19. ユイス・アステリア
翌朝、医務室の窓から差しこむ朝陽が、静かな空気をほんの少しだけ温めていた。問題児クラスの面々は簡素なベッドやパーティションのあるスペースで、それぞれ包帯や湿布をまだ手放せない状態だが、数日前よりはずっと表情が明るい。看護スタッフの指示で順次退院が許可され、同時に仲間同士で顔を合わせられるようになったのだ。
「よし……これで立てる」
腕に火傷の痕が残るトール・ラグナーが、ベッドの脇に置いた軽い荷物を背負いながらうなるように口を開く。まだ肌が赤く腫れたところを押さえつつも、その目には痛みを押し切るような力が宿っていた。
「まあ、無理は禁物だぞ。まだ火傷痕が痛むんじゃないか?」
レオン・バナードが声をかける。彼は額に包帯を巻いていたが、すっかり慣れた様子で、やれやれと言わんばかりの皮肉まじりの口ぶりだ。とはいえ、声の端々にはどこか安堵が感じられる。
「痛み止めは飲んでるから大丈夫さ。あのギルフォードの大技に比べたら、まだまだ軽いってもんだ」
トールが屈託なく笑ってみせると、隣のベッドでエリアーヌ・マルヴィスが、すがるようにトールの腕をのぞきこむ。
「本当に無茶しちゃダメだからね? 火傷はしつこいよ。完治したあとも後遺症とか……」
「おいおい、そんな怖いこと言うなって。そっちこそ大丈夫なのか? 回復魔法を頑張りすぎて倒れてたろ」
「そ、それは……わたしがもっと上手く回復できてたら、みんなをあそこまで苦しませなかったかもって思うと……ごめんね」
エリアーヌは下唇を噛みつつ、顔を伏せそうになる。だが反対側からミレーヌ・クワントが慌ててフォローした。
「い、いや、あれは私たち全員が同時にやられそうだったんだから……誰かが悪いわけじゃないのよ。もしユイスの術式がなかったら、もっと一瞬で終わってたかもしれないんだし……」
◇◇◇
ちょうど、その話題の中心人物が向かいのベッドから静かに立ち上がる。ユイス・アステリアは、まだ打撲が残るらしく、肩と背中に軽い湿布を貼ったままだ。立ち上がるとき、すこし顔をしかめていた。
「みんなを守るはずが、かえって危険に巻き込んじまった。俺は、まだ何も完成させられなかったのに」
ややうつむきながら言うその姿に、トールやレオンは口を開きかけたが、エリアーヌが先に笑顔を見せて首を振る。
「失敗じゃないよ。あの時、あれがなかったら私たち、本当に全滅してた。少なくともフェイズ・コンパイルの火力で、ギルフォードを少しはひるませられたんだよ」
「そうそう。結果はともかく、一瞬でもあいつをビビらせた。それって大事な一歩じゃねえか?」
トールも大きく頷き、「ビビらせた」は言い過ぎだろうとレオンが横やりを入れる。しかし、それを否定しきれないのは、皆どこかで「次こそは」と信じたがっている証だ。
ユイスはかすかに苦笑すると、彼らに向かって軽く頭を下げる。
「……ありがとな。でも、あれだけの痛手を負わせてしまって、本当にごめん」
「謝罪は不要。失敗なら失敗で、次に活かせばいい」
レオンが小声で言って、ちょっと気まずそうにそっぽを向く。その姿にエリアーヌがくすりと笑うと、トールが「まぁ、そういうことだ」と背中をドンと叩き、ユイスを照れさせる。ほんの数日前までは失意に沈んでいた問題児クラスだが、彼らの表情には少しずつ活気が戻ってきているようだった。
◇◇◇
数日後、医務室からの退院が正式に認められた問題児クラスの面々は、どこかしら痛みや後遺症を抱えつつも寮や教室に復帰していった。
古い壁と打ち込みの粗い木材が目立つ問題児クラスの寮棟で、仲間たちは久しぶりに顔をそろえる。使い込まれたソファや敷きっぱなしのマットが雑然と置かれた部屋で、さながら小さな反省会が開かれた。
「ギルフォードの血統魔法はやっぱり強かったね。こうもあっさり負けてしまうなんて、最初は思わなかったけど……」
ミレーヌがぽつりとつぶやく。あの雷炎の衝撃が頭から離れないのだろう。前髪を指先でいじりながら、微妙に視線を漂わせていた。
「けど、派手に散ったわりにはさ……私たち、割と『善戦』したみたいに思われてる気がする。実際、演習の最初よりは長く粘れてたし」
それを受けてエリアーヌが言葉を継ぐと、トールは大げさに胸を張る。
「そりゃそうだろ。あの大技がもし成功してたら、ギルフォード陣営は大ダメージを食らってただろうし!」
「あの人間怪獣相手に、一撃くらいは効いたかもな」
とレオンが皮肉まじりに言って皆を笑わせる。
◇◇◇
ユイスはその輪の外、壁にもたれたままノートを片手に黙りこんでいた。思考の深いところへ潜りこんだような顔つきだ。
反省会が一段落したころを見計らって、トールが口を開く。
「おい、ユイス? あんまり自分を責めんなよ。落ち込むほどの失敗じゃないだろ、あれ」
「……わかってる。たしかに、みんなのおかげで一瞬は可能性が見えた。だけど、未完成の術式を強行して仲間を危険にさらしたのは事実だからな」
ユイスの言葉に、エリアーヌとミレーヌが「そこは誰も責めてないよ」と慌てる。レオンは少し目を細めてから、「ま、そこを乗り越えないと何も始まらないだろうな」とぼそりとつけ足した。
外から扉をノックする軽い音が響いたのは、そんな微妙な沈黙が漂った直後だった。開いた扉の隙間から、保守派寄りとおぼしき教師が無表情で顔をのぞかせる。
「そろそろ授業に戻っていいそうだ。大丈夫なら教室へ来るように、とのことだ。くれぐれも無理はするなよ」
教師は最低限の言葉だけ告げると、すぐに立ち去ってしまう。その去り際、かすかに「……問題児クラスめ」と小さくつぶやいたのが聞こえ、トールがイラついた顔をする。しかしレオンやエリアーヌは聞こえなかったふりをした。
◇◇◇
次の日。学園の廊下を歩くユイスは、どうにも視線が落ち着かない。痛み止めを服用しているせいで少しふらつきが残るし、何より周りの貴族派生徒たちが彼を見る目がいつもと違うのだ。
「これがあの数式理論の子か……」
「でも、結局は敗北だろ?」
「ギルフォードの相手にはならなかったさ」
ひそひそとした声が耳に入り、ユイスは苦い表情をつくる。半面、「たしかにすごい火力だった」「もし完成すれば血統にも勝てるのかな」などの声も小さく聞こえ、期待とも嘲笑ともつかない奇妙な熱が周囲に漂っていた。
そんなとき、曲がり角からリュディア・イヴァロールが歩いてくるのが見えた。ユイスはとっさに足を止めようとしたが、向こうも視線を逸らしきれずに気づいてしまう。
「……こんにちは」
ユイスが頭を下げかけると、リュディアは少しだけあわてて近づき、小声で切り出す。
「もう大丈夫なの? 腕とか……痛みは引いた?」
彼女の言葉尻はどこか急ぎ気味だ。周囲の生徒に見られながら話すのはあまり得意ではないというように、ちらりと視線を左右に走らせている。
「まあ……多少は残ってるけど、ちゃんと歩けるし、これなら授業にも出られます」
ユイスがそう答えると、リュディアは一瞬ほっと息をつく。それを悟られないように少し背筋を伸ばしてみせるが、頬にうっすら赤みが差し、言葉を探している様子だ。
「そう。なら……いいけど。あまり無理しすぎないで。次また無茶をしたら、本当に身体がもたないわよ?」
「……ありがとうございます」
「別に私は先輩として言ってるだけだから、勘違いしないで」
リュディアがそっぽを向きながら口早に言う。その態度に、思わずユイスはくすりと笑みをこぼしそうになる。
「わかってる。……本当に、感謝してますよ」
改めて礼を言おうとするが、リュディアは「だからいいってば」と軽く手を振って、どうにか立ち去る口実を探し始める。
◇◇◇
夕刻、問題児クラス寮の一室。ここはユイスが自室として使うには少し狭いが、雑多な書類やノートを広げるだけのスペースは辛うじて確保できている。
もともと古びた机の上には、緻密な魔法陣の設計図やコードのような術式が書き連ねられた紙が何枚も重なっていた。ユイスはベッドに腰を下ろし、その山を一枚ずつめくりながらペン先で何か考え込み、時折書き足す。
「……位相重ね合わせ。あのときギルフォードを一瞬でも射程に捉えたのは、干渉をうまく制御できた火球の一つがピンポイントで命中しかけたから。でも、タイミングのズレを完全に抑えられなくて……結局は暴発」
彼の声は小さく、独り言混じりだ。ペンを走らせるたびに脳裏をあの模擬戦の光景がよぎる。ギルフォードの雷炎に圧倒され、仲間たちが倒れ伏した瞬間。けれど、その一瞬前には確かに可能性があった。
“あれが完成してれば、フィオナを見殺しにした貴族社会を変えられるかもしれない。血統主義を壊す力を、弱い俺たちだって持てるんだ……”
そう心の中で呟きながら、ユイスはノートに新しい見取り図を書き足す。そこには「フェイズ・コンパイル」「位相ロック」「干渉消失ライン」など、専門的な走り書きが乱雑に連なっている。
微かに残る前世のプログラムをデバッグしていた頃の本能が、彼にシビアな最適化を求め続ける。エラーが出れば修正し、互いのコードブロックを組み直す。たとえ失敗しても、その積み重ねがいつか完璧に近い術式を生み出す——ユイスはそれを信じて疑わない。
紙の上では魔法陣の断面図と解析用の数式が少しずつ形を変えていく。真っ暗な窓の外には、学院の明かりがところどころ点在し、夜の訪れが間近だと告げていた。
窓ガラスにぼんやりと映った自分の姿を見つめ、ユイスはぽつりと口を開く。
「あのとき……フィオナを守れる力がもしあったなら、こんな理不尽は起こらなかった。……絶対に、完成させてやる。どんなに時間がかかっても」
室内には誰もいないのに、まるで遠い空の向こうにいる幼馴染へ語りかけるような声。彼は唇を引き結び、ノートをぎゅっと握りしめる。
もう誰にも見捨てられない。自身の手で血統主義を覆して、平等な力を手に入れる。それが、フィオナに報いる唯一の道だと思っていた。
ノートにペンを走らせる動きは止まらない。小さなランプの灯りが揺れるたび、その影は大きくユイスを飲み込むように映し出される。
「……次こそ、絶対に」
そう静かにつぶやいたとき、ランプの灯火が小さく揺れ、紙面の数式がさらに複雑な影を落とす。夜はこれから。ユイスの研究も、まだ終わらない。
部屋の外から聞こえてくる宿直教師の足音を気にする様子もなく、ユイスは再び紙とペンに向かい合った。ノートの余白に「リライト式安定化」「干渉抑制」など新たなキーワードが書き加えられていく。
火傷のヒリつくような痛み、そして仲間たちの傷、リュディアの心配げな顔——それらが再び彼の胸を強く突き動かす。もう一度、あの数式魔法を失敗のまま終わらせるわけにはいかない。
夜の更ける寮の一室。ここからまた、ユイスの長い長い再起の物語が続く。声にならない決意が、蝋燭の揺れる明かりの中で確かな形をとり始めていた。




