめられると思う……」


「トール、荷物が多いから動かすのを頼むよ。エリアーヌは手先が器用だから、棚の仕切りとかを弄ってもらえたら助かる」


「おう、わかった!」


「任せて! 工夫してみるね」


 レオンは窓際で腕を組み、黙って見ていたが、最後に小さく呟く。「……王族がどう出るかは知らないが、ギルフォードが黙ってるとは思えないな」


 ユイスもそれを否定しなかった。廊下ですれ違ったときの鋭い視線は、いつかもう一度正面から激突するだろうと予感させる。


 それでも、今はとにかく動かなければならない。この研究室を“問題児クラスの逆転”につなげるために──そして、フィオナのためにも。


 ◇◇◇


 夕刻が近づくころには、床の埃もほとんど払われ、少しだけ研究室らしい形が整い始めていた。狭くて古い部屋だが、それでも五人が動き回れるだけの空間にはなる。


「こんなもんかな……」


 トールが汗を拭きながら天井を見上げる。ミレーヌは大きな書類束を抱え、「備品の要望をいくつかまとめたけど、上に通るかどうか……」と心配そうに声を落とした。


 ユイスはノートを閉じて、仲間たちを見回す。


「みんな、ありがとう。これでなんとかスタート地点には立てたと思う」


「うん。あとは実験計画とか、各々の分担をはっきりさせていけばいいよね」


 エリアーヌの口調は明るいが、その目には緊張が残っている。失敗すれば今度こそ完全に“落ちこぼれ”として切り捨てられることを皆わかっていた。


 レオンが窓辺に歩み寄って、外の夕陽を見つめながらつぶやく。「…保守派にも、ギルフォードにも…結果で示すしかない。そうだろ?」


 ユイスは黙って頷いた。どれほど周囲が嘲ってこようと、前に進む以外の道はない。研究を成功させる。それが数式魔法の可能性を示す唯一の手段なのだから。


 仲間たちと目を合わせ、一息入れたところで、ユイスは「よし、今日はここまで。みんな、無理しないで帰ろう。明日から準備を本格的に進めるよ」と声をかける。


 こうして“問題児クラスの新研究室”は、まだ埃の残るまま、小さな第一歩を踏み出したのだった。

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