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4. 数式魔法の萌芽

 薄曇りの夕方、村のはずれにある納屋の扉がかすかに揺れていた。中からは金属同士が擦れる軽やかな音と、微かな火花の光が漏れている。


 そこでは十六年ほどになったユイス・アステリアが、黙々と何かの作業に打ち込んでいた。かつてこの納屋は農具や干し草を置くためだけの場所だったが、今は古い机や道具が所狭しと並び、どこか異様な雰囲気を漂わせている。


 ユイスは素朴な木の台の上に捨て鉱石を固定し、その表面に線刻を試みていた。彼の手先には細いペンのような道具が握られているが、その先端には独特の紋様が彫られているらしい。時折光がちらつき、ただの鉱石だったはずの欠片が微かな魔力を帯びるように見える。


「もう少し、角度を削って……」


 声に出さず、唇だけが小さく動いている。彼の視線は鋭く、まるで周囲の空気すら遮断してしまうほどの集中ぶりがあった。


 その納屋から少し離れた場所では、村長フォードと数人の村人が遠巻きに様子を窺っている。


「また夜遅くまで何かやっているのか……」


 低い声で呟いたのはフォードだ。フィオナを失ってからというもの、ユイスは表情を変えることが少なくなった。村人の声かけにも生返事で、何かにとり憑かれたように研究らしき作業を続けているという。


「こっちが心配しても、その気持ちは届いてない様子ですよ」


 脇に控えていた年配の男がため息混じりに言う。村人たちは口々に「やるせないねえ」「身体は持つのか」とささやきながら、しかし近寄って声をかける勇気はないらしかった。


 納屋の扉がわずかに軋み、ユイスが外へ出る。彼の服には煤や鉱石の粉が付着し、夜風に煽られて冷たい空気が頬を撫でる。村長たちの姿に気づいた様子もないまま、ユイスは夜空を見上げた。


 すでに日没はとっくに過ぎ、星がうっすら瞬いている。彼は軽く首を回し、深い息をつくと、再び納屋の扉を閉めた。その横顔は十五、六の少年には似つかわしくないほどやつれた印象がある。夜な夜な研究に没頭しているという噂が、まぎれもない事実なのだと村長たちにあらためて知らしめる形になった。


 一方でユイスの内心には、別の炎が燃えていた。


(どこまで魔力の流れを削ぎ落とせるのか。鉱石への魔力刻印が完成すれば、出力制御の効率が格段に上がるはず……)


 彼の脳裏には数列や符号じみた思考が渦巻いている。幼い頃にはなかった理詰めのアプローチが、いつしか彼自身の根っこになりつつあった。フィオナを失った悔しさを糧に、夜通し検証を繰り返す。


「うまくいけば、領主のような連中にも隙を作れるかもしれない」


 声量はないが、呟きの底には苛立ちや執念が感じ取れる。十六歳の少年とは思えないほど、彼の目には陰を宿していた。


 その翌朝、村長フォードは久しぶりにユイスと会話をする機会を得た。村の中央にある広場で、行商人が珍しい荷を運んできたとの話があり、ユイスが顔を出すのではないかと踏んだのだ。案の定、ユイスは何かの資材になりそうなものがないかと、行商人の荷車を探るように見て回っている。


「ユイス、少し話をしてもいいか」


 フォードが遠慮がちに声をかけると、ユイスはちらりとこちらに視線を投げた。


「……何ですか」


 ほとんど感情のこもらない相槌だが、会話を拒むわけでもない。フォードはほっと胸を撫で下ろすようにしながら、控えめに切り出した。


「お前の作業のことだ。村の者が心配しておる。最近、ちゃんと眠っているのか?」


 するとユイスはわずかに肩をすくめた。


「体調は問題ないです。やらなきゃいけないことがあるだけで……」


 フォードはそんな彼の様子を見て、かつて川でフィオナと遊んでいた少年の面影を思い出す。あの頃とはまるで別人のようだ。背も伸び、顔つきも鋭利になり、いつも難しいものを抱えている雰囲気をまとっている。


「ユイス坊、こんな鉱石とか金属くずで何をするんだ? さっきもどこか興味深そうに選んでたけど」


 彼は山積みされたガラクタの束を軽く叩きながら笑っている。何度かこの村に来るうちに、ユイスと顔見知りになっていたらしい。


 ユイスは行商人を一瞥すると、手にしていた欠片を少し持ち上げた。


「魔力を流す練習をしています。捨てる鉱石でも、うまく刻印を施せば道具として再生できるかもしれない」


「へえ、面白いねえ」


 フォードは渋い顔を浮かべたまま、ユイスの言葉に重ねるように口を開く。


「その研究とやら……本当に、お前のためになるのか?」


 ユイスは答えず、黙って行商人の荷車から使えそうな材料を探している。フォードの疑念には構わないといった態度だ。しかし、村長は今回ばかりは引き下がれなかった。


「フィオナのことを忘れろとは言わん。ただ、お前が憔悴しきって倒れでもすれば、彼女も安心できんのじゃないか」


 その言葉にユイスの手がピタリと止まる。


「……僕は大丈夫です」


 ぽつりとそれだけを言うと、再び作業に向き直った。フォードは言い返す術をなくし、静かにその場を離れる。


 午後になると、村のはずれでユイスの姿を見かける者は少なかった。彼は納屋で火を熾し、持ち帰った鉱石をひたすらに研磨していた。時折メモ帳を広げ、書き込んだ数式らしき文章を指でなぞる。


 その指先が軽く宙を描き、呪文にも似た小声が数音だけ漏れる。途端に石の表面に走る細い紋様が、ふっと淡い光を放った。


「……やった。余分な詠唱を削れた」


 ユイスの口元が少しだけほころんだ気がした。しかし、その光はわずか数瞬でまた消えてしまう。計算がうまく噛み合わなかったか、石が魔力に耐えきれなかったのか、原因は彼にも明確ではないらしい。


「まだまだ……」


 額の汗を拭う間も惜しむように、紙に走らせるペンが止まらない。魔法陣に似た幾何学模様、図形と数字を組み合わせたようなメモが増え続ける。それは旧来の血統魔法とは全く異なる、彼独自の理論を組み上げるための足がかりに見えた。


 その晩遅く、納屋の扉を軽く叩く音がした。ユイスはちらりと振り返り、気だるげに扉を開ける。そこには封書を手にした少年が立っていた。


「村長さんからの伝言だ。お前宛てに王立ラグレア魔術学園から手紙が届いたらしい」


 淡々と告げるその少年に、ユイスは不思議そうな顔をする。村長に渡すのではなく、直接ユイスの名を宛にして来たのだろうか。


 扉越しに受け取った封書には、しっかりと学園の紋章が押されている。


「学園……? まさか……」


 ユイスの手が微かに震えた。納屋の中を照らすランプの火が揺れ、彼の視線が封を開けて走り読みした手紙の文面に集中する。


 “王立ラグレア魔術学園は貴殿の研究に関心を持ち、特例奨学生としての入学を認める”――といった趣旨が、端正な筆跡で綴られていた。


 実は先日、ユイスが何気なくまとめた数式理論の一部を、村長フォードの勧めもあって王都へと送付した経緯がある。領主カーデルの監視をくぐり抜けながら、フォードが知人を介して学園関係者に渡したという話を耳にしていたが、正直大した期待はしていなかった。


(評価された……? こんな“邪道”だと罵られるかもしれない研究が……)


 思わず唇を噛む。ここでの生活に埋没していては、フィオナの無念は晴らせないと分かっていた。しかし、学園という場所へ本当に受け入れられるなど予想外だった面もある。


「どういう風の吹き回しだ……」


 呟きながら、ユイスの瞳には次第に冷たい光が宿る。もしここから出て、学園という貴族社会の中核へ入り込めれば、貴族を打ち負かす糸口を見つけられるかもしれない。あの領主カーデルのような存在を、自分の手で変えられる可能性がある。


 故郷の村にこもっているだけでは何も始まらない――その思いは、彼が夜な夜な魔術の研究に没頭する原動力だった。


 翌朝、村長フォードがユイスの家を訪ねると、彼は必要最低限の荷物をまとめていた。


「やはり学園から来た手紙、内容を確認したんだな」


 フォードの声は低いが、どこか安堵したように聞こえる。ユイスは足下の鞄に触れながら短くうなずく。


「特例奨学生という枠だそうです。学園内でどんな扱いを受けるかはわかりませんが、これが僕の研究を広げる手だてになる。それに……今のままでは何も変えられないし」


 最後の一言は自分自身への決意のようだった。フォードは複雑な思いをこらえ、口を結ぶ。正直、ユイスの危うさが心配でならない。しかし、このまま村に閉じこもらせておくこともできないだろう。


 外では、フィオナの祖母が敷地の片隅で畑仕事をしている。ユイスはその姿を横目でとらえ、胸の奥にチクリと痛みを覚えた。祖母の瞳はあの日以来どこか塞ぎ込んでいるが、ユイスへ声をかけることも少なくなった。


 これ以上、村での暮らしを続ければ、自分は研究に没頭するだけの日々で終わる。それはフィオナが望んでいた“誰もが笑顔で生きられる世界”とはほど遠い。


「僕は行きます。学園で力をつける。その先で……」


 言葉を言いかけて止める。フォードは苦い顔をしたが、若者の覚悟を止める権利など自分にないと悟る。


「……わかった。行く前に、一度だけ村の皆にも顔を出してやってくれ。そりゃあみんな、お前のことを心配しているんだから」


 それに対してユイスは静かに頷いた。そしていつものように、夜には納屋にこもるつもりらしい。


 その夜、ユイスは納屋ではなく墓地のほうへ足を向けた。久しぶりに訪ねるフィオナの墓前には、季節の野花が少しだけ供えられている。誰が置いたかはわからないが、祖母かもしれない。


 ユイスはしゃがみ込み、小さく息を吐いた。前を向いて生きろとフィオナが言ったわけではない。けれども、彼女の優しい笑顔が脳裏に浮かぶと、不思議と足がすくむことはない。


「学園に行く。数式魔法を完成させて、いつかこの国を変えてみせる」


 声にはほとんど感情は含まれていなかったが、その瞳には燃えるような光が宿っている。炎に焼かれそうなほどの執念が、彼を眠りから遠ざけ、突き動かしてきたのだ。


 少し離れた場所で細い影が、その姿を見守っていた。だが声をかけることはせず、ただ夜の空気の中で小さく震えている。ユイスは振り返らず、墓標へ目を落とす。


 何事もなかったように闇が訪れ、村の家々から灯りが消えていく。ユイスは月明かりの下、何を思うでもなく、ただ墓前に立ち尽くしていた。


 遠くで夜鳥の鳴く声が一つ聞こえ、風が短く草を揺らす。明日になれば、特例奨学生として学園へ行く手続きが具体的に進むだろう。その先に待ち受けるのは、また別の理不尽かもしれない。


 それでもユイスは、ここでは終わらないと確信しているかのように拳を握りしめる。隣にフィオナの姿はない。それでも、彼の足はもう動き出す準備を整えていた。


 夜風が納屋の古い扉を揺らし、軋む音が微かに響く。ユイスの背中越しに月が薄く光を落とし、墓地の花が揺れた。その瞬間、彼の表情にわずかな決意の色が浮かぶ。


 村を出る。貴族の牙城に踏み入り、そこから覆してみせる。理不尽に苦しむ人々を見捨てない――その誓いが、夜の静寂を突き破るように彼の心を奮い立たせていた。


 そしてひとり、口の中で小さく響く言葉がある。


(いつか必ず、この歪みを壊してやる……)


 その呟きは誰の耳にも届かず、墓地から通り抜ける風とともに消えていく。次に彼が納屋へ戻るとき、もはや村での研究は最後の仕上げに近い段階だろう。学園の門をくぐるその日まで、彼に休む暇はない。


 闇がますます深みを増し、村中が眠りにつくころ、ユイスだけがその魂を荒らすように覚醒しているのだった。

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