12. 制御リング
夕暮れから夜へと移ろう学園の廊下を、ユイスたち問題児クラスの面々が足早に駆け抜ける。いつもなら講義が終われば寮へ直行するところだが、今夜は違う。閉館まであまり時間がない図書館へ、何とか駆け込もうという算段だった。
だが、その扉を目前にして、先頭を走っていたトールが立ち止まる。彼は普段、大きくて快活な声を響かせる青年だが、今はやや息を切らしながら振り返った。
「なあ、ユイス。もう図書館に行くだけじゃ足りないんじゃないか? 夜ぎりぎりまで本ばっかり見ても、実際に火を放って試せるのは次の実技演習の限られた時間だけだろ?」
その言葉には焦りと苛立ちが混ざっている。火力制御リングの改良に期待はしているものの、実際に魔法を放ってみる機会が少なく、成果が得られているのか漠然とした不安だけが膨らんでいるのだろう。
ユイスはトールを追い越さぬよう歩みを緩め、脇をすり抜けていこうとした。だがそこで足を止め、肩越しに言う。
「分かってる。図書館の閉館までに、もう少し術式を分割して動作を単純化できるか確かめたいんだ。明日の朝には工房を借りられそうだけど、実験設備が整ってるわけでもないし……」
「ユイスさん、あの……今日のうちに素材とか刻印の道具とか、また確認したいですよね? もしいま仕入れを増やすなら、私……ちょっと試算、してみました。ええと、今のところ火力制御リングに使われている精密な刻印部分が一番コストがかかっていて……」
そう言いながらミレーヌは小さな紙片を取り出す。そこには数字がぎっしり並び、仕入れの値段や卸値らしきものが細かく書き込まれている。まるで商家の帳簿を切り取ったような計算表だ。
トールが驚いた顔でその紙を覗き込む。
「へえ……こんなに細かいんだな。ミレーヌ、いつの間にこんな計算してたんだ?」
ミレーヌは慌ててうつむき、しきりに紙を胸に押し当てて照れを隠す。
「え、ええと……父の商売の手伝いを、小さい頃からさせられてて……原価とか手数料とか、見ればだいたい分かっちゃうんです。大したことじゃありません……」
「助かるよ」
その一言でミレーヌの目がわずかに潤み、たまらなく嬉しそうに微笑んだ。
そこに、エリアーヌが駆けてきて合流する。彼女の頬にはうっすら汗が浮いていて、すでに息が上がり気味だ。
「みんな、図書館……行かないの? もうあんまり時間、ないよ……」
エリアーヌの背後では、皮肉屋のレオンがいつもの気だるげな表情で首をかしげる。
「時間はないけど、僕たちはどうせ他に選択肢があるわけでもないだろ。追い出されるまで書物を読んで、それから実験場所を探すしかないってわけだ」
そう言うとレオンは短く息をつき、肩をすくめる。言葉の端々に投げやりな調子が混じるが、その目はどこか興味深げだ。
ユイスは一度、図書館の扉に手をかけようとしたが、何かを思いついたように視線を上げる。
「……いや、図書館へ行く前に担任の先生、グレイサーにちょっと掛け合ってみよう。夜間に使わせてもらえそうな場所がないか、聞く価値はあるかも。図書館で術式を考えるだけじゃ、実験がままならない」
レオンがわずかに眉を上げる。
「グレイサー先生か……あの人なら下手に干渉はしてこないけど、協力してくれるとは限らないだろう?」
「それでも、言ってみる価値はある」
「ま、好きにしろよ」
彼らは踵を返し、問題児クラスの教室へと向かった。講義終了後の薄暗い廊下を横切り、人気のない部屋へ足を踏み入れると、そこにうたた寝していたらしいグレイサーが机に足を乗せて眠りこけている。
「……先生?」
エリアーヌが遠慮がちに声をかけると、グレイサーは片目を開け、気だるそうに伸びをする。
「……今度はなんだ、こんな時間に。若い連中はいつ寝ているんだ?」
ユイスは意を決して進み出た。
「先生、夜間に使える実験場所を知りませんか? 僕たち、火力制御リングの改良を続けたいんです。図書館で術式をまとめるのはいいんですが、実際に炎魔法を撃って確かめないと分からない部分が多くて……」
グレイサーは面倒くさそうにコーヒーカップを探すしぐさをしながら首をひねった。
「夜間に炎魔法をぶっ放すとなれば、実技演習場は施錠中だろうな。あるとしたら……学園の北棟外れの倉庫だ。昔、使われていた訓練用の道具が置いてあるらしいが、今はほとんど誰も寄りつかない」
それはまさに望み通りの場所だったが、グレイサーは一応、念を押すように続ける。
「ただし、危険があっても学園上層部は責任を取らんぞ。自己責任でやるなら勝手にどうぞ。鍵はたぶん管理室で埃をかぶってる。お前たちがこっそり借りても、いちいち咎める奴もいないだろう」
ユイスは一礼する。
「ありがとうございます。自己責任で構いません。少しずつリングの改良を試したいんです」
「まあ、ほどほどにしろ。燃やし尽くして火事でも起こされたら迷惑だからな」
グレイサーは口調こそ素っ気ないが、その表情には「行ってこい」と言わんばかりの空気が漂っている。問題児クラスの面々は黙ってそれを感じ取り、結局、鍵を得るため管理室へ立ち寄り、北の倉庫を借りる段取りを済ませた。
◇◇◇
倉庫は学園敷地の奥にあった。夜の帳が落ちた頃、薄暗い外灯の下を五人の姿が静かに歩いていく。扉に重い錠がかかっていたが、古めかしい鍵を回すと意外にもあっさり開く。埃臭い木箱や壊れた盾、古い練習用の魔法標的などが散乱した空間に、乾いた空気が漂っていた。
「まさかこんな場所が残ってるとはな……」
レオンがため息まじりに呟き、トールは放り出されていた木箱を苦労して動かして、どうにか狭いながらも魔法を試せるスペースを作り出す。ミレーヌとエリアーヌがそれを手伝い、辺りには軽く埃が舞う。
ランタンを置いて灯りを確保すると、ユイスが自作のノートを膝に抱えて、火力制御リングを取り出した。
「刻印を少し追加したんだ。ここの術式を二つに分割して、それぞれ別の魔力回路を通るようにした。もしうまくいけば、炎魔法の出力安定がもう少し良くなるはずなんだけど」
トールは大きく息を整え、「じゃあ試してみるか」とリングを指にはめる。今回の改良で細かい紋様が追加され、以前より複雑な造りになっていた。
「頼むから暴走しないでくれよ……」
レオンが壁際でぼそりと呟く。エリアーヌは少し離れてハラハラと見守り、ミレーヌは「ちゃんと燃えるものを整理した方がいいかも」と周囲を慌ただしく片付ける。
トールは舌打ちしかけた表情をこらえ、手を前にかざして集中する。
「じゃあ、いくぞ。――‘炎よ、球となりて姿を示せ’」
これまでに何度も失敗してきた火球。しかし今度は、巨大な火柱にならず、ほどほどの大きさの炎がトールの掌に留まった。わずかに揺らぐものの、急激に暴走する気配はない。
「……すげえ」
トール自身が息を呑んだまま、それを見つめる。かつては大きく拡張しすぎてしまう火球も、今のところ安定を保っていた。ゆっくりと腕を振ると、火球が木箱の残骸をめがけて放たれ、ぶわっと燃え盛る音が倉庫の壁に響く。暴走は起きず、混乱もない。
エリアーヌが思わず拍手した。
「すごい、トール、前よりずっと安定してる……!」
ミレーヌも息をつきながら微笑む。
「これなら、だいぶ怖くないですね」
トールは困惑混じりの笑顔で掌を見つめる。
「ちょっと手が熱いけど、以前みたいにバーンと大きく弾ける感じがなくなった。おおお、すげえ、こんなの初めてだ」
レオンがわずかに手を叩く。
「へえ、進歩したんじゃないか。少なくとも前みたいに壁に穴を開けるような火柱じゃない。俺の睡眠を妨害せずに済むなら上出来だろ」
その皮肉めいた称賛に、トールは苦笑し、エリアーヌとミレーヌはほっとした笑みを浮かべる。
ユイスは少し離れた場所からそれを見つめていた。素直に嬉しいが、表情はどこか硬い。彼はノートを開き、今回分割した術式の配置部分をペンでなぞりながら、小声で自問するようにつぶやく。
「まだ余計な魔力ロスがある。それに出力の上下動も減りきってない……もっと確実に安定化するには、さらに仕組みを見直さないと……」
彼の目にはわずかな焦りが宿っていた。トールの制御成功は確かに大きな一歩だが、まだいくつもの改善の余地を残している。そんな感覚が、ユイスの胸をわずかに締めつけていた。
気付けば周囲の仲間たちは、倉庫に放置されている別の標的を試し始め、「いっそもう一発撃とう」「消火の用意もしないと」とにぎやかになっている。ミレーヌは仕入れコストのメモを指で追い、エリアーヌは「焦らないでね」と何度もトールに声をかけ、レオンは壁にもたれかかりながら炎の弾道を静かに観察している。
ユイスはその光景を視界の端に映しつつ、一人ノートに向かい合う。改良が進んでいるのは喜ばしいが、完成には遠い。筆を走らせながら何度も回路図を思い浮かべ、この先の可能性を模索していた。
「もっと術式を分割できないか? ロスの発生を抑えられる回路の組み方は……」
そんな彼の耳に、トールの弾んだ声が飛び込んでくる。
「おい、ユイス、もう一回やってみてもいいか? ちょっと大きめの火球を放りたい!」
「やってみて。少し大きい魔力を乗せれば、中盤でどう変化するか分かりやすいから」
「任せろ!」
トールは嬉々として腕を振り上げる。再び掌に集まった炎は先ほどよりやや大きく揺らめくが、何とか収まっている。彼がタイミングを合わせて遠くの標的へ放つと、今度は火球の中で何かが弾けそうになり、勢いがやや乱れた。しかし一瞬の踏みとどまりによって暴走は起きず、代わりに火球が途中で縮んでしまう。
「あれ、急に萎んだ?」
ミレーヌが首をかしげる。ユイスは観察を続け、ノートにさっと記入した。
「術式分割の干渉が残ってるのかもしれないな。火球の途中で魔力が抜けてる感じがある。詠唱のリズムも影響しそうだ」
「でも前よりは危なくないよ!」
「まあ、安全な分、威力は控えめ、ってとこか……もっと鍛えれば何とかなるよな?」
「うん、何とかなる」
ユイスは短く答え、ノートに視線を戻す。
「もし材料をもっと手頃に入手できれば、今の改良案をさらに試作できるかもしれない。そしたら干渉の原因も細かく潰せる。……ミレーヌの計算が活きるな」
「私、もう一回計算してみますね」
ミレーヌが紙を見ながらさらなる仕入れ方法を検討し、エリアーヌはトールの袖をつまんで「焦らずね」と声をかける。レオンは壁に寄りかかったまま小さく息をつき、しかし火球の動きには興味深そうに目を細める。
ぎこちなくも、確実に成果は積み上がっている。ユイスはそれを実感しつつ、心の中で小さく呟いた。
「今はまだ途中段階だけど……このリングを仕上げれば、俺たちでも十分にやれる――はずだ」
仲間たちの声を背中に感じながら、ユイスは制御リングを手に取る。指先に刻まれた刻印が、ごく微かに冷たく輝いている。
何度失敗しても、何度でも作り直せばいい。そう思えるのは、ここにいるクラスメイトたちのおかげだ。
やがてランタンの明かりが心許なくなり、時計代わりの魔道具が門限の時刻を示す。五人は名残惜しそうに倉庫を後にする。半ば焼け焦げた板きれの匂いと、微妙に立ちこめる煙の残り香を背に、短く片付けを済ませて倉庫に鍵をかけた。
「門限まで走るぞ!」トールが声を上げ、レオンが「仕方ないな」と後ろにつく。ミレーヌとエリアーヌも慌てて物を抱え直し、ユイスはノートを抱きしめるように持って、足早に倉庫を後にした。
夜の学園敷地を駆け抜ける彼らの胸には、今日得たわずかな成功と、数えきれないほどの未解決課題とが混在している。それでも、先ほどの実験で得た感触に嘘はない――火力制御の改良は確かに進んでいるのだ。
「明日はさらに術式を見直して、もう少し安定度を上げよう。素材が確保できたら刻印も増やして……」
ユイスがそんなことを思い巡らせるうち、彼らは夜風の冷たさも厭わず、寮の門扉へと到着する。ささやかな前進が、次の改良に向けての大きな意欲へと変わろうとしていた。
周囲の嘲笑はまだ消えない。けれど仲間たちがいれば、夜の倉庫での実験を積み重ね、少しずつ上へ向かう道も開けるだろう。ユイスは心の内で拳を握る。
「もっと最適化して、より安定した火力制御を……必ずものにしてみせる」
そう静かに誓いを込め、彼らはぎりぎり門限に間に合う形で寮へと消えていった。




