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19. レオンの皮肉と一歩踏み出す契機

 廊下を吹き抜ける夜の風は、昼間のざわついた空気とはまるで違っていた。ランプの明かりがところどころ薄暗く揺れ、壁に鈍い影を落としている。そんな学園の深夜を、レオン・バナードは一人で歩いていた。


「夜になっても、別にやることはないんだよな……」


 誰に言うでもなく、ぼそりと口にする。隣室で仲間たちが勉強会を開いているような気配も感じるが、レオンは参加する気になれない。俺なんかが参加したところで、結果など変わりはしない。そもそも必死に頑張ったところで報われる保証なんか、どこにもない――彼は、そんな思考にいつも囚われていた。


 ◇◇◇


 ふと、廊下の角を曲がった先で、レオンは人影を見つける。ノートと資料を抱え込んだ少年――ユイス・アステリアが、俯きがちに歩いているのが目に入った。


「……また夜更かしか。ほんとに好きだよな、あいつは」


 つい皮肉混じりの独り言が出る。ひそかに忍び寄ったつもりはないのだが、ユイスはすぐに気配に気づいて顔を上げた。目の下にはやはり薄いクマがある。連日の夜更かし研究のせいで疲れているのだろう。


「よ。こんな時間でもノート抱えて移動か。ご苦労なこったな」

「……レオンか。眠れないなら、勉強でもすれば?」


 ユイスが無遠慮に見つめてくる。レオンは少し苦笑して首を振った。


「興味ないね。どうせ頑張っても俺にはメリットがないし」

「メリット、か。……いっつもそんな調子だな」


 ユイスの声音には苛立ちが混ざっている。レオンはそれを感じ取りながら、相手がどう反応するのかを測るような目つきで言葉を続けた。


「悪いか?ま、俺にはわからないけど、あんたには必死になる理由があるんだろ?」

「……」


 ユイスの眉がわずかに動く。彼は何かを言いかけたが、それでもぐっと言葉を飲み込み、あっさりと視線を外した。


「…まあそうだよ。止まれない理由がある。だけど君には関係ない」

「へえ、そうか。ならいいけどね」


 皮肉屋のレオンにとって、この手のやり取りはいつものことだ。けれど、今日は何故か少しだけ胸がざわついた。ユイスの目には焦燥と強い意志が同居しているのが見える。そんなに血のにじむような努力をするなら、こいつはいったい何を手に入れたいのか――レオンはわざと口をつぐみ、背を向けた。


「じゃあな。俺は部屋で寝直す。健康第一だろ?」

「……皮肉ってるつもりか?」


 ユイスが問い返してくるが、レオンは肩をすくめるだけだ。最後にちらりと振り返ると、ユイスが疲れた表情のまま歩き去ろうとしているのがわかった。


「好きにしろよ、ユイス。じゃあ、おやすみ」


 低くそう告げ、レオンは廊下を歩き去った。やはり気持ちが晴れないまま、心だけが落ち着きを欠いている。変な夜だ、と彼は思う。


 ◇◇◇


 レオン・バナードは学園の端にある窓まで足を運び、そっと腰を下ろした。窓硝子の向こうには星空が広がっている。日中は見栄えのする学園の建物も、この時間はランプが消えてシルエットだけだ。


「……あいつ、本当にぶっ倒れないんだろうか」


 ユイスは、まるで呪われたように研究に没頭している。夜な夜な図書館や空き教室で数式理論とやらに向き合い、実際に魔道具を改良し続けている。レオンにはその必死さが理解できない。むしろ、理解しようとする気力がわかない。


 だが、なぜか目に焼きついて離れない。こんな夜遅くに、あれほど真剣にノートを抱える姿を見せつけられると、彼の皮肉すら当てはまらないほどに熱量が違いすぎる。


(……別に、羨ましいわけじゃない。俺が変に焦る必要もない。どうせ俺は三男坊で、やる気を出したところで家にも歓迎されない。ここにいるのも何となく。成績がどうだろうと誰も気にしない)


 昔を思い出す。レオンには兄がいた。優秀で、家中の期待を背負っていた兄。両親はいつも兄ばかりを褒め、レオンの顔を見ると「まあお前は適当にやっていればいい」と言い置いて笑っていた。


 はじめは必死に食らいつこうとした。兄に勝てるわけはなくても、少しでも近づければ、家族も振り向いてくれるんじゃないかと思った。けれど結果は空回り。何をしても「そんなものか」と冷たい反応ばかり。いつからか、努力すること自体が馬鹿らしく感じてきて、それ以来、彼は何も本気で取り組もうとしない生活を選んだ。


「……努力したってどうせ無駄。そんなの知ってる」


 呟きに誰も答えない。窓外の風だけが頬を撫で、レオンは薄く笑う。それでも、心の奥底に少しだけ引っかかるものがある。数式理論――ユイスが広げるあの術式の草案を、ほんの興味で覗き込んだとき、実際に面白いと感じてしまった。


(当てにならないけど、あれは確かに魔力量が少ない人間でもやりようがある理論だ。……なのに、俺が入り込む理由なんてどこにもないし)


 自嘲気味に目を伏せ、立ち上がろうとすると、遠くの廊下で僅かな灯りが動いた。まるで誰かが壁に凭れ、止まったままノートを開いているような。それが気になり、レオンは意図せず近づいていく。


 ◇◇◇


 廊下の端では、ユイスが資料を手に少し焦った表情をしている。床に置いたノートに術式の図面を描き込み、何度も首を傾げていた。隣にはちょっと古い書物が置かれているが、あまり上手くいっていないらしい。


 レオンは気づかれないよう足を止め、観察していた。ユイスは何度も修正しながら小声で呟く。


「……この流れじゃノイズが出る。ここで魔力が逸れて……ダメか。制御が不安定になるな……」


 普段から皮肉を飛ばし合う相手が、こうして地道な作業で苦戦する姿はちょっと意外だった。レオンは思わず口を出す。


「そこ、もう少し曲線にしてみたら? 直線的につないでると魔力が淀むはずだろ?」

「なっ……レオン。まだいたのか」


 ユイスが一瞬振り返る。その目はわずかに驚きを帯びていた。レオンは肩をすくめる。


「そっちのほうがスムーズに流れるとか、聞いたことある。……兄が前に見てた資料をちょっとだけ覗いてたんだよ。はっきり覚えてるわけじゃないけど、そっちのほうが計算合うんじゃないか?」

「……なるほど。いや、待てよ。曲線に変えるとなると刻印のスペースに余裕が必要…… でも……」


 ユイスは急に目を輝かせ、ノートへ手を走らせた。ペン先が一気に図面を引き直す。レオンが呆れ顔で覗き込むと、何やら細かい数式が次々と組み直されている。それを眺め、レオンは(こいつ、どんな頭してるんだ)と少しだけ感心した。


 やがてユイスが顔を上げ、素直に笑う。


「……すごいよ、レオン。その発想は見落としてた。確かにこの形ならロスが大幅に減らせそうだ」

「はあ? 偶然だよ、思いつきだ」

「でも参考になった。その……ありがとう」


 不自然なくらいに真っ直ぐ礼を言われると、レオンは逆に居心地が悪くなる。照れ隠しにそっぽを向いた。


「ふん、俺は別に助けようと思って言ったんじゃない。なんとなく思い出しただけ」

「それでも、だ。礼は言うよ」


 ユイスは書き直した図面をまじまじと見つめ、まるで子どものように新発見に目を輝かせている。レオンはやや胸がざわついた。


(……こんなちょっとしたことでも、こいつは全力で反応するんだな)


 自分にはない情熱を見ると、どうしても素直に突き合えなくなる。レオンは口をへの字に曲げながら、あえて冷たい言葉を落とした。


「……ま、夜更かししすぎて倒れるなよ。そうなったら、やる気くそもないだろ?」

「心配? 珍しいな」

「はあ? ただの皮肉だっての。……好きにしろ、俺は寝る」


 そう言い捨てて、レオンは踵を返す。だが、背中越しにユイスが小さく笑ったのがわかった。笑われたと思うとムッとするが、なぜか胸の奥には変な温かさが残る。


 廊下を離れ、人気のない通路を進みながら、レオンは再び自問自答する。俺は何をやってるんだろう。どうせ関わっても得にもならないし、余計な面倒を増やすだけのはず。なのに、刻印の形をアドバイスしたりして……。


(……でもまあ、ちょっとだけ、面白いかもな)


 あいつの数式理論が完成したら、もしかしたら新しい世界が見えるのかもしれない。弱い魔力量でも、頑張れば価値があると証明できるかもしれない。そんなことを考えると、心が少しだけ躍るのだ。


「なんだ、俺は本当に面倒くさい性格だな」


 独り言に応える者はいない。だが、レオンは苦笑しながらも先ほどよりは前向きな気分になっていた。廊下の奥には、問題児クラスの寮への道が続いている。足が軽く感じられるのは、なんとも不思議な夜だった。


 ◇◇◇


 ユイスと別れたあと、レオンは寮の一階で誰にも言わずにしばし立ち止まっていた。思い浮かぶのは、兄に置いていかれた幼少期の記憶――そのたびに必死で追いかけてみたが、結局は認められず終わった過去。


(あいつの場合は自分の意思で走ってるんだよな。誰に言われたわけでもないのに、あの勢いで。……いや、まるで取り憑かれてるみたいだけど)


 夜には夜の匂いがある。静かで湿り気のある闇が、レオンの細かな想いを包み込んでいく。彼は少し考えたのち、ポケットから紙切れを取り出した。先日こっそり図書館で見つけた古いメモの断片――そこには刻印の制御について簡単な図示がされている。兄が昔、実験していたものと似た記号が幾つかあった。


「……どうせ俺なんか、と言いながら、こんなの保管してる時点で、熱意ゼロとは言えないのかもな」


 口調だけはいつも通り捻くれているが、胸の奥には確かな鼓動を感じる。いくら否定しても、彼の中には“何かに力を注いでみたい”気持ちが消えずに残っているようだ。


 レオンは小さく息を吐き、紙片をしまい直した。


「……ちょっとだけ、手伝ってやってもいいか?」


 もちろん、本音をそのまま口にはしない。照れもあるし、メリット云々を言い出す自分の性質はそう簡単には消えやしない。だが、夜更けの静まりかえった寮の廊下で、レオンは誰にも聞かれぬようにそっと笑みをこぼす。


「ふん。どうせ今のところ暇だしな」


 そう呟き、彼は自分の部屋へ足を進めた。扉を開ければ暗い室内。ベッドに腰掛けると、脳裏に再度ユイスの姿が蘇る。あれほどの執念が何の形を生み出すのか――内心で馬鹿にしながらも興味が抑えきれない。


「いずれどうなるか、見てやる」


 その言葉には、わずかに期待が滲んでいた。心のどこかで、ユイスだけでなく自分自身も変わるかもしれないと思っている。渦巻く感情をもて余しながら、レオンは明かりを消して目を閉じる。いつになく眠りが早く訪れそうな予感がした。

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