24. 決意
リュディアは伯爵家特有の紋章が刺繍されたカーテンをそっと引き、夜の静けさに耳をすませた。窓の外には王立ラグレア魔術学園の広い敷地が見渡せる。昼間は騒がしい生徒たちであふれる場所も、今はほとんど明かりが消えていた。彼女はベッドの脇に腰をおろし、小さく息をつく。
(あの問題児クラス…本当に模擬戦で大丈夫かしら)
ふと頭をよぎったのは、先日ギルフォードたちが挑発したあの光景だった。相手は血統魔法を誇るエリートたち。貴族の間でも高魔力と華やかな戦いぶりで有名だ。いくら問題児クラスが最近点数を伸ばしたとはいえ、その差は歴然だろう。リュディアは母の形見のペンダントを手に取り、そっと握る。
「血統だけがすべてじゃない、って…母さまなら言うかな」
彼女の母は平民出身。貴族社会の偏見を何度も跳ね返してきた強い女性だった。だからこそ、リュディア自身も血統至上主義に素直に従えない。ユイスたちの試みがもし成功すれば、その思いが報われる気もする。けれど、実際に模擬戦で結果を出せるのか。夜の静寂が彼女の胸をざわつかせる。
「…私は、見届けるしかないのよね」
ペンダントの冷たい金属を感じながら、リュディアは小さく呟く。たとえ自分が加勢するわけにもいかない。それでもどこかで期待している。問題児クラスが新しい可能性を示してくれることを。彼女は窓際に立ち、月の光に照らされる学園を見下ろした。ひときわ大きく光る月が、淡く青白い輝きを放っている。
「せめて…無事でいてほしいわ」
自分の心に言い聞かせるようにそう言うと、カーテンを再び閉じ、ペンダントをそっと胸元にしまった。
◇◇◇
夜の図書館は閉館間際で、わずかな灯りが本棚の影を落としている。ユイスは奥の机にかがみこみ、膨大な術式ノートと睨めっこをしていた。司書が気遣わしげに視線を送る中、彼は何度もページを行き来し、小さな声で数式を確かめる。
「火力を一撃で押し込んでくるなら、こちらは回避と制御を優先するべき…だが、ギルフォードたちは一瞬で詠唱を終わらせる場合もある。そこを…」
ペンを走らせながらユイスは苦い表情を浮かべる。模擬戦で勝つビジョンはなかなか鮮明にならない。血統魔法の絶大な火力。それをどう長期戦に引きずり込み、こちらの魔法を活かすか。わずかな可能性を見つけるたびに、別の問題点が頭をもたげる。
「閉館まであと五分ほどですよ」
柔らかな声が背後からかかる。司書の女性が遠慮がちに片づけを始めていた。ユイスは気づいて顔を上げ、慌ててノートを閉じようとするが、あと少しだけと踏ん張りたい気持ちが強い。それでも時間はどうしようもない。
「すみません、すぐ片づけます…」
彼は大急ぎで書物とノートを束ねる。指先が震え、頭にはずきずきと痛みも感じられる。寝不足と集中しすぎる癖が、今日もまた限界を超えている証拠だ。けれど研究を止めるわけにはいかない。次の模擬戦で、数式理論の成果を証明したいからだ。
(フィオナ…俺はもう、黙って見ているだけの存在じゃない。貴族の理不尽に飲み込まれたままでいるつもりもない)
ノートを抱きしめるように腕に収め、ユイスは司書に小さく頭を下げる。最後にちらりと古い術式の本を見やり、今夜は仕方なく図書館を後にした。いつか、この研究が日の目を見る。そのためなら、どれだけ夜更かししてもかまわない。彼の瞳にはわずかな燃えるような光が宿っていた。
◇◇◇
女子寮の一室。エリアーヌはベッドの端に腰かけ、手のひらを見つめていた。あのとき、トールのやけどを回復した記憶が頭をよぎる。自分が失敗しなければ、それが実戦でのサポートにきっと繋がる。だが、血統魔法を誇るエリートクラスの猛攻の中で、本当に間に合うのだろうか。
「…ううん、弱気になっちゃだめ」
隣ではミレーヌが椅子に座り、計算ノートを眺めている。あがり症で本番に弱い彼女にとっても、模擬戦は大きな壁だろう。エリアーヌはそっと目を合わせ、かすかな笑みを作る。
「ミレーヌ、どう? 計算のほうは」
「うん、ユイスさんの数式を応用すれば、私でも術式の流れを整理できそう。…でも大勢の前でうまく口出しできるかな。怒鳴られたりしたら、頭が真っ白になるかも」
「そ、そっか。でも、大丈夫。私がすぐ回復する…なんて違うか」
思わず顔を見合わせて、二人とも小さく笑う。緊張で肩が強張っているが、気持ちを吐き出せる相手がいるのは救いでもあった。エリアーヌはクッションをぎゅっと抱きしめる。
「本音を言うと、私もすごく怖い。でも、絶対に前よりは戦えるって信じたい」
「そうだよね。ユイスさんやトールさん、レオンさんも、それぞれ頑張ってるし。私たちもやるだけやろうよ」
「うん…ありがと」
ホッとしたように頬がゆるむ。明日から本格的に練習しよう、と二人で意思を固め合う。ベッドに横になりかけたエリアーヌは、まだ胸がざわざわして眠れそうにない。だけど、ここで意気消沈するわけにはいかない。エリートクラスに一泡吹かせたい。それが微かながらも彼女を奮い立たせる力になっていた。
「おやすみ、ミレーヌ。…絶対、負けたくないね」
「うん、おやすみ」
やわらかな掛け布を引きあげ、二人は深呼吸をする。部屋の灯りを落とすと、夜の静けさが一段と濃くなった。
◇◇◇
男子寮の廊下を、トールは何やら独り言をつぶやきながら歩いていた。手のひらをパッと開き、そこに炎のイメージを浮かべるようにしてみる。もちろんこんな場所で火を出せば迷惑だ。だが想像だけでも訓練になるはずだというのが彼の考えだった。
「大技を撃ちたい気持ちはやまやまだけど、ユイスからは制御優先しろって言われたしな…うう、回避メインなんて、俺の性分じゃねえんだけど…」
呟きをこぼしつつ角を曲がると、レオンが向こうからやってくる。気だるそうな足取りで、何か本のようなものを抱えていた。二人は夜の静寂の中で立ち止まり、言葉も交わさずしばし見つめ合う。
「こんな時間に何してんだ?」
「イメトレだよ。…実際に火を出すわけにもいかないしな。明日の朝から本格的に練習するため、頭で整理してんだ」
「相変わらず無謀だな。焦っても結果が保証されるわけじゃないぜ。相手はギルフォード…」
「わかってる。でも、やらなくちゃ始まらないだろ。問題児クラスが本気を出せば、そりゃ奇跡だって起こせるかもしれない」
トールの拳が小さく震えていた。炎の暴走で失敗し、何度も悔しい思いをしてきた。でも今度こそは──その強い決意が伝わるようで、レオンは興味なさげに視線を逸らしながらも、どこか納得したような吐息をもらす。
「ま、俺も足を引っ張るつもりはない。…せいぜい、付き合ってやるさ。あんまり期待はするなよ」
「へっ、お前にしては素直だな」
にやりとするトールを見て、レオンは少しだけ目を伏せた。期待なんかしていない。そう言い切りたいのに、心の中ではわずかながら希望が芽生えている。
「まあ、そうだな」
ぶっきらぼうに言い残してレオンは歩き去る。トールは一瞬その背中を見つめ、そして目を閉じて炎のイメージをまた思い描いた。真紅の火球をこれまで以上に制御し、一撃で決めるのではなく、連携して勝利をつかむ。明日の練習で、もう少しコツをつかめるかもしれない。そう考えるだけで胸が熱くなった。
◇◇◇
夜気が校庭を包み、王立ラグレア魔術学園は深い眠りに落ちていく。広大な敷地には微かな風の音だけが響き、月明かりが建物の影を静かに浮かび上がらせていた。ほとんどの窓は消灯し、名門と呼ばれる学園も、夜だけはひっそりと息を潜める。
リュディアは貴族寮の高級な寝室で、ペンダントを握りしめたままそっと瞳を閉じている。ユイスは真っ暗な廊下を歩きながら、ノートの端に走り書きを加えるイメージを頭に巡らせ。エリアーヌとミレーヌは不安と決意の狭間で、ようやく浅い眠りに落ちつつある。トールは炎のイメトレを続け、レオンはすでに部屋に戻って本を開き、やりきれない思いを誤魔化すようにページをめくる。
そして問題児クラスだけではなく、エリートクラスの面々もまた、血統魔法の優位を再確認しながら模擬戦に備えていることだろう。圧倒的な魔力差で一蹴する。それが当たり前だと、ギルフォードらは信じてやまない。
だが問題児クラスの足取りはもう引き返せない。挑戦を宣言した以上、明確な敗北に終わるのか、それとも奇跡の一矢を報いるのか。王立ラグレア魔術学園は、彼らの試みを黙して見つめているように見えた。月光の下で広がる静寂が、遠くから迫る決戦の日をひしひしと感じさせる。
月が高く昇り、校内がいっそう暗闇に沈むころ、各部屋から小さくはずむ息遣いが聞こえる。眠りにつく者、まだ目を閉じられず葛藤する者。すべての思いは、やがて訪れる模擬戦の舞台へと繋がっていく。
夜の静寂が幕を引くようにして、深い闇が学園を包み込んだ。かすかに光る月と星だけが、遠くから彼らを見守る。問題児クラスは、その瞬間、確かに一つの意志を共有していた。
──どんな形であれ、血統至上主義の牙城に挑む。その事実だけは、もう誰にも覆せない。




