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5. 旅立ちの朝

 朝もやが薄く漂う村の墓地には、草露がきらりと光っていた。まだ日が昇りきる前の静謐な時間。


 ユイスはひとり佇み、簡素な木杭の前で膝をついている。その先には、フィオナが眠る小さな墓があった。周囲の野花がしとどに濡れ、朝の冷気を纏った風がかすかに頬を撫でる。


 かつては、ここでいつまでも泣き崩れていたことがあった。しかし今のユイスは、涙を見せずに俯いている。胸の内で寄せては返す波のように、思い出と悔恨が交錯するのを、ただ押し殺すように受け止めている。


 微かに震える指先が、墓前の小さな石を軽く触れた。二人で川辺を駆け回った光景が一瞬よぎり、「明日も遊ぼう」と笑い合った声が耳に蘇る。あの頃の柔らかな記憶と、フィオナの息が詰まるほどの苦しげな最期が、同じ重さで彼の心にのしかかる。


 静かに息を吐いたユイスは、両手を合わせて短く目を閉じる。


「今度こそ、誰も失わせない」


 声は低くかすれていたが、その奥には強い確信があった。手のひらを外し、墓前に軽く触れる。何も返事は返らない。けれど、その沈黙こそが、“この世界の現実”なのだと彼は知っている。


 ここで終わるつもりはない――そう思いながら、ユイスはそっと墓に背を向けた。空が白み始め、村の向こうから鶏の鳴く声がかすかに聞こえる。行くべき場所があるのだと、自分に言い聞かせるように足を踏み出した。


 村の中央に立つ広場には、すでに数人の顔見知りが集まっていた。村長フォードをはじめ、普段は畑仕事や家畜の世話に忙しい村人たちが、なぜか手を止めて一箇所に集まっている。


 フォードの視線がユイスを見つけ、軽く手をあげる。ユイスは小さくうなずきながら近づいた。


「やはり行くのか」


 フォードの言葉に、ユイスは何も返さない。ただ、小さな鞄を背負い、黙ってその場に立つ。その姿がすべてを物語っていた。


 そこへ、口うるさかった隣家の老女が駆け寄り、真剣な顔で声をかける。


「本当に行くんだねえ。若いのに危なっかしい研究ばかりして。だけど……まあ、気をつけてね」


 その老女はかつて、フィオナと一緒にハーブを煎じてくれたことがある人だ。ユイスはその一瞬の思い出に表情を曇らせ、返答に詰まる。


 その気まずそうな様子を見かねて、別の農夫が「まあまあ、行ってらっしゃい」とエールを送った。そちらは陽気な笑みを浮かべているが、その目には寂しさと心配が滲んでいる。


 すると、行商人が人垣の向こうから姿を見せる。いつもの明るい調子で片手をあげ、ユイスのほうへ小走りにやってきた。


「おお、出発か。ちょうどいい、これでも持って行けよ」


 そう言って差し出したのは、小さな革袋だった。中には携行しやすい乾燥食料が入っているらしい。ユイスが手に取ると、行商人はウインクのように片目をつぶる。


「魔道具研究に一番必要なのは腹だ。腹が減っちまったら何もできやしねえだろ?」


 ユイスは一瞬戸惑ったように目を伏せるが、軽く会釈する。


「ありがとう。助かる」


 それ以上の言葉は出てこないが、行商人は気にするふうもなく大きく手を振ってみせる。村の誰もがそれぞれに、彼が無事であるよう願っているのだと、ユイスは肌で感じていた。


 しかし、その好意に素直に応じる心の余裕が、彼にはなかった。フィオナを失ったことへの後悔、そして領主カーデルを筆頭とする貴族社会への憎悪――それらが彼の胸を占めており、優しい言葉に応じれば応じるほど何かをこらえる必要があるように思えた。


 フォードがふたたび、ユイスの前に立つ。


「馬車を手配できず、徒歩の旅になるが……大丈夫か? 少なくとも町まで出れば、定期便に乗れるはずだ。世話になりたいのなら、この行商人が連れて行ってくれるだろう」


 フォードの申し出をユイスは首を振って辞退する。


「歩きで構いません。少し時間はかかりますが、そのほうが気が楽なので」


 その言葉に、フォードは眉間に刻まれた皺を深めたが、もはや説得しても無駄だと悟ったのだろう、静かに肩をすくめるだけだった。


 他の村人たちがちらほらと口を挟む。


「気をつけて行けよ、変な貴族に目をつけられんようにな」


「体調だけは無理するんじゃないぞ」


 ユイスは頷くふりだけして、鞄の紐を持ち直す。その姿勢には、どこか冷たい印象すらあった。幼い頃なら「ありがとう」「また帰ってくる」などと素直に言ったかもしれないが、今の彼には、ただ一言でも多く語れば感情が乱れそうで怖い。


 そうして数歩離れかけたところで、不意に声がかかる。


「ユイス……」


 そのか細い呼びかけに振り返ると、フィオナの祖母がそこに立っていた。杖を突いて小さな体を支えながら、震える瞳でユイスを見上げる。


「行くんじゃね。あんたはもう十分……」


 何を言おうとしているのか、声にならない言葉を繰り返す祖母を前に、ユイスも口をきけない。結局、祖母は「気をつけて」とだけ呟いた。


 村の見送りはそれで終わった。静かなようでいて、言葉にしがたい空気がそこにある。ユイスは誰とも目を合わせず、背を向けるように歩き始める。行商人が名残惜しそうに手を振っている気配を後ろに感じながら、一度も振り返らないまま村の外れを目指す。


 地平線が朝陽で淡く染まり、麦畑の先に広がる土の道がオレンジ色を帯び始める。あの川辺で遊んだ日のことが頭を過るが、ユイスは意識的に振り払うように額に手をやる。数年前、フィオナの葬儀で惨めさと悔しさを噛みしめた場所から、一歩でも前に進むためにここを出る。


 村の境界を示す木柵まであと少しというところで、小さく靴ひもを結び直す。視線を下に向けると、土の上に落ちた自分の影がどこか孤独に揺れている。


「フィオナを守れなかった俺だけど……次は絶対に」


 呟きというより、吐き捨てるような声でそう言う。握った拳から血が滲むほど強く爪が食い込み、記憶の中でフィオナの笑顔が浮かんでは消える。彼女の声はもう聞こえないけれど、その存在はずっと背中を押しているのだ。


 静かな風が吹いて、麦の穂がさざ波のように揺れる。ユイスはその景色に一切見とれることなく、視線を先へ向ける。目指すは学園のある王都。その道中には何が待ち受けているかわからないが、立ち止まっているわけにはいかない。


 こうしてユイスは村を出た。ささやかな荷物にはノートや刻印道具、そして村の人々がくれた少しの食料が詰め込まれている。外の世界を旅したことはほとんどないが、彼の心にははっきりした目的がある。


(魔力が弱くたって構わない。数式で補えば、大魔法だってきっと再現できる。そうすれば……)


 自問するかのように、そして自分を信じ込ませるように、何度もその理論を頭の中で繰り返す。遠くに見える森を抜ければ、もっと大きな街道に出るはずだ。そこから幾日かかけて王都へ行き、学園の門を叩く。


 貴族たちにどんな扱いをされようと、ユイスの決意は揺るがない。フィオナを死なせた不条理を覆すため、彼女の代わりにどれだけのものを壊せるか――その思いが、歩む一歩一歩に宿っている。


 歩き出してしばらくすると、背後から小さな「がんばれよ」とかすれ声が届いたような気がした。おそらく行商人か誰かが追いかけて言ったのかもしれないが、ユイスはそのまま振り返らない。振り返れば、きっと心が乱れてしまう。


 道端の草を踏む感触と、鞄の中で揺れるメモ帳の軽い音が、旅立ちを現実のものへと変えていく。ノートには長い夜を費やしてまとめた数式理論がびっしり詰まっている。それらが“腐った社会を変える武器”になると、今のユイスは信じていた。


 こうして歩を進めるうち、村は視界の奥に小さくなっていく。家々の屋根や、麦畑のどこか懐かしい色彩が遠のくたびに、胸の奥が緊張で締め付けられる感覚があった。けれど、同時にゆっくりと力が湧いてくるのも感じる。


 新しく始まる学園での日々が、どんなものになるのかはわからない。だが確かなのは、あの村の温かさと冷酷な現実を両方味わった経験が、彼を前へと押し出しているということ。


「ここから始まるんだ」


 ユイスはほとんど聞こえないほどの声でそう呟く。誰に言うともなく、それは彼自身への宣言だった。足元の土の道が続く先には、大きな街道がある。荷馬車や旅人の足跡が行き交う、いわば外の世界への入口だ。


 “今度こそ誰も失わないために、数式魔法を極める”


 自分の中で何度も繰り返すうちに、その誓いがより一層色濃くなる。胸の奥で燃え上がる炎は、フィオナを守れなかった苦しみを忘れるためではなく、同じ悲劇を繰り返さないための原動力だ。


 風が少し強くなり、背中の鞄が揺れる。遠くで朝露を振り払うように、馬の嘶きが聞こえた気がする。やがて村の風景が見えなくなったとき、ユイスの目には森の入り口へ差し込む眩しい朝日だけが映っていた。彼はその光にひるむことなく、まっすぐ歩を進める。


 こうして、ユイス・アステリアの旅立ちの朝は静かに幕を下ろした。村に残された人々の言葉や思いを背に、彼は一人、世界を変える大きな一歩を踏み出したのだった。

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