1. 方針決定の翌朝
朝日が問題児クラス寮の薄汚れた窓を照らし始めると、そこかしこから低い床のきしむ音が聞こえた。廊下を行き交う者は少なく、皆どこかそわそわとした足取りだ。いつもは気だるい空気が漂う寮だが、今日は朝からやや張り詰めた雰囲気がある。
◇◇◇
共有スペースには長テーブルが一つと、古びた椅子がいくつか置かれている。壁には小さな掲示板と、生徒が雑多に貼り付けた注意事項の紙切れ。決して快適とは言えない場所だが、問題児クラスの仲間が集まるには十分だった。
トール・ラグナーが木椅子に腰を下ろしながら、テーブルの上に紙束を投げるように置く。
「昨日の夜、作戦まとめたけど、もう少し詰めないとな。ギルフォードども相手に勝つには、下準備が足りない気がする」
エリアーヌ・マルヴィスがすっと身を乗り出して、メモを覗き込む。彼女はまだ瞼に不安の色を残していたが、声にはわずかな熱がこもる。
「昨日は、火力に正面からぶつかるのは危険…って結論だったよね? 持久戦に持ち込んで、相手の大技を空振りさせる作戦……」
彼女の手元には手書きのメモ用紙。そこには『回復魔法で耐える』『妨害→大技中断』『時間稼ぎ』といった走り書きが見える。
ミレーヌ・クワントも脇から顔を覗かせ、「要は……最初から逃げ回ることになるのかな。エリートクラスの大火力を真正面から受けたら、一撃で沈みそうだし……」と俯きがちに言葉を継いだ。
レオン・バナードが椅子に背もたれごと身体を預け、気だるそうに鼻で笑う。
「要するに地味な消耗戦か。派手好きのギルフォードにとっちゃ、こっちが逃げ回るだけでもイラつくだろうけどね」
薄い皮肉を含んだ声に、トールが少し眉を寄せた。しかし今は反論を飲み込むように、一度唇を噛む。
「俺たちは地味にでもやるしかないんだよ。あいつらの血統魔法に正面から挑んだら、一瞬で終わるぞ」
「うん……私も回復魔法を磨けば、皆の体力を長く維持できる。制御リングがある分、以前よりはうまくやれそう」
そんな様子をひと通り見たユイス・アステリアは、苦しげに唇を噛みしめる。「回避」「粘り」。確かに得策かもしれないが——その先にある勝ち筋を、彼は明確に見出せずにいた。
「……だとしても、これだけで本当にギルフォードを倒せるのか?」心の中で誰にも聞かれない問いが湧き上がる。
だが、その思考を表に出すことなく、ユイスは静かに言葉をまとめる。
「結局、短期決戦は不利だ。だから長期戦に持ち込む。それは変わらない。実戦でどこまで粘れるか……まずはそこを優先しよう」
言葉を発すると、周囲は一応納得したふうに頷く。やはり勝算については不安げだが、ほかに案が浮かばないのだ。
レオンが口元だけ笑みを浮かべ、「まあ粘り切れればね。相手の大技に当たらず、消耗を狙う……なるほど、楽しい試合にはならなそうだ」と投げやりに言う。
「楽しくなくていいんだよ。勝てばいい」
トール、レオン二人の空気に火花こそ見えないが、どこか神経を張り詰めたやりとりだ。
エリアーヌはそれを見て小声で「喧嘩にならなきゃいいけど……」と呟く。ミレーヌも「け、喧嘩はやめようよ……」と小さく肩をすくめた。
◇◇◇
そこへ、寮の共有スペースの扉が軋み声を上げて開き、担任のグレイサー・ヴィトリアが姿を見せる。コーヒーのカップを片手に、気だるそうに一瞥すると、眉根を寄せた。
「朝からずいぶんと熱心だな。お前たち、何か悪巧みでもしているのか?」
トールが立ち上がりかけ、「先生、おはようございます。模擬戦の相談を……」と説明しかける。
グレイサーはふん、と鼻で軽く笑うと、「そうか。模擬戦ね。ま、死なない程度に頑張れよ」と素っ気なく言うだけで、すぐ踵を返して行こうとする。
その際、ユイスの方をちらりと見た。言葉こそないが、グレイサーの瞳に一瞬「保守派に食らいつく危険」を示唆するような色が宿った気がする。だが彼は何も助言せず、コーヒーを一口飲んで足早に廊下へ消えた。
「……あの人らしいよな」レオンが苦い笑みで呟く。
エリアーヌは「それでも先生、私たちのこと見てくれてるかも……」と信じたい様子で言うが、確信はない。それ以上、担任の言動を深追いしても仕方がなく、再び作戦に集中する空気へ戻った。
◇◇◇
「よし、朝のホームルームまでに各自で確認しておこうぜ。昼の実技授業で連携をテストするんだ」
「うん。少しでも精度を上げないと……」
エリアーヌは「私、回復の詠唱を復習するね……」とメモ紙を握りしめながら出口へ向かった。ふとユイスの方へ目をやるが、彼はうつむいたまま「後でな」とだけ言う。彼女も心配そうな顔を見せつつ去っていった。
最後に残ったのはユイスとレオン。レオンは「じゃ、俺も部屋に戻るか。せいぜい頑張れよ……いや、頑張ろうかね」と言い直して立ち上がる。
ユイスは黙って小さく頷いただけだった。レオンが首をかしげ、気になりつつも何も言わずに出ていく。
静寂が戻った共有スペースで、ユイスは一人ノートを見下ろす。行き当たりばったりに綴った数式や魔法理論の走り書きが混沌としている。
「……やっぱり、これだけじゃギルフォードに勝てる保証はない。何か革新が必要だ。もっと根本的に血統魔法をねじ伏せる術を……」
思わず呟きそうになったところで、隣の部屋から足音が近づいてくる。振り返るとトールが顔だけ出して、「ユイス、行かないのか?」と問う。
ユイスは椅子から体を起こし、「ああ、すぐ行く。……今日は夜、また図書館に行ってみる。資料をもっと漁るんだ」と言い残す。
「夜更かしばっかで大丈夫かよ……最近寝てないんじゃないのか?」
「平気。お前こそ体壊すなよ。朝から走り回ってるんだから」
「お前にだけは言われたくないけどな……ま、倒れんなよ」
とトールは苦笑いを残して去っていった。
◇◇◇
再び一人になったユイスは、ノートの端を指先で弾きながら小さく息を吐く。
“回避と長期戦”——確かに理屈は合っている。だがエリートクラスの圧倒的火力を、それだけで封じ込めると本当に言えるのだろうか。
目を閉じれば、フィオナの細い指先が浮かぶ。あの時、自分には何もできなかった。理不尽を覆す方法を知らなかった。そして今、また“血統”の壁に追い詰められようとしている。
「……こんな回避戦だけじゃ、ギルフォードには勝てない。あいつの誇る大火力を逆手に取る、何か手段があるはずだ。数式理論をもっと完成させて……」
心の中で決意を固めてから、ユイスはノートを閉じた。シミだらけの表紙に、何度も重ね書きされた図式が深く刻まれている。
短くひとつ息を飲み込み、窓際へ歩み寄る。外は朝の光が眩しいが、彼の胸の奥にはまだ夜のような不安が根を張っていた。
「俺がやらなきゃ、誰も血統魔法の牙城を崩せない……」
囁くようにつぶやいたその声は、誰の耳にも届かない。けれど次なる行動を示すには十分なほど、ユイス自身の覚悟を固めるものだった。
残り時間はわずかだ。模擬戦はもう、目と鼻の先。彼はノートを脇に抱え、微かに震える胸を押さえながら、寮の扉を静かに開け放つ。朝の風が古びた廊下に吹き込み、ユイスの裾を揺らした。
「今夜こそ……見つけてやる。俺たちが血統を打ち破るための、決定的な理論を——」
そう呟いて、彼は細く笑みを浮かべる。あの時救えなかった思いを背負いつつ、どうにか前へ進むために。ユイスは小走りで寮を出ていった。
朝の光の下、問題児クラスの誰もがそれぞれの思いを抱え、模擬戦へ向けた準備を急ぐ。だがユイスの胸には、ひときわ強い焦燥が燃えていた。重ねても重ねても足りない研究。彼はもう一度、夜を潰す覚悟を決める。それが今の自分にできる唯一の行動だと信じて。




