20. 小テスト本番
いつもより少し早めに目が覚めてしまった。夜型がすっかり板についた身体でも、今日ばかりは神経が高ぶっているらしい。ベッドから起き上がり、制服を整え、微睡むような頭で昨日のノートをちらりと確認する。これまで夜更かしを重ねて仕上げてきた数式理論は間違いなく役に立つはずだ——そう信じないとやっていられない。
問題児クラスの教室へ向かう途中、廊下ではすれ違う生徒たちが「テストか……最悪だな」などとぼやいている。だが、こちらにとっては“退学や奨学金打ち切りを回避するための勝負の舞台”である。息を吐き、教室の扉を開いた。
「おはよー……って、お前ら早いな」
ドアをくぐると、すでにトールとエリアーヌ、ミレーヌが席についていて、落ち着きなくノートを開いていた。トールは大きく伸びをしながら言う。
「おう、ユイス。今日はテスト本番だからな。余計に目が覚めちまったよ」
エリアーヌは手元のノートを見つめたり閉じたりを繰り返し、落ち着かない素振りを見せる。
「わ、私、暗記がまだ不十分かもって思って……うぅ、手のひらが汗ばんじゃって……」
ミレーヌも口元に手を当てて、少し緊張した笑みを浮かべている。「頭の中、真っ白になったりしないかな……でも、今までよりは勉強できたと思う、たぶん」
その様子を見て、俺は胸が温かくなる。みんなが不安を抱きながらも頑張ってきた証拠だ。彼らは魔力量が低いとか暗記に苦手意識があるとか、これまで数多くの理由で諦めてきた。それでも今回ばかりは必死に勉強した。夜更けの図書館や寮の廊下で一緒になったこともある。俺は少しだけ背筋を伸ばし、彼らを安心させるように言う。
「落ち着いてやれば大丈夫。ほら、これまで練習してきた数式理論のアプローチで、詠唱暗記を再構築すれば暗記量は減る。計算に慣れれば問題ないさ」
◇◇◇
試験開始時刻が近づき、担任のグレイサーがちらりと教室を覗く。
「へえ、今朝は出席が早いな。……ま、あんまり肩ひじ張るなよ」
彼はコーヒーのマグを片手に飄々とした声を出す。周囲の保守派教師らしい人物が後ろから「どうせ問題児クラスだし、最下位争いで終わるだけさ」と鼻で笑う気配を感じるが、グレイサーは適当に流して去っていった。いつもの調子ながら、どこか俺たちを信頼している空気を含んでいるようにも見える。
試験は講堂でクラスごとに行われるようだ。問題児クラスは奥の席に固められて、何やら監督教師が「カンニングするなよ?」と余計な皮肉を言ってくる。エリアーヌやミレーヌが「そんなつもりはないです……」と弱々しく返事しているのが聞こえるが、俺は監督教師の言葉をほとんど無視した。
そして「それでは始め!」の合図。
一斉に紙をめくり、ペンを走らせる音が講堂に響く。俺は問題をざっと見渡し、詠唱暗記や理論の穴埋めなど、いつものように“血統魔法を前提とした形式”の問題が並んでいることを確認する。けれど、それをそのまま丸暗記するのではなく、数式魔法の理論で抽出した“要点の組み合わせ”を頭の中で思い返す。複雑な呪文記述も、パーツに分解して記号変換した方がスムーズだ。あらかじめ何度も“デバッグ”して整理した術式が、いま文字と数字の奔流となって脳裏に浮かぶ。
ペン先が走る。実際に書き始めると、意外と手が止まらない。頭の中で“あそこだけは苦手だったけど、レオンが夜にくれた刻印のヒントが役立ちそうだ”と思い至り、微かに口元が緩む。ここ数日で身につけた知識を、なるべく落ち着いて吐き出そう。そう考えると、緊張感よりも“やってやる”という集中が勝っている。
◇◇◇
結局、試験は想像よりあっさり終わった。あれだけ身構えていたのに、時間切れどころか少し余裕まであった。何人かのクラスメイトが「うぅ、まるでダメだったかも……」と暗い顔をして退出していく中、トールは苦笑いしながら「ま、終わったもんは仕方ないな」と肩をすくめる。俺は黙って「お疲れ」と頷き返す。
そして翌日。答案が返却されるという知らせが入った。成績も一部の上級クラスの結果と一緒に早々にまとめられ、教壇で教師が採点済みの束を持っているらしい。問題児クラスでその話が広がると、みんな落ち着かない様子でざわついた。
「ユイス、どう思う? やっぱり最下位を脱するのは難しかったかな……」
ミレーヌが隣で聞いてくる。彼女は昨夜も緊張で眠れなかったらしく、目が少し赤い。
「……でも、きっと大丈夫だよ。ミレーヌは計算得意だし、自分なりのやり方ができていたじゃないか」
そう励ますと、彼女は弱々しくも笑顔を見せた。
やがて担任のグレイサーが教室に入り、一部の採点結果を伝え始めた。
「はい、今日のホームルームで今回の座学試験の成績を返す。ま、期待はしていないが——」
そう言いながら彼は、明らかにいつもとは違う表情をしている。隙なく澄ました顔というよりは、どこか面白がっている風にも見える。
グレイサーが答案用紙を配る。トールが自分の用紙を開いた瞬間、「うお……?」と変な声を上げた。
「え、え? 今回の点数、俺としてはかなり高い……!」
横でエリアーヌも「わ、私……こんな点……」と半泣きになりながら見つめている。どうやらみんな、それなりの手応えが形になったらしい。ミレーヌが手を震わせつつ「こんなに……私、暗記あんなに苦手なのに……」とつぶやく。
そして俺の答案も手元に届く。急いで確認すると、けっこう上位の数字が載っていた。クラス順位はもちろんだけれど、学年全体で見ても平均よりはずっと上のほう。素直に驚いて息を呑む。前までの成績が底辺付近だった自分が、魔力量を理由に嘲笑われ続けた自分が、まさかこんな結果を出せるなんて。
「やったな、ユイス」
「エリアーヌもミレーヌも俺も、けっこうイイ感じじゃないか! これ、先生に報告したら驚くだろうな」
「トール、ちょっと騒ぎすぎ……でも、私も本当にうれしい……」
「まだ信じられない……わたし、こんな点数取ったことないもん」
レオンの姿を探して目を向けると、彼は席で答案を指先ではじきながら黙っている。いつもの皮肉っぽい表情だが、目の奥がどこか柔らかい。俺が軽く声をかけると「ふん、まぁこんなもんだろ。元が酷いから伸びしろはあるってだけさ」と視線をそらす。
◇◇◇
「お前ら、今回は一応、よくやったな」
ホームルームの終わりに、グレイサーが問題児クラスへ視線を投げかける。いつも以上に気だるげな口調だが、ほんの少し口元が上がっている。
「少なくとも今回の座学に限っては、保守派教師どもが何か言いがかりをつける隙はないはずだ。……これで退学も奨学金打ち切りも当面は保留になるだろう」
彼の言葉に、クラス全員がほっと胸をなで下ろした。今まで退学の不安が常につきまとっていただけに、みんな顔が明るい。
「お、先生が『よくやった』なんて珍しいじゃないか!」
「ばか、俺は別に褒めてなんかない」と当人はそっぽを向いてしまう。だが、その声色はどことなく柔らかく聞こえるから不思議だ。
「ユイス、ありがとう。あんたの理論、ほんとに役に立ったわ」
エリアーヌが少し上気した頬でこちらを振り向く。
「いや、みんなが根気よく頑張ったからだろ」
「いやいや、お前がまとめたノートがあったからこそ」
「回復魔法の理論まで頭に入りやすくなったよ」
「……ま、あんたが必死にやるのを見て、俺も少しはやってみようかと動いたけどな。……おかげで悪くない結果だ」
いつも皮肉屋の彼が、ここまで率直に言うとは思わなかった。思わず、俺の胸に小さな喜びが広がる。
◇◇◇
そして放課後。掲示板に貼り出された“総合順位リスト”を見に行くと、ほかのクラスの生徒がすでにざわついている。
「おい、あれ……あのユイスってやつ、こんな順位なのか?」
「トールやエリアーヌも、それなりに成績上がってるらしいぜ……何があったんだ?」
ひそひそとした声が聞こえ、ギルフォードたちエリート生が遠巻きにこちらを見ている。聞き捨てならない言葉が飛んでくる。
「フン、どうせ何か姑息な手段を使ったんだろ。あれだけ魔力量が低い連中が座学だけちょっと伸びても、本質は変わらん。実技や模擬戦じゃ太刀打ちできるはずないさ」
呆れ顔の取り巻きが同調している。仲間たちの方を伺うと、トールは唇を噛み、怒りを必死に堪えているようだ。エリアーヌも俯きがち。けれど、俺は小さく笑って肩をすくめる。
「座学で結果出せたこと自体、大きな一歩だ。別にあいつらに認めてもらおうなんて思ってないし」
そうつぶやくと、仲間たちも「……そうだな」「うん、私たちは私たちで頑張ったんだし」とうなずき返す。強がりかもしれない。でも、何もできずに嘲笑され続ける日々よりは、遥かにいい。
その晩、問題児クラスの寮へ戻る途中、廊下を歩きながらふとフィオナの面影を思い出す。彼女を救えなかった悔しさに押し潰されそうになる夜は、今も多い。でも今日の結果が教えてくれた。「どうせ落ちこぼれ」と言われた俺たちでも、やり方次第で戦えるかもしれない。数式理論は、従来の血統魔法に頼らない道を指し示してくれているのだ。
寮の前でトール、エリアーヌ、ミレーヌと別れ、レオンも「じゃあな」と短い一言だけ残して自室へ消えていく。彼は相変わらず皮肉っぽいが、その背中はどこか嬉しそうだった。
俺は自分の部屋に入ると、手作りノートを机の上に広げ、またペンを走らせる。このテストで満足したくはない。いつか模擬戦や本格的な実技でも、貴族派に打ち勝ち、血統だけが正義じゃないと示したい。 ——そうしないと、フィオナの苦しみも報われない。
窓の外を見上げると、夜空にはさほど星は見えない。けれど、自分たちの未来は曇っていないと信じたい。そっとノートを閉じ、深呼吸をする。
「フィオナ、今日、ほんの小さな一歩を踏み出せたよ」
声には出さないが、胸の内でそう呟く。奨学金打ち切りをいったん回避できた安心感と、次への意欲がごちゃ混ぜになった感覚に満たされつつ、俺は明日からの研究にも意欲が膨らんでいくのを感じた。
ギルフォードやエリート連中の嫌味は、まだまだ止むことはないだろう。けれど、クラスメイトが一緒に笑い合えるというだけで、心はこんなに軽くなる。数式魔法が誰かを救う力になる——その可能性が少しずつ形を帯びはじめた。
この世界には“血統”という巨大な壁がある。実技や本格的な魔力戦では、今のままでは歯が立たないかもしれない。それでも、俺たちなら必ず突破できると、今は信じたい。
そんな思いを抱きながら、俺はゆっくりと椅子を立ち、硬いベッドへ横になる。眠気が深く落ちてくるまでに、わずかばかりの時間で次の研究プランを頭の中で思い描いた。
「……よし、まだまだやれる」
小さく息を吐き、瞼を閉じる。昨日までは不安で眠れなかった夜が、今日は安堵に包まれながらそっと終わろうとしていた。




