9. 学園最強の影
夜の帳がすっかり落ちきった倉庫に、一つのランプの明かりだけが頼りなく揺れていた。倉庫の奥にある古びた作業台には、雑多な器具とノートが山積みされている。その中心でうずくまるように身を寄せる影こそ、ユイス・アステリアだった。
彼は短い息を繰り返しながら、ノートの端に素早く数式を書き加える。
「火球の詠唱を短縮する方法は、だいたい形にできたはず。でもあれじゃ、ギルフォードの雷撃には届かない…」
独り言がこぼれると同時に、ペンを走らせる手が止まる。すでに何度も書き直した形跡があり、用紙には切り貼りした紙片や赤い修正跡が無数に残っていた。
◇◇◇
翌朝の演習フィールドは、さながらお祭りのようにざわついていた。いつもならエリートクラスだけが使うはずの訓練スペースに、ギルフォードの取り巻きや興味本位の学生たちが集まり、遠巻きにその華やかな魔法を見物している。
「ギルフォード様、今日もすさまじい火力をお見せください!」
黒っぽいマントを翻した取り巻きの一人がそう叫ぶと、ギルフォードは鼻で笑うように小さく息を吐き、右手をかざした。
「いちいち騒ぐな。ちょっと試すだけだ」
その言葉とともに、ギルフォードの手元に淡い紫色の電光が集まっていく。静電気のようなピリリとした空気が辺りを包み、見物していた生徒たちが思わず足を引く。
「雷火球…行くぞ」
簡単な詠唱を口にした刹那、青白い閃光がひとつに凝縮され、巨大な電撃の塊が的めがけて疾走した。的はひとたまりもなく焦げ跡だけを残し、あたりに硝煙のような匂いが広がる。
「うわ、すげえ…」
「ほんとに一年生かよ…」
周囲の学生が口々にざわめくのを尻目に、ギルフォードは勝ち誇った表情を隠そうともしない。取り巻きたちが「さすがギルフォード様!」と拍手を贈り始めると、その場の熱気は頂点に達しようとしていた。
しかし、そこへふと空気を裂くように、大柄な上級生が姿を見せる。
「へえ、派手にやるな、ギルフォード」
低く響く声は冷えきった凄みを帯び、演習フィールドにいた何人かが思わず固まる。
「アスラ先輩…お疲れ様です」
ギルフォードが恭しく一礼すると、アスラは「ふん」と鼻で応じるだけ。周囲の取り巻きにも視線すら向けない。
「雑魚相手にはお似合いの魔法だ。どんどん撃ってみせればいいさ…本当に強くなりたいなら、それ相応の相手とやらなきゃ意味がないけどな」
そう言い残すと、アスラは踵を返してすぐに去ってしまう。取り巻きの一人が露骨にムッとしたような顔をするが、ギルフォードが目で制止した。
アスラの背中が完全に視界から消えると、ギルフォードは唇をかすかに引き結ぶ。
「先輩にバカにされるのは、もう慣れている。今は…あのユイスとかいう庶民崩れをつぶすのが先だ」
「ギルフォード様、あの火力なら問題児クラスなど一撃ですよ」
ギルフォードは複雑そうに肩をすくめる。
「アスラ先輩に見合う強さを、俺が手に入れるにはまだ足りない。まずは模擬戦で確実に勝ち、存在感を示すしかないんだよ…」
◇◇◇
そのやりとりを離れた場所からじっと見つめていたのは、ユイスだった。
演習フィールドの隅に立ち、ノートを胸に抱えながら、ギルフォードが放った雷撃の残滓を目で追う。
「大した火力だな…あれだけのエネルギーを出せるとは」
つぶやいた声には焦りが混じる。手にしたノートには術式リライティングのページが挟んであるが、相手の雷撃を止める威力まではまだ備わっていない。
視線の端に、アスラ先輩の姿がちらりと見えた。ギルフォードが背筋を正すほどの存在感――それに対してアスラは、あからさまに興味を持たない風だった。
「…あいつですら、あの上級生には敬語か」
そんな上には上がいるという事実に、ユイスは薄ら寒さを覚える。それでも気を取り直し、ノートを抱きしめるように胸に当てた。
「まずは模擬戦だ。あいつの雷撃に負けないよう、こっちの数式理論をもっと仕上げるしかない。さらに大火力を目指すなら、フェイズ・コンパイルに踏み込みたいが…」
隣に立っていたレオンが横目でユイスを見遣る。
「ほんと、化物だらけだよな。ギルフォードの雷撃も十分厄介だが、あの先輩の圧力は段違いだ」
「あんなのと真正面からやることになったら…想像しただけで嫌になるよ。ま、今はギルフォードに集中だな」
「ま、せいぜい暴発しないように研究しとけよ。お前が倉庫で自爆したら、それこそみんな困るんだから」
「分かってる」
遠くでギルフォードが取り巻きに囲まれながらフィールドを出ていく。保守派教師の何人かは「ふん、あれだけの実力があれば王子殿下もご満足だろう」などと勝手なことを言い合い、問題児クラスにチラッと冷たい視線を投げる。
「…ああいう連中こそ、いつか打ち負かしたい」
ユイスはノートを抱える腕に力を込め、悔しげに言葉を落とす。エリアーヌやトールが少し離れた場所で目を丸くしているのが見えたが、今は余裕がない。
「あれほどの火力を超えるには、短詠唱だけじゃ駄目かもしれない…ほんの一度でもフェイズ・コンパイルの実験を試してみるしかないな」
◇◇◇
日が傾き始めたころ、フィールドを後にしたユイスは、再び倉庫に向かう。
その背中を見送りながら、保守派教師がわざとらしく呟いた。
「模擬戦はもうすぐだ。どうせ結果は見えてるがな。問題児クラスが勝てるはずもない…」
聞こえてくる嘲笑を聞き流して、ユイスは廊下を足早に進んだ。倉庫の冷たい空気と、ノートに書き殴った数式だけが、今の彼にとって唯一の武器だ。
(ギルフォードに勝たなきゃ先に進めない。あのアスラとかいう先輩がいるなら、なおさら…ここで負け続けたら、自分の数式理論だって誰にも信じてもらえない)
ちらりと振り返って見た演習フィールドには、すでにギルフォードと取り巻きの姿はなかった。だが、その場に残る焦げついた的の残骸が、生々しく雷撃の威力を物語っている。
「俺だって、負けない…絶対に」
ユイスは小さく息を吐き、荷物を握り直す。燃えかすのような空気を一瞥してから、夕陽に染まる窓辺を横切り、倉庫への階段を下りていった。
次の模擬戦まで、あとわずか。
問題児クラスの劣勢は変わらないが、ユイスは数式理論にこめた意地で、どうにか勝ち筋を探し続ける。
ギルフォードの雷撃、そして学園最強と噂されるアスラ先輩――その圧倒的な影に胸を軋ませながらも、ユイスは一度も足を止めなかった。心の奥底で「まだ終わりじゃない」と呟きながら、薄暗い倉庫の扉をそっと開くのだった。




