17. グレイサーへの圧力と小テスト
職員会議は朝早く、まだ廊下に人影が疎らな時間帯に開かれていた。重厚な扉を抜けた先の会議室には、長机を挟んで数名の教員や幹部が腰掛けている。窓から薄く光が射し込み、ダークブラウンの木製家具がぼんやりと照らされていた。
「さて……問題児クラスの件ですが」
会議室の中央席に陣取る壮年の教員が書類を捲りながら、ついと視線を上げる。彼は保守派教員のひとりとして、ここ数年学園内部で一定の影響力を持っていた。
「相変わらず進捗が見えませんな。失敗が多い上に実技も成績不振。目に余る者ばかりだと報告が来ていますが」
周囲には似た空気を纏った者が数人座っている。皆、貴族の出身で血統至上主義の色合いが濃い。問題児クラスに所属している庶民や素行不良生は、彼らから見れば“何の取り柄もない厄介者”にしか映らないのだろう。
テーブルの端でコーヒーをすすっている男――グレイサー・ヴィトリアは、少しだけ眉を上げたまま黙している。
「特に特例奨学生のユイス・アステリア。あれはどうなんですか?」
別の保守派教員が、目を鋭く光らせて続ける。
「魔力量が低いと聞く。それなのに学園が奨学金を払ってまで在籍させる価値があるのか、私には疑問ですな」
「ええ、そう思いますとも。成果があるならまだしも、現状は評価に値する実績がないのでは?」
ちらちらとグレイサーのほうを窺う空気が会議室に漂った。実際には問題児クラスでも小さな成功は出始めているとグレイサーは知っているが、それを口にしても保守派がどう反応するかはおおよそ見えている。
「んー、まあ問題児クラスってのは、そう簡単に伸びないものですよ」
グレイサーは気だるそうに肩をすくめ、湯気の立つコーヒーカップをひと口啜った。
「特例奨学生にしたって、入学してそれほど経ってませんからね。すぐ結果を出せるわけがないでしょう」
「しかし、だからといって放置するわけにもいかん。学園の評判を落とすだけの存在なら、奨学金を打ち切って退学を促す手だってある」
ギラリと光る保守派の視線。グレイサーは面倒そうに薄目を開け、「ええ、まあ」と間延びした相槌を打つにとどめる。下手にやり合っても、相手は喜ぶだけだ。今はやり過ごすほかない。
すると、机上の書類を整えていた中年の教員が提案を投げかけた。
「では、次の中間テストの結果を見てから判断をするのはいかがでしょう。実技演習だけでなく座学の成績も出ますし、その数字を見て今後の処遇を決める。もし問題児クラスが全滅に近いなら、早期退学を検討することもやむなしでは」
「ふむ。それが現実的でしょう。彼らが言う“数式理論”なんて奇妙なものは、形だけで終わるに決まっていますよ」
保守派教員たちは揃いも揃って頷きあう。グレイサーは眉間に皺を寄せたが、口調は依然として飄々としていた。
「そうですねえ。彼らがどうなるか、私も興味ありますよ」
わざと他人事のように言いながら、心の中では(少しでも結果を残せよ)とひそかに祈る。奨学金打ち切りとなれば、ユイスが学園を去る可能性は高い。そうなればグレイサー自身の立場も、さらに悪化するだろう。
会議はさほど長引かなかった。問題児クラス以外の話題がいくつか議題に上り、あっさり終了となる。グレイサーは椅子を引いて立ち上がると、急いで書類をまとめることもせず廊下へ出た。
誰もいない壁際で一息ついて、「ほんとに、見込みないなんて言わないでほしいね……」と小声で呟く。
ユイスの奨学金を推したのは表向きには学園上層部だが、その裏には自分が強引に割り込んだ経緯がある。保守派が「責任を取れ」と騒ぎ出したら、次はどんな追い込みをかけられるか。
「ま、あいつなら何とかするかね」
そう言い捨てると、グレイサーは空のコーヒーカップを持ち直し、微かに苦い表情で職員用の通路を歩き出す。
◇◇◇
翌朝。問題児クラスのホームルームでは、グレイサーが珍しく真面目そうな表情で教室の前に立っていた。
「近々、中間テストがある。座学中心の試験だ。日程は来週以降……ま、各自見ておけ」
彼がそう告げると、教室のあちこちで落胆や溜息が漏れる。トールは頭を抱え、エリアーヌやミレーヌは顔を見合わせて「どうしよう……」と弱気な声を出した。
「点が取れなきゃ、あまりいい扱いは受けんだろうな。貴族の皆様方は、落ちこぼれには冷たい」
グレイサーは気のない口調で続けると、「じゃ、俺はもう行くから」と短く言ってドアのほうへ向かう。だが、ふとした拍子にユイスと視線が合い、ほんの少しだけ目で何かを伝えようとしているように見えた。そして黙って去って行く。
残されたクラスは一瞬の沈黙のあと、一斉に「はあ……」という溜息に包まれた。
「またテストか……どうせダメだろ」
レオンが椅子に深くもたれかかりながら、投げやりにつぶやく。
「俺たち問題児クラスは、いつも最下位争いだしな。どうあがいても、エリートクラスに勝てる気なんてしない」
「そりゃそうよ……暗記も苦手だし、魔力が低いと詠唱速度だって遅いもの」
ミレーヌが不安そうにノートをパラパラと捲る。そこには詠唱式や古代文字の断片的な書き込みがあったが、整理されておらず、頭を抱える気持ちもわかる。
トールは腕を組んで唸るように言う。
「実技で点が取れるならまだいいけど、座学となると……暗記競争なんて俺には向いてないんだよな」
「私、回復魔法ばかり練習してたから、座学とか本当に自信ないよ」
エリアーヌも肩を落とし、しくしく泣きそうな顔をする。
すると、ユイスが机を軽く叩いてみんなに声をかけた。
「聞いてくれ。座学のテストこそ、もしかしたら俺たちが点を稼げるチャンスかもしれない。暗記に頼らず、理詰めで解答する方法だってあるはずなんだ」
その言葉にクラスメイトが一斉に振り返る。トールが訝しげに首を傾げた。
「理詰めって……どういうことだ? 詠唱式を覚える以外にやり方があるのか?」
「うん。ある程度は覚えないといけないけど、術式の根本的な仕組みを分解して理解すれば、無闇に全部を暗記しなくても解法が導けるかもしれない。俺たちの数式理論を座学問題に応用すれば、答えが見えてくる可能性があるんだ」
ユイスはそう言って、自分のノートを開く。そこには火球術や治癒術の詠唱構成を“関数”のように分割して図示したメモが書かれている。
「例えば、詠唱Aと詠唱Bに共通する要素があるなら、それをまとめて暗記の負担を減らす。それぞれの差分を埋める形で記憶すれば、問題解決に必要な答えを推測できる……って感じかな」
「なるほど、同じ詠唱フレーズでも上位と下位で微妙な言い回しの違いが……」
エリアーヌも目を輝かせ、ページをめくる。
「これなら、全部覚えなくても本質を理解すれば答えが導ける……かも?」
「ふん、そんな上手くいくもんかね。貴族の連中は子どもの頃から膨大な詠唱を叩き込まれてるんだ。あれに勝てるとは思えないけど」
「勝つとかじゃなくて、少しでも成績を上げるためさ。もしここで全滅に近い点を取ったら、連中はますます俺たちを見下すだろうし……それこそ退学だなんだと騒ぎ出すかもしれない」
ユイスの口調が真剣味を帯びる。周囲が一瞬黙り込むなか、彼は深く息をついた。
「……先生がさっき言ってただろ? 保守派が俺らの成果を疑ってるって。だったら、今こそ示すときなんだと思う。俺たちがただの落ちこぼれじゃないって」
「このまま何もせずに負けっぱなしじゃ、私たちだって辛いもん。もしユイスの方法で何か掴めるなら、やってみたい」
「座学は苦手だけど……お前がそこまで言うなら、一度くらい本腰入れてみるか」
「私、商家で会計とか手伝ってたから、計算だけはそこそこ得意かも……。お役に立てるなら協力したいです」
最後にレオンが大きくため息をつく。
「仕方ないな。僕が参加しないと、また先生や貴族派にチクチク言われるだろうし。好きにはならないけど、とりあえずやるよ」
それでも彼の声の奥には、僅かな期待感が滲んでいる。地道に取り組めば、一矢報いることも不可能じゃない――そんな思いが小さく芽生えたのかもしれない。
◇◇◇
ホームルームが終わり、クラスメイトたちがちらほら席を立ち始めた頃、ユイスはノートを片手に自分の計画を確認していた。
「暗記すべきキーワードを減らすのが第一歩。そこから問題のパターンを演算式に落とし込む……うん、何とかなりそうだ」
すると、ドアのほうから気配を感じる。ちらっと見上げると、グレイサーが教室の外側で様子を覗いていた。
「先生……?」
ユイスが声をかけようとすると、グレイサーはあからさまにそっぽを向いて廊下へと消える。
「何しに来たんだろ……」
トールが不思議そうに首を傾げる。だがユイスは微かに笑みを返すだけだ。
(先生も、きっと期待してるのかもしれない。あの保守派の連中に、俺たちが結果を見せる姿を)
◇◇◇
廊下を歩くグレイサーは、ポケットに手を突っ込みながら小さく息を吐いた。やる気のない顔を装っているが、内心は落ち着かない。
「大丈夫かね、あいつら……」
けれど教室で感じた空気は決して悪くなかった。ユイスが仲間となんとか奮起しようとしている。あの曇りがちだったクラスに、わずかながら光が見える気がする。
「今はまだ、俺が表立って助けるわけにはいかないけどな」
彼は足を止めず、呟くように自分へ言い聞かせる。保守派が奨学金打ち切りをちらつかせている以上、教員である自分が手を貸せば余計に疑念を招きかねない。
それでも、心のどこかには期待がある。ユイスが数式理論を本当に活かせるなら、座学のテストで花開くかもしれない。
「死なない程度に頑張れよ……」
その言葉は廊下の空気に溶けていき、誰にも届かない。だがグレイサーの唇の端には、わずかながら苦味と同居する小さな笑みが浮かんでいた。
◇◇◇
翌日の問題児クラスは、やや浮き足立った雰囲気だった。テスト勉強の話題で持ちきりだ。普段は暗記に絶望するしかなかったトールたちも、「理屈で解けるなら少しはやりようがあるかも?」と活気を帯びてきた。
ユイスは自習の時間に何枚ものノートを広げ、クラスメイトを順番に呼んで説明を重ねる。
「トール、火球魔法の詠唱が苦手って言ってたよな? これは必要な行の一部が被ってるから、根幹は同じなんだ。ここを一つのブロックとして覚えれば……」
「なるほど、これとこれを合わせりゃいいのか」
「そう、だから暗記量が半分になる。余った分で違う魔法のキーワードを覚える余裕が出るはずだ」
ミレーヌにも、ユイスは淡々と助言を送る。
「もし計算が得意なら、詠唱問題でも似た構造を見つけて応用できる。この部分……分母みたいに扱って、それに対応する詠唱を乗せれば一気に答えに近づくと思う」
「確かに……商家でやる複式簿記みたいです。わあ、数字の感覚で覚えられるなら、私、意外とやれるかも」
エリアーヌは、ノートにびっしり書かれた回復術の式を見ながら、何度も頷く。
「ちょっと難しそうだけど、理論を理解してしまえば、うろ覚えでも応用が効くんだね。……これが数式理論かあ」
レオンは相変わらずぶっきらぼうながら、板書を写し取りつつ口元を動かす。
「ふうん、まぁ悪くない。でも、これって採点基準に合うわけ? 普通は“正解の呪文”を丸暗記しないと点が取れないんじゃないのか」
ユイスはペンを手に、黒板に簡単な図を描き足した。
「たしかに試験官がどう見るかはわからない。けど答えに辿り着く筋道が明確なら、記述式の問題である程度の点は取れるはずだ。保守派教師もそこまで無茶な採点はしない……と思いたいけどね」
その言葉にクラスメイトが苦笑し合う。無茶をするのが保守派だが、あまりにも露骨に点を奪われれば学園全体の信頼問題にもなりかねない。少しは公平に扱ってくれる可能性がある――そう信じたいのが本音だ。
◇◇◇
昼休み。教室を出て廊下へ向かうユイスの背中を追いかけるように、エリアーヌが足早に近づいてきた。
「ユイス、今ちょっといい?」
「うん、どうかした?」
「その……私、回復術の基礎理論が本当に苦手で、もしかしたらテスト対策に入る前に基本を整理したほうがいいと思うんだ。あなたがよければ、夜に倉庫かどこかで……ううん、図書館でもいい。もう一度、詠唱構造を見直す手伝いをしてくれないかな?」
彼女は不安げな面持ちだが、覚悟を決めているようにも見える。ユイスは笑みを返した。
「もちろんいいよ。俺も回復系はまだ深く研究しきれてないけど、一緒にやれば理解が進むと思う。夜なら図書館のほうが資料も多いだろうし、そこにしようか」
「うん、ありがとう。じゃあ、また後で声かけるね」
エリアーヌの頬がわずかにほころぶ。困難な試験への不安は拭えないが、仲間同士で教え合えばなんとか道が見えてくるかもしれない。
同じころ、トールは廊下の窓辺でレオンと肩を並べて立っていた。
「お前、本当はどう思ってんだ? ユイスの数式魔法とやらで、テストを乗り切れるって」
レオンが瞳を伏せながらボソリと返す。
「さあな。でも……何もしないまま“問題児クラスはクズ”って烙印押されるのは癪だろ?」
「それはそうだ。俺だって、家にいる弟妹に“学園で何をやってるんだ”って言われたくない。少なくとも今は、賭けてみる価値があるんじゃないかと思う」
「ふん、ちょっと意外だな。お前は全部投げ出すタイプだと思ってたが」
「うるせえな。お前だって本当は諦めたくないんだろ?」
二人はそっぽを向き合ったまま、それ以上の言葉を交わさない。だが視線の先には、近づく定期テストへの不安と、どこか懸命に動き出す意志が覗いていた。
◇◇◇
一方、グレイサーは教員用通路の一角で保守派教員とすれ違った。相手はにやりと嫌味な笑みを浮かべ、「次の試験、あの問題児クラスはどうなるかな?」と声をかけてくる。
「さあね。俺としては、彼らなりの努力を見守るだけですよ」
グレイサーは気のない調子で答えると、相手は冷笑を含んだまなざしを向けてきた。
「失敗すれば、奨学金が無駄になるだけですからね。特にユイス・アステリア? あれの成果が見られなければ、左遷がさらに進むのはあなた自身かもしれませんよ」
「ご忠告どーも。じゃ、失礼」
干渉を避けるように脇を通り過ぎ、ひとりになったところでグレイサーは眉をひそめる。いつかは来るだろうと思っていたが、これほど露骨に切り捨てムードを醸し始めたとは。
「ったく、どいつもこいつも……」
彼はポケットからコーヒー豆の小袋を取り出し、教員室に向かいながら呆れたように独りごちる。
「まぁ、ユイスたちの成長を信じるしかないか。死なない程度に、ギリギリ踏ん張ってくれりゃいいが」
◇◇◇
夕刻。問題児クラスの教室にはまだ数名が残っていた。エリアーヌは回復理論の本を手にしながら、ユイスと並んで机を囲んでいる。ミレーヌは隣の席で計算式のメモを取り、トールは“とりあえずすぐ手を動かすんだ”と呟きながら暗唱リストを一つずつ書き出していた。レオンは少し離れたところで斜に構えているが、耳だけはこちらを向いているようだ。
こうして、数日前までは“どうせ無理”と嘆くばかりだったメンバーが、小さな目標に向かって動き出している。
ユイスは黒板に魔法詠唱の基本構文を書き、さらにその下に式を付け加えた。
「じゃあ、まずはここ。暗記量を減らすテクニックをもう少し掘り下げよう――各人がどのぐらい覚えているかをリストにまとめて、かぶる部分とそうでない部分を区別しようか」
彼らの視線が次第に集中し、やる気が高まっていく。
窓の外には、夕日に染まった中庭が広がっている。学園の一角ではエリートクラスが優雅に帰寮する姿がちらりと見えるが、問題児クラスにそんな余裕はない。遅れを取り戻すために、今できることを全力でこなすのみ。
そしてユイスの胸には、ふとグレイサーの言葉が蘇る。
(“死なない程度に頑張れ”……あれが先生なりの応援なんだろう。保守派がどう出ようと、ここで結果を出さないと先に進めない。フィオナを失った悔しさも、俺が抱える復讐心も、形にするのはこういう一歩ずつの積み重ねだ)
「さあ、やろう。みんなで合格するんだ――問題児クラスって呼ばれるのが、少しはマシになるくらいに」
ユイスが力強く言葉を放つ。トールやエリアーヌ、ミレーヌ、そしてレオンもそれぞれの方法で頷いてみせた。
◇◇◇
こうして、定期テストに向けた小さな戦いが始まる。保守派教師たちの冷たい視線は日に日に強まり、ユイスやグレイサーへのプレッシャーも増していく。だが、それを阻むように問題児クラスの仲間たちは数式理論という新たな武器を試し、座学対策に没頭していくのだった。
夜になれば図書館に集い、古代術式や詠唱問題の演習を繰り返す光景が増えるだろう。夕闇に沈む学園で、ほんの小さなランプの灯火が問題児クラスの教室を照らし続ける。その光が次第に大きくなって、どこまで彼らを導くのか――




