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3. 誓いの炎

 夜明け前の薄暗い村の一角にある小さな家から、弱々しい咳き込みが途切れ途切れに聞こえていた。フィオナの祖母が炉端の椅子から立ち上がり、ベッドに横たわる少女の額をそっと拭う。その手にはため息と諦めが滲んでいる。薬草の煎じ薬を何度も試し、村の誰もが知っている限りの手当を施してきたが、フィオナの衰弱は進むばかりだった。


 ユイスは戸口の近くで立ち尽くしていた。声をかけるべきか、様子を伺うべきかさえ決められず、ただ横たわるフィオナの様子を祈るように見守る。


 かつては麦畑のそばで一緒に走り回り、川辺を笑いながら渡り歩いた明るい少女が、今は呼吸すらままならない。閉じた瞼の下で、ほんのかすかに瞳が揺れているのがわかった。唇も乾ききり、呼びかけに応えられる状態ではないように見える。


「……もう少し、楽になるようにしてあげたいんだがね」


 祖母が苦い声でつぶやきながら、冷えたタオルを桶の水に浸ける。


 焦りと疲労が積み重なった表情は、長く看病を続けてきた証そのものだ。小さな家の中に漂う空気は重苦しく、外の青白い光が差し込むだけで、朝だということをかろうじて感じさせる。


 ユイスは細い歩幅でフィオナの枕元へ近づいた。汗に濡れた髪が首筋に張りつき、胸の上下も浅い。名前を呼んでも届かないような気がしたが、彼は低く声を絞り出した。


「フィオナ……、聞こえる?」


 返事はない。だがその瞬間、フィオナの指先がほんのわずかに動くのが見えた。ユイスは慌てて手を伸ばし、その小さな手を優しく包み込む。


 か細い骨ばかりの手。これが数日前まで川で水をはじき、笑い声を上げていた少女の手だという事実が信じられない。


 村長のフォードもやって来て、いつもより低い調子で祖母に声をかけた。


「何か新しい知らせは……?」


 もちろん答えはない。領主カーデルからは何の許可も下りず、医者が来る見込みもなければ、魔法の救いが届く可能性も皆無だ。フォードの肩もまた、絶望に沈んだまま動かない。


 フィオナの胸が大きく上下する音が、不安定なリズムで部屋に響いた。ユイスは息が詰まる思いで、その一呼吸ずつを数える。まるでそれを逃したら、彼女が消えてしまうと本能で察しているかのようだった。


 しばらくして、フィオナの瞼がほんの少しだけ持ち上がる。細く開いた瞳には焦点が合っていないようにも見えるが、ユイスの存在を微かに捉えたのか、口元が微弱に動いた。


「……ユイス……?」


 形にならないほどの声。けれど、その一言にユイスは駆け寄るように身を乗り出し、聞き逃すまいと耳を近づける。すると、かすれ声がさらに細く続いた。


「ごめんね……こんな、かたちで……」


 謝る必要なんてない。むしろ謝りたいのは自分なのにと、ユイスは唇を噛む。その想いは言葉にならず、喉の奥で絡まる。


 フィオナの指が、弱々しくユイスの手を握り返す。とても小さな力。しかし、その力こそが今の彼女に残された精一杯だとわかる。ユイスの頭には、川で弾むように笑っていたフィオナの姿や、領主に医療を許されなかった日々が一瞬にして蘇る。


 もっと時間があれば、もっと早く何か手を打てたら――そんな想いが剣のように胸を貫く。そのとき、ユイスの脳裏に“前の人生”を思わせる曖昧な記憶がかすめた。 まるで違う世界で見た“効率的な治療”の光景が浮かぶようで、でも本人はそれを説明すらできず、わけがわからないまますぐ消えていく。


 フィオナが薄く唇を開いた。祖母や村長も声を殺して見守る。


「……本当は、明日……また川に行きたかったんだ……」


 その言葉は途中で途切れ、かすれた呼吸が苦しげに続く。ユイスは必死に頭を振り、なんとか励ましの言葉を紡ぎたいと思うが、声が出ない。


 握り返される手の感触が徐々に弱まっていくのを、ただ感じるしかなかった。


 しばしの静寂――ふっと、フィオナの指先から力が抜けていく。彼女の胸は一度、深く息を吸い込むように上下したが、それきり穏やかな凪のように動きを止めた。


 ユイスは息を呑む。先ほどまで確かに生を求める喘ぎを感じたのに、今はその乱れた呼吸さえもやんでいる。


 まるで時計が止まったように、部屋の空気が固まる。祖母がかすれた声でフィオナの名前を呼び、フォードが横合いから唇を震わせる。だが、そのどの声にも彼女は反応しない。


 ユイスは無意識にフィオナの頬をそっと撫でた。どこか冷たく、すべての力が抜け落ちた人形のように、フィオナの顔は安らかなだけに見える。静かな幕引き――だが、それが何を意味するかはあまりにも残酷だった。


 部屋の隅で、祖母が小さくしゃくり上げる。村長も、その場にいる数人の村人も、声をかけあうことなく下を向いている。


「嘘だ……まだ、助けられるはず……」


 ユイスは小刻みに首を振りながら、フィオナの頬を軽く叩く。何度も名を呼ぶが、何も返ってこない。こんな終わり方があっていいはずがない。


 そのまま何度も呼びかけを続け、あたかも彼女を現実に引き戻そうとするように、ユイスの声が震える。けれどもフィオナの手が再び握り返すことはなかった。


 祖母がシーツを引き寄せ、フィオナの顔を静かに覆った。部屋を満たしていた苦しい呼吸も止み、痩せ細った少女の体を包む布が、形ばかりの安らぎを纏わせる。


 ユイスはそれを見てもなお、まるで理解を拒むように息を荒らげ、手を伸ばそうとしたが、村長がそっと腕を抑えた。


「ユイス……もう、これ以上は……」


 フォードの言葉に、ユイスは肩を震わせる。畑で働く村人たちが少しずつ外から集まり、家の中は押し黙った空気に支配されていった。


 行き場のない苦しみが波のように襲ってきて、ユイスは声にならない呻きを飲み込む。これは夢なんだと何度も自分を説得しようとしても、目の前の現実がそれを許さない。嗚咽さえも出ないまま、息苦しい静寂が続いた。


 それから半日もしないうちに、村長が簡素な葬儀の準備を始めた。ここには豪華な棺も儀式魔法もない。ただ、亡くなった人を畑の外れにある小さな墓地へ埋葬し、周囲の人々が見送るだけの、やりきれない弔いだった。


 灰色の雲が広がる夕刻、いくつかのランプが揺れる光の中で、フィオナの体は静かに土へ還っていく。祖母がこらえきれずに声を震わせ、村の女たちがささやかに祈りを捧げる。男たちは深く頭を垂れ、言葉を失ったまま足元ばかり見つめていた。


 ユイスは少し離れた場所で、その光景を見届けていた。涙が出るのだろうか。それとも絶叫が喉の奥に引っかかっているのか。自分でもわからないまま、胸には黒い何かが渦を巻き始める。


 遠巻きに村人がささやく声が聞こえた。「治療さえ受けられたら、助かったかもしれない」「領主様はなぜあんなにも冷酷なんだ」――だが、今更そんな言葉を聞かされても、ユイスの心に響くものはない。フィオナはもうここにはいない。


 結局、少しの間を置いて皆が三々五々立ち去っていく。それぞれの暮らしがあるから、ずっと悲しみに浸ってはいられない。それがこの村の現実だ。何より、ここでできることはもう何もない。


 ぼうっと埋葬地に立ち尽くすユイスの横を、フォードが通り過ぎようとする。村長は申し訳なさそうに視線を落とし、ユイスの肩に手を置いた。


「すまない……どうにもできなかった。まだ何か方法があったかもしれないが……」


 掠れた声でそう言って、そのまま肩を震わせながら去っていく。ユイスは応えず、伏せた目のまま土の上に視線を落としたまま動かない。


 暮れ方の風が、掘り返されたばかりの土を少しずつ撫でている。フィオナの墓標代わりに簡単な木の杭が打ち込まれ、その根元に祖母が供えた小さな花束が置かれていた。わずかな色彩が土の暗さに沈んでいくのを、ユイスはじっと見つめる。


 どこかでカラスの鳴く声がして、また夜の気配が濃くなる。村には闇が下り始め、冷たい空気が頬を打つ。人の気配が消えた埋葬地に取り残されたユイスは、ようやく重い足を一歩だけ動かした。


 墓の前に膝をついて、地面に手をつく。シーツで覆われたフィオナの表情を思い出すと、胸の内で何かが焦げつくような痛みがぶり返す。あの微笑みながらの「ごめんね」が、今でも耳元にこびりついて離れない。


 顔を伏せたまま、ユイスは地を握り締める。拳に土の感触が滲み、そのまま指の間からこぼれ落ちていく。何を訴えればいいのか、どこにぶつければいいのか。そのすべてがわからないまま、怒りが熱をもって膨れ上がる。


 ふと思い返すのは、領主カーデルの冷淡な対応。貴族の許可がなければ医療魔法を使えないという“歪んだ世界”。なぜこんな理不尽がまかり通るのか。ユイスは自分の無力さを噛み締めながら、暗い瞳で墓標を睨むように見つめる。


 身体の内側で煮えたぎる感情は、先ほどまでの虚脱を嘲笑うように燃え上がり業火へと姿を変えようとしていた。


「いつか……こんな理不尽、全部壊してやる」


 そっと漏れた言葉は誰の耳にも届かないが、確かにそこにあった。まだ幼いユイスの瞳に宿る炎。その小さな炎は、貴族の権力を前に砕かれた無力さと、愛する人を失った痛みを糧にして大きくなる。


 そのとき、かすかに夜風が吹き、花束の隙間に小さく揺れる光が差し込む。月が雲間から顔を出したらしい。ユイスはわずかに視線を上げ、夜空を仰いだ。


 遠くで村犬の鳴く声がして、静かだった埋葬地がまた暗闇に溶け込んでいく。ユイスはそんな夜の静寂を切り裂くように、ただひとり墓標の前で拳を握りしめ続ける。まるで固く結んだその手こそが、いつかこの世界の不条理を穿つ武器になると信じているかのように。


 やがて雲が月を再び覆い、闇がすべてを飲み込む。フィオナの墓に供えられた花の影も、ユイスの小柄な背中も、夜闇と一体化していく。それでも彼は立ち去らない。幼い誓いが闇の中で燻っていた。


 そして静かに吹く風が、少しだけ冷たさを増しながら、周囲の草をざわつかせる。今日という日が終わり、やがて夜が明ければ、新たな一日が動き出す。


 まだ星も瞬きはじめたばかりで、夜は長い。しかし、ユイスの決意は既に朝日を待つことなく、胸の奥で静かに研ぎ澄まされていた。

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