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3. 夜の図書館

 夜の帳が降りる頃、王立ラグレア魔術学園の図書館は静寂に包まれていた。残る来館者はわずかで、ほとんどの生徒は門限が迫る寮へと戻っている。にもかかわらず、一人の少年が奥の机で大量の書物を開いている。


 彼は唇をかみしめ、分厚い魔法理論書を急ぎ足でめくっていた。視線は走るように文字を追い、ノートに数式や断片的な呪文理論を書き写していく。図書館には閉館十五分前を告げる鐘の音が微かに響くが、ユイスのペンは止まらない。


「あと少し、あと少しだけ……」


 彼は誰に言うでもなく呟いた。何度も式を組み直し、最適化を試みているが、完璧な答えは見つからない。昼間の連携練習の失敗が脳裏に焼き付いていた。トールの火球が逸れ、ミレーヌが詠唱を噛み、エリアーヌは自信なさげに立ちすくむ。レオンの皮肉さえ、結果としては何の助けにもならない。通常のやり方では到底エリートクラスに対抗できないと、思い知らされたばかりだ。


「ここに、もっとヒントがあるはずなのに……!」


 ユイスは目の前に閉じられた大きな書棚を睨む。中級以上の高度な魔法理論書が並ぶコーナーだが、一般クラスや問題児クラスが閲覧するには制限が厳しい。彼には借りる資格がない。せめて立ち読みだけでもしたかったが、司書からは「そちらの棚は許可証が必要なんです」と断られている。


 ◇◇◇


 一方、リュディア・イヴァロールは同じ棚の近くにいた。エリートクラスに籍を置く彼女は、母が平民出身ということもあって、血統だけでは語れない努力の大切さを多少なりとも知っている。今夜は予習のために来館し、該当コーナーの本を探していた。夜遅い図書館には、普段はめったに来ないが、最近の課題量に押されて仕方なく足を運んだのだ。


(こんな時間に図書館にいる生徒なんて、そう多くないはずだけど……)


 リュディアは棚の隙間から何かを探るように覗いた。すると、向こう側に一心不乱で本を開き漁る人影がある。夜更かしの挙句、眉間に深い皺まで寄せているのが見える。


(あれ、ユイス? また無茶してるわね)


 最初は軽い好奇心に近かった。前から問題児クラスの一員として噂を聞き、本人とも少し会話を交わしたことがある。いわく、数式理論なる特殊な魔法研究をしているらしいが、そのせいか妙に目がぎらついている時がある。リュディアは思わず溜息を飲み込み、棚の反対側へ回り込んだ。


 軽く背伸びをして、狙っていた本に手を伸ばす。ところが、同じ本をユイスも取ろうとしたらしく、二人の手が同時に触れ合いかけた。


「あ、すみませ――」

「……なんだ、きみか」


 振り向いたユイスの目は、図書館の淡い照明の下でも険しさを隠せていない。リュディアはやや呆れた口調で言う。


「あなた、本当に夜更かしばっかりね。大丈夫なの? 昼の授業だってあるんだから、もう少し休まないと……」


 言い方こそ優しさよりも厳しさが混じっていた。それでもリュディアなりに心配しているのは確かだった。しかし、ユイスの耳には貴族らしい高慢な指図としか聞こえない。


「放っておいてくれ。きみの助言なんか必要ない」

「助言なんかじゃないわよ。倒れたら本末転倒でしょう? 実際、昼間の練習でみんなボロボロになっていたじゃない」


 リュディアの声が思わず熱を帯びる。ユイスが冷たく目を細めると、図書館全体の空気が一瞬ヒヤリとした。


「……何を知ってる。どうせきみはエリートクラスだし、守られた世界で生きてるんだろ? 僕らの苦労なんて分かるわけがない」

「何ですって?」


 その言葉にリュディアがかっと瞳を見開いたところで、司書が小走りに近づいてきた。閉館前の静寂を乱す声の応酬に、明らかに苦言を呈している。


「申し訳ありませんが、図書館内はお静かに。あと十分ほどで閉館ですので、返却作業もお忘れなく」


 二人は息を飲んで黙り込む。リュディアは司書に短く頭を下げると、ユイスのほうを睨むように振り返った。


「……勝手にしなさい。夜更かしばかりで倒れても知らないから」

「それはこっちの台詞だ。貴族様の心配なんて不要だよ」


 明らかに険悪な雰囲気を引きずったまま、リュディアは棚に並ぶ別の本を一冊取り、足早に立ち去った。カツン、カツンと音が遠ざかり、ユイスは唇を噛む。


「くそ……余計なことを」


 彼は再び机に戻り、閉館までのわずかな時間に焦燥を募らせる。欲しい本が借りられず、数式理論のヒントも得られないまま時計の針が迫っていた。横目で先ほどのやり取りを思い出して、心がちくりと痛む。


(リュディア……あんな言い方されたら、こっちだって気分が悪い。貴族だろうが何だろうが、僕は大技を完成させなきゃいけないんだ。余裕なんかない。あのギルフォードに勝つには、こんなところで躊躇してる暇も……)


 図書館に流れる時間は冷酷なほど短い。すでに司書が書架のランプを順番に落とし始めていた。ユイスは仕方なく本を閉じ、急ぎノートをカバンに押し込んで立ち上がる。扉の向こうからは冷たい廊下の空気が漂い、彼を迎えようとしていた。


 ◇◇◇


 一方、別の通路を歩くリュディアは借りた本を抱えたまま、小さく息を吐いていた。彼女もまた、閉館を告げる鐘に押され、退館手続きを済ませるためにカウンターへ向かう。


(あんな態度を取られたら腹が立つのも当然よ。こっちだって心配してあげてるのに……でも、なんだか追い詰められてるように見えた。あの人、そんなに焦って何をしようとしてるの?)


 貸し出しカウンターに本を出しながら、リュディアは静かに首を振った。


(私だって血統のことで疎まれたことがある。あんまり人のこと言えないのに……変に腹を立ててしまった。次に会うとき、もう少しちゃんと話せればいいんだけど)


 そう思っても素直になれないのが彼女の性格だった。借りた本を受け取ると、「お騒がせしてすみません」と司書に一言残して、足早に図書館を出ていく。


 ◇◇◇


 やがて学園の廊下には、ほとんど人気が消えていた。夜風がわずかに吹き込み、消灯後の校舎を冷え切った静寂で満たす。ユイスはドアの向こうに消えかけるリュディアの後ろ姿を、遠巻きに見るともなく見送った。


(何であんなに突っかかるんだ? こっちは研究で手一杯だってのに。まあいい。僕は僕のやり方で先に進むしかない……)


 視界の端で灯りが一つずつ落ちていく。彼は踵を返し、急ぎ足で階段を下りた。図書館では得られなかった情報を別の形で補うため、物置兼仮実験室に使っている倉庫へ向かおうとしているのだ。完全に眠る前の校舎なら、少しは魔力演算の実験を試せるかもしれない。


 意地を張るように突き放したリュディアの言葉が胸にわずかに残る。だが今はそれどころではない。皆を勝たせるための新技――ユイスはその完成を最優先する。どれほど無謀でも、試さずにはいられない。夜風が窓枠を揺らす音を背に、彼の足音が校舎の闇に吸い込まれていった。

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