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22. 挫折と左遷の記憶

 グレイサー・ヴィトリアは、その夜も学園の教師室に残っていた。室内のランプは小さく揺れ、煤けた明かりが書類の隙間からこぼれ落ちる。昼間の熱気はすっかり消え、人気もない。大半の教師が帰宅した後の空間に、彼は一人だけ腰を下ろしていた。


「模擬戦か…」


 机の上には、“次回の模擬戦予定一覧”と記された紙が一枚。そこにはエリートクラスのギルフォード・グランシスの名と、問題児クラスの数名の名が並び、両者の対戦カードが大きな文字で示されている。


 グレイサーは、その一端に印刷されたユイス・アステリアという名前をしばらく見つめ続けた。少年がどんな想いで「エリートクラスに勝つ」と言い放ったのか、少しだけ想像がつく。数日前の廊下で交わされた挑発を思い起こすと、問題児クラスの若い熱をひしひしと感じる。


「俺の時とは大違いだな…」


 苦い笑みが口元から零れ、彼は書類に目を落としたまま短く息を吐いた。


 静寂の教師室。暗い廊下からしんとした空気だけが流れ込んでくる。ふと、金属製のカップに残っていたコーヒーを一口すすったが、既に冷え切っていて舌に生温い苦味を残すだけだった。


 ◇◇◇


 かつての自分を、いまのユイスたちに重ねてしまう。その事実を、グレイサーはどうしても無視できなかった。


「……仕方ないな」


 そう独り言をつぶやきながら、机の脇に置いた革製のメモ帳をめくる。そこにはかつて自分が書き溜めた走り書きの数式や、小さな魔法陣の試作図が並んでいる。触れれば埃が舞いそうなそのメモ帳をそっと開いた瞬間、彼の脳裏に、過去の光景がはっきりと蘇り始めた。


 ◇◇◇


 場所は今より数年前の学園内。彼がまだ自分の研究を信じ、周囲から一定の期待を寄せられていた頃。


 大きな机の上に並んだ書籍やメモ用紙の山。その中心で、若き日のグレイサーは輝かんばかりの瞳をしていた。


「いけるぞ。俺が最初に大々的に成果を示せれば、きっと世界は変わる」


 当時の自分は、そう本気で信じていた。


 魔力量が乏しくても戦える理論、血統に頼らなくても魔法を最大限に発揮できる術式。誰もが救われる可能性を持つ社会を、この数式理論が切り開くはず。彼はその成果をまとめた論文を胸に抱きつつ、うっすらと笑みを浮かべていた。


 ──しかし、それはあまりに脆い理想だった。


 グレイサーの回想は、一転して学内の小さなホールへ移る。


 そこは新たな研究を発表するための場。いくつかの席には貴族派の重鎮教師や、枢密院の代理人、学園上層部らしき人々が居並んでいた。


 手元の発表用紙を握りしめて立ち上がった若きグレイサーは、胸を高鳴らせつつ口を開く。


「私は、魔力量の少ない者でも魔法を操れる新しい枠組みを提案します。術式をパーツ化し、必要な……」


 だが、最後まで語り終わる前に、第一声の嘲笑が投げつけられた。


「異端もいいところだ。お前の言う数式理論など、前例の無い机上の空論に過ぎないだろう」


「ああ、そもそも魔力量が低い男が何を騒ぐ。血統を軽視するとは、おこがましい」


 騒ぎ出したのは貴族議会の議員や保守派の教員たち。若きグレイサーの説明を聞こうともせずに一斉に罵声が飛んだ。


 最初は応援してくれていた同僚研究者の顔にも、動揺と困惑が広がっていくのが見えた。


「ちょっと待ってください。私の理論は、いくつかの実験で成果を……」


 何とか言葉を続けようとするグレイサーへ、学園上層部らしき男が冷たい声を浴びせる。


「成果? そんなものは確認できん。だいたい、お前に協力する者はいるのか? 高貴なる血統が支援を表明しているわけでもあるまい」


 周囲が一斉に笑い声で追い打ちをかける。


 ほんの先刻まで「君の研究は面白いよ」と言ってくれていた人々も、なぜか目を伏せて黙り込んだ。


 やがて保守派の貴族が腰を上げ、睨みを利かせたまま述べた。


「こんな与太話に学園の予算を割くなど論外。お前の理論は危険思想だ。“血統”という正統を否定するなど、王国に対する反逆ではないか?」


 こうして彼の発表は十数分も経たずに打ち切られ、学園の関係者によって「この場は終了」と言い渡された。


 ホールを出た後も、幾人かの教師仲間にすがろうとしたが、みな口を濁して立ち去るばかり。


「すまない。上の方から圧力がかかっていてね……」


「悪いが、俺たちではどうにもできないんだ」


 誰もが当時のグレイサーを助けられなかった。実績も伝統もない研究を、わざわざ保守派を敵に回してまで擁護しようとは思わないのだ。


 そんな衝撃的な数日を経て、グレイサーの研究は学園長の一声で正式に却下された。発表の場も永遠に消え、彼の論文は“幻”として処分される運命にあった。


 それどころか、彼自身が“問題児クラス”の担任へと回される話まで突然持ち上がった。


 通常なら若い研究者としてキャリアを積むはずのコースを外され、ろくに授業もしていない不人気クラスに押し込められ、それが半ば左遷のように決定したのだ。


「あいつには雑務でもやらせておけばいい」


「異端に手を貸すと後々面倒だ。誰も手を伸ばさんだろう」


 ──あまりにも理不尽な扱い。


 しかし、当時のグレイサーは必死の抗議をしようとも、どこからも同情を得られなかった。


 学園上層部の大きな決定の前では、彼の声は無意味。


 自分の研究資料が封じられ、はりつめていた心がポキリと折れた時、彼はもう身を投げ出すように「わかりました」とあきらめてしまった。


 “研究を続ければ、さらに激しい弾圧が来るだろう。ならば自分一人が黙って消えるほうがマシなのだ”──そう信じ込むしかなかった。


 ◇◇◇


 夜の教師室に戻る。


 グレイサーは当時を思い返して、自嘲気味に笑う。回想の中で、必死に努力していた自分を思い出すと、今さらながら胸がチクリと疼く。


 古いメモ帳をぱたりと閉じると、カップのコーヒーを飲もうとして、また手を止めた。すっかりぬるいままの液体がそのまま口を苦くする。


「まったく、笑えない話だ」


 呟きつつも、彼の視線は再び書類に向かう。


 そこには問題児クラスのメンバーの名がずらりと並び、その横には“エリートクラス・ギルフォードら数名”という単語。


 列の最後、“模擬戦予定:問題児クラス vs エリートクラス”の文言が、大げさなほどに目に焼き付いていた。


「数式理論なんて、ろくに成果が出せず終わった俺には荷が重い。だが、ユイスが同じ道を辿ってしまうかもしれない…」


 ペンを転がしながら、独り言を漏らす。


 自分の研究を潰した保守派が、今度はユイスたちを嘲笑している。血統魔法こそ正義という思想は、あの頃から一向に変わっていない。


 真っ向からぶつかって大敗を喫した過去を持つグレイサーは、ユイスに協力しすぎると逆に保守派の餌食になりかねないことを知っている。


「それでも、あの馬鹿みたいに真っ直ぐな目は、何かを変えるかもな…」


 彼の頬が微かに緩んだ。


 飄々と装いながら、問題児クラスの低い魔力量や落ちこぼれっぷりを見ても、“何か起きそうだ”という予感を薄々抱いていた。


 自分が援護すればまた保守派に目を付けられる。だからこそ表立った手助けはできない。しかし、ユイスなら今度こそ──そんな期待が胸のどこかに湧いてしまう。


「死ななきゃいいがな」


 彼は苦い笑みと共にそう呟き、机の奥からもう一枚の紙を取り出した。


 そこには“模擬戦の対戦スケジュール”の詳細が書かれている。エリートクラスと問題児クラスの名が、見開きに大きく印刷されていた。ギルフォード・グランシス、そしてユイス・アステリア、トール・ラグナー、エリアーヌ・マルヴィス、ミレーヌ・クワント…どれも気性の荒い若者ばかり。


「あの日の俺を思い出すな…」


 再び瞳を伏せ、記憶の残滓に浸りそうになる。


 だが今のグレイサーにはあの頃のように前に出る気概はない。研究を続けるどころか、あえて放任主義を貫き、生徒たちが勝手に成長していくのをただ見守っている。


 自分が踏み込めば、また同じように保守派と衝突して、結果的に生徒まで巻き込みかねないと知っているからだ。


「ユイス、お前がもし俺のように潰されかけても……乗り越えてみせろ。あの時の俺にはできなかったことを」


 しんとした教師室の空気が、グレイサーの言葉を吸い込んでいく。


 窓の外は夜の帳が降りて、わずかな月明かりだけが学園の校舎を照らしている。きっと問題児クラスの連中は既に就寝するか、もしくはまた夜な夜な図書館で研究しているのだろう。


 自分が巡回して確かめればいいが、今は行く気にもなれなかった。眠れず、資料を眺めて過去に浸るほうが、はるかに今の心境に近い。


「まあ、どう転ぶかは連中次第だ。俺がどうこう言うより、あいつらが自分で打開するしかない」


 書類を軽く束ねると、そのまま机の端に置く。


 分厚い資料には“問題児クラス vs エリートクラス”の文字。端から見れば、すぐに大惨事が想定される不公平な戦いだ。実際、血統魔法の破壊力は尋常ではなく、問題児クラスが本気で挑んだところで、やられる可能性が高い。


 それでもグレイサーは、彼らを止めたりしない。


 いや、むしろ止めたくないのかもしれない。自分の若き日が踏み潰されたあの時、その後は二度と立ち上がる気力を得られず今に至る。もしユイスが本当に成し遂げるなら、それはある種、グレイサー自身の“救い”になるかもしれなかった。


「たとえ保守派に目を付けられても、それをはね除ける力があればいい。俺には無かったんだが…あいつにはあるかもな」


 苦笑いしながら独り言を落とす。


 あの頃、誰よりも新しい道を切り拓こうとした自分。しかし結果は周囲に潰され、失意の底で研究をあきらめた。だからといって、後輩の目を曇らせる必要はない。結果的にこうして“問題児クラスの担任”という地位を得てしまったが、それでもなお心のどこかで数式理論の可能性を捨てきれないのだろう。


「…まあ、せめて死ぬな。あまり痛い目を見るな。俺が願うのはそれだけさ」


 うっすらと吐き捨てて、グレイサーは冷めきったコーヒーを一気に飲み干した。


 身体にしみわたる生温い苦さが、過去の苦い記憶と妙に重なる。彼はおかしそうに眉をひそめ、つかの間目を閉じる。


 夜の闇は深く、教師室の扉からは誰も入ってこない。孤独と後悔の中で時を過ごしながらも、気持ちの一部は確かにユイスたちの奮闘を思い描いていた。


 あの少年は、深夜まで研究を止めない。火力制御リングを作って仲間に配り、回復魔法の回路を手伝い、数式理論を少しずつ確立しようとしている。


 そして仲間たちも、座学テストで少し光を掴んだ。ギルフォードたちの嘲笑を跳ね除けようと、血統魔法を打ち破るために踏ん張っているらしい。


 過去の自分から見れば、馬鹿馬鹿しいほど無謀にも思える。でも、それが意外と面白いのだ。新しい波が起こるかもしれない──そんな予感。


 グレイサーは机の整理を終え、椅子から立ち上がった。


 書類を抱え、残りの灯を吹き消して、夜の廊下へ出る。人気のない石畳の通路は冷たい風が通り抜け、ほんの少し肌寒い。


 ふと窓の外を見やると、月が雲に隠れているのか、星すらよく見えない暗闇が広がっていた。


「ま、もう寝るかな…」


 軽くため息をつく。廊下の奥で、わずかに部屋の明かりが漏れているのは図書室かもしれない。あそこにはまたユイスやレオンあたりが居座っているのだろうか。


 一瞬、行ってみるかとも思ったが、結局足は動かなかった。自分が顔を出せば、彼らの勢いを削ぐだけになりかねない。だから、そっとしておくほうがいいだろう。


「俺には、見守ることしかできん。あいつが同じ轍を踏まずに済むことを祈るだけだ」


 そう口にする声は、ほんの少しだけ優しく震えていた。


 長い黒髪が肩にかかり、教師としての立場を示すバッジがコートの胸元でかすかに光る。いつしか手の中から、彼は模擬戦の対戦表を出してそれを見つめる。


 エリートクラスとの対決。それはかつてのグレイサーが最も恐れ、そして破れ去った相手だ。血統至上主義。王国の伝統。保守派の強大な壁──ユイスたちはどう戦うのか。


「頑張れよ、ユイス」


 囁きにも似た小さな声で、それだけを告げるようにして、グレイサーは背を向けた。


 暗闇に沈む学園の廊下を一人歩み去っていく。そこには彼が抱える悔しさと、そして微かな希望が同居している。


 いつの日か、数式理論が正当な評価を得て、血統だけが全てという理不尽が覆される時が来るのかもしれない。それが無謀な夢だと知りつつも、あのユイスならば──そう信じたい思いが、彼の胸の奥をかすかに温めていた。


 教師室のドアが音もなく閉まる。


 回廊の向こうでは夜の虫の音がかすかに響き、誰もいない廊下にグレイサーの足音だけが消えていく。手に握られた模擬戦の書類が、小さくさざめいた。


 ──彼が次に目を通すとき、そこには“敗北”か“逆転”か、どちらの結末が待ち受けているのか。


 グレイサー自身もわからない。ただ、一度諦めた自分が、もう一度だけ何かに心を震わせている。その事実だけが、今夜、教師室からの帰り道をほんの少しだけ温かいものにしていた。


 闇深い学園。静かな夜の空気が、彼の一人歩きに寄り添う。


 誰もいない通路を通り抜け、グレイサーはふと月を見上げた。


 雲の切れ間から、白い月がわずかに顔を出す。さっきまでは雲に覆われていたが、少しだけ明るい光が石畳を照らした。それを見届けたあと、小さく息を吐きつつ彼は足を進める。


 眠りにつくために、そして明日また飄々と“問題児クラス担任”としての一日を送るために。


 だが、その胸の奥では──すでに過去の絶望と向き合った今、ちいさな炎が再点灯しているようにも見えた。


 この物語がどの方向へ動き出すのか、グレイサー自身まだわからない。


 ただ、ユイスたちの挑戦が、かつての“敗者”だった自分までも再び熱くさせている。それだけは確かなことだった。

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