18. グレイサーとレオナート、そしてリュディアのモノローグ
「失礼するぞ」
扉が開き、グレイサー・ヴィトリアが顔をのぞかせる。いつも通りの飄々とした表情で、右手にはコーヒーカップを持っていた。問題児クラスの面々は思わず小さく背筋を伸ばす。
「おや、悪くない顔だな。もっと沈んでるかと思っていたが」
彼は医務室の壁に寄りかかり、ユイスに目を向ける。ユイスはすぐに言葉が出ず、しばし唇を噛んだまま動かない。するとグレイサーはコーヒーをひとすすりし、いつもの気だるげな調子で続けた。
「お前たち、よく粘ったんじゃないか。保守派の連中も、あれだけの火力が一瞬でも出たとなると完全には無視できないだろうな」
レオンが皮肉交じりに肩をすくめる。
「ええ、そうでしょうね。皮肉なもんです。大敗北だけど、少しは目を向けられるってわけか」
ユイスはゆっくり息を吐き、ベッドから立ち上がろうとした。身体はまだ思うように動かず、ミレーヌが慌てて支える。
「……結局、勝てませんでした。皆もケガをしたし、俺は何も成し遂げていない」
グレイサーは一瞬だけ眼差しを鋭くし、だがすぐに形の崩れた笑みを浮かべる。
「成し遂げる? 大それたことを言うなよ。保守派は、この模擬戦の結果を踏まえてお前を追い出そうとするかもしれない」
「……わかってます。けど、俺は諦めません。数式理論を完成させなきゃいけないんです。諦めたら、本当に終わりですから」
ベッドに手をつきながら、ユイスはかすれた声を絞り出す。するとトールたちが心配そうに顔を向けるが、ユイスはその視線を感じて余計に歯を食いしばった。グレイサーは苦く笑って、コーヒーカップを傾ける。
「そうか。好きにすればいい。前に言ったろ? お前の人生だってね」
それだけ言うと、彼は背を向けてドアへ向かいかけ、去り際にぽつりと呟いた。
「保守派に潰されないよう、多少の盾くらいはやってやるさ。――でも、最後は自力で切り開けよ」
その背中を見送るユイスの拳は、ベッド柵を握ったままわずかに震えていた。
◇◇◇
場所は移ろい、学園の貴賓室らしき広間。そこにはレオナート・アルスレアが窓辺に立ち、遠く学園の敷地を見下ろしている。窓の外は白い光が差しているが、室内には保守派の教師や貴族議会の使者らしき者が並び、多少重苦しい雰囲気が漂っていた。
「殿下、先日の模擬戦につきましては、エリートクラス側のギルフォード殿が圧倒的勝利を収められました。問題児クラスは――」
貴族議会の使者とおぼしき初老の男が言葉をつなごうとするが、レオナートは口元に笑みを浮かべる。
「ええ、見せてもらいましたよ。たいへん華やかな勝ち方だった。けれど……あのユイスという生徒、あれほどの火力を一瞬でも出したのは興味深い」
保守派の教師が居心地悪そうに目をそらす。
「そ、それは問題児クラスなりの小細工かと。血統魔法には到底及ぶものではございません。単なる暴発と申しましょうか……」
レオナートは目を細め、小さくうなずく。
「それでも、庶民の新しい手法というのは、案外面白い可能性を秘めているかもしれない。わたしもいずれ直接そのユイスと話してみたいものだが」
「殿下、それは……お戯れかと。下賤の者の浅はかな術式に興味をお持ちになる必要は……」
貴族議会の使者が口ごもると、レオナートは静かに振り返る。
「そう、戯れでも構わない。それが王族の特権というものだろう。私としては、“血統”に頼り切る世界が少し変わるかもしれないという期待を抱くだけだよ」
その言葉に保守派たちは顔を強張らせ、誰もすぐには返答できない。レオナートはわずかに微笑んでから、窓の外を見つめ直す。
「――面白い。ユイス、か。どんな人物なんだろうね」
その声には、薄い好奇心と確かな狙いが同居していた。
◇◇◇
夜が更けた上位クラス寮。多くの部屋からは明かりが消えかけているが、その一室でランプが静かに揺れていた。リュディア・イヴァロールは椅子に腰掛け、母の形見である小さなペンダントに指を触れている。
――あれは、ほんの一瞬だった。ユイスの火球がまとまりかけたあのとき、確かに“何か”が生まれそうな気がした。
しかし結果は大敗。ユイスも他の仲間も傷だらけになった。あの儚い輝きが、今でも目の奥に残っている。
「……数式理論、か。あれが本当に完成したら……」
自分でも驚くほど胸が疼く。ユイスが危険な魔法を使って、ボロボロになって、それでも諦めない姿が脳裏に焼き付いて離れない。
「伯爵家の立場があるのに、どうしたら……」
ふと気づくと、手にしていたペンダントがぎゅっと握られていた。平民出身の母を尊敬しているとはいえ、リュディアは伯爵家の令嬢であり、上位クラスの一員。周囲の視線や批判を恐れずに動くことが、果たしてできるのか。
「でも、あのままじゃ……彼は、いつか本当に潰されてしまうかもしれない」
声にならない心の叫び。あの危うい術式を捨てない限り、ユイスは常に危険と保守派の圧力に晒される。それを見ているしかない自分自身が、ひどく歯がゆかった。
――どうにかならないのだろうか。
机に置かれたランプの灯りが、淡く彼女の横顔を照らす。部屋の窓は閉じられ、夜の闇がしんしんと広がっている。
「……私ができること、何か……」
小さく呟いてみても、その答えはすぐには見つからない。リュディアは胸の奥がざわつくのを抑えられず、ペンダントをそっと胸元に押し当てた。かすかな光が揺れたが、あくまで静寂だけが部屋を支配している。
窓の外、遠い学園の敷地には、あの問題児クラスの寮もある。そこにはユイスがいて、同じように眠れずにいるかもしれない。そんな想像が、かすかにリュディアの意識をかき乱す。
やがて彼女はかすかな吐息をこぼし、立ち上がることもなく椅子にもたれて目を閉じた。
――もう少し、時間が欲しい。できるならば、彼らの力になりたい。それが無理でも、せめて次に彼が倒れそうになるとき、手を差し伸べられるように。
だが言葉にはできず、自分の立場を思えば、下手に動けば母の出自を揶揄されるだけかもしれない。
ランプの小さな灯りが、リュディアの心のざわめきと共に揺れて、そして静かに夜が更けていく。部屋を通り抜ける微かな風が、彼女の想いをどこへ運ぶのかは、まだわからない。




