21. 火種
朝の鐘がまだ鳴りきらないうち、ユイスは背伸びをしながら寮の廊下をゆっくり歩いていた。前日のテスト結果が良かったせいか、体の疲れこそ残っているものの、心はどこか軽い。寮の扉を開けて外に出ると、薄く朝靄の漂う学園の中庭が視界に広がった。
「おはよう、ユイス!」
背後から大きな声が響く。振り返ると、トールとエリアーヌ、ミレーヌがそろってやって来る。トールはいつもの元気な調子で手を振り、エリアーヌは少し恥ずかしそうに会釈。ミレーヌは「あ、あの…おはよう」と小声で笑った。
「おはよう。みんな、早いんだな」
ユイスがそう言うと、トールは胸を張る。
「当然だ。次の授業で昨日のテストの返却があるし、席に着く前に少し身体を動かそうと思ってさ! これからちょっとだけ走ってこようぜ?」
横からエリアーヌが苦笑いを浮かべる。
「トールってば、元気なのはいいけど…もうすぐ予鈴だよ?」
トールは「うっ」と言葉を呑み込むと、わずかに頬を染める。
「そ、そうか。じゃあ…あとで、だな!」
周囲には他の生徒たちが行き来している。廊下に向かおうと歩き出した彼らの背後で、ミレーヌがこぼすようにつぶやいた。
「成績、少し上がったからって…変に目をつけられないといいけど」
「わたしも、昨日は嬉しかったけど…正直、保守派の先生たちやエリートクラスの皆さんが、どう反応するか気になってるの」
トールは「大丈夫だろ!」と声を張ったが、その表情にはほんのわずか緊張が混じっている。
◇◇◇
問題児クラスの教室は、いつもより活気があった。前日行われたテストの結果が好調だったのだ。グレイサーは「ああ、まあ悪くない」と飄々としながらも、どこか満足げな雰囲気だ。生徒たちはお互いの成績を見比べては「お前、すげえじゃん」「いや、そっちこそ」と盛り上がっている。
ユイスは自分のノートをぱらぱらとめくりながら、時折エリアーヌやミレーヌに「暗記の要領を整理したメモ、あとで貸すよ」と声をかける。トールは隣で「実技もこんなふうにいけばな…」とぼやき、レオンは離れた席で「ふん…やれるもんならやってみろよ」と皮肉っぽく笑う。
だが、そんな和やかな時間は長くは続かなかった。次の授業が始まる前、問題児クラスの仲間たちは揃って教室を出て、廊下を移動しようとしたのだが、その途中、向こうからエリートクラスの生徒数名がまとまって歩いてくるのが見えた。
先頭にいたのはギルフォードの取り巻きだ。派手な身なりをした彼らは、通路の中央を堂々と歩く。道を譲る気配などまるでなく、エリアーヌとすれ違う瞬間、あからさまに肩をぶつけてきた。ばさっとエリアーヌの持っていた教科書が床に落ち、彼女は思わず後ずさる。
「な、何するの…」
エリアーヌが慌てて教科書を拾おうと屈むと、取り巻きの一人が冷ややかな笑いを洩らす。
「ああ、悪かったね。魔力量ゼロに近いお嬢さん? いくらテストの点が上がったところで、所詮は血統なしの分家落ちなんでしょ?」
その言葉に、周囲の生徒がちらちらと視線を送る。エリアーヌは唇を震わせながら視線を落とし、取り巻きはさらに追い打ちをかけるかのように鼻で笑う。
「分家の娘が良い得点を取ったところで、僕らには関係ないけどね。恥をかくだけなのに、よく学園で続けてられるよなあ?」
「おい、やめろよ…!」
トールだはエリアーヌの表情が見る間に青ざめていくのを見て、彼は相手に詰め寄ろうとする。火球魔法でこいつらを一発吹っ飛ばしかねない勢いだ。
その瞬間、さらにゆっくりした足取りで現れたのがギルフォード・グランシスだった。廊下にいた取り巻きがさっと道を開けるようにし、ギルフォードは高圧的な目で問題児クラスを見下す。
「ずいぶんと騒がしいな。まさか貴様ら、成績が少し上がったくらいで図に乗っているのか?」
嫌なほど上品ぶった声が、廊下の静寂を切り裂く。エリアーヌがちらりと視線を上げるが、ギルフォードは“ゴミを見る目”のまま続ける。
「なるほど、仮にも合格点を取ったのかもしれないが、忘れるなよ。血統こそが力、魔力量の低い連中が運良くテストで数字を稼いでも価値はない」
トールは苛立ちを抑えきれず拳を握りしめる。
「おい、トール、落ち着け」
横からユイスがトールの腕をぐっと押さえる。トールは振り払うように腕を振るが、ユイスの真剣な目を見て一瞬動きを止める。
「やめろ、こんなところで殴り合いなんかしても何も得られない」
ギルフォードはそんな二人を見下ろし、呆れたように笑った。
「いいじゃないか、今ここでやり合っても。勝てると思ってるんだろう?」
トールの表情がさらに険しくなる。ユイスはトールに向けて低く言う。
「模擬戦が近いんだ。そこでちゃんと証明しよう。僕たちが“やればできる”ってことを」
その言葉に、トールは唇を噛みながらも拳を下ろした。代わりにギルフォードが鼻で笑い、肩をすくめる。
「ほう…問題児クラスが俺たちエリートクラスに勝てると? 冗談はやめろ。せいぜい滑稽な姿を晒すだけだ」
廊下を行き交う他の生徒たちがヒソヒソと口を動かし始める。トールが再び怒鳴りそうになったその時、後ろでこわばった表情のエリアーヌが、かすれた声で「やめて、トール」と懇願する。彼女を見て、トールはぎりぎりのところで踏みとどまった。
ギルフォードは意地の悪い笑みを浮かべる。
「ああ、そうだ。テストで多少点を取ったんだろう? ならば、実戦でも同じように頑張ってみせるといい。模擬戦で、血統に及ばない哀れな連中を粉砕してやるよ」
ユイスは静かに前へ出ると、まっすぐギルフォードを見据えて口を開いた。
「……受けて立つ。どんな手を使っても、僕らが“ゴミ”なんかじゃないって証明するよ。模擬戦で、正々堂々やろう」
その一言に、ギルフォードはわずかに目を細める。取り巻きたちは「おいおい、どこまで夢を見てるんだ?」と嘲り、笑いを押し殺しきれない。だがギルフォード本人はそれを制し、腕を組む。
「へえ。面白いこと言うじゃないか。じゃあ、その模擬戦とやらで、地獄を見せてやろう。もっとも、お前らが地面に這いつくばる光景が目に浮かぶがな」
取り巻きの笑いとともに、ギルフォードは踵を返して去っていく。廊下には微妙な沈黙が生まれ、残された問題児クラスのメンバーたちがぎゅっと肩を寄せ合う。エリアーヌは両手で教科書を抱え込み、トールは震える拳をたたきつけるようにして壁を見やった。ミレーヌは視線を落としながらも、やがて意を決したように顔を上げ、レオンは遠巻きに「やれやれ」とため息をつく。
ユイスは唇を結んで立ち尽くした。ギルフォードたちの嫌悪感漂う挑発と、かすかに感じた自分たちの熱い闘志が入り混じり、頭の奥がじんじんとする。
「ちょっと大丈夫? エリアーヌ」
ミレーヌが小声で肩を支えると、エリアーヌはこくりと頷く。目がほんのり潤んでいるが、涙をこらえているようだ。
「くそ…次の模擬戦、ぶっとばさないと気が済まない」
トールの吐き捨てるような声に、ユイスは返す言葉を探した。いつもは落ち着いたはずの胸が、今は妙にざわざわしている。しかし同時に、ある思いが湧き上がってきた。
(血統なんて、僕たちの理論で必ず超えてみせる。ここで止まるわけにはいかない…僕は、僕たちは、誰かの“ゴミ”なんかじゃない)
すぐそばを通りかかった教師が、「そろそろ教室に戻れ」と険しい声で促す。ユイスたちは仕方なく歩を進める。けれどその足取りは、誰一人ふらついてはいない。息を殺すように小さく呼吸を揃えながら、問題児クラスの面々は無言で廊下の奥へと歩いていった。
その背中には、怒りや不安と同じだけの、強い闘志が宿っていた。
◇◇◇
教室に戻るまでのわずかな時間、ユイスは何度かトールに声をかけたが、トールは悔しげに眉を寄せたまま応えない。それでも仲間たちが一列に並んでいる姿に、ユイスははっきりと感じていた。全員が同じ思いを共有している――目の前で踏みにじられた仲間を守るため、そして自分たち自身のため、何としても勝つのだ、と。
やがて教室の扉が開く。ユイスは振り返りながら、あらためて心に誓う。
(フィオナ…僕、必ず変えてみせる。この理不尽な“血統”の世界を。模擬戦はその通過点にすぎないけど、きっと大きな一歩になる)
僅かに震える拳を握りしめ、ユイスはエリアーヌやトール、そして仲間たちの表情を見渡した。彼らも同じように決意を抱え、静かに前を向いている。




