2. 忍び寄る影
朝焼けに染まる空の下、村の家々から薄い煙が立ち上り始めた。穏やかだった昨日と変わらぬ光景に見えるが、一方でユイスの心はどこかざわついていた。今日もフィオナと一緒に川へ行く約束をしている。けれども、朝早くから外で遊ぶはずのフィオナが、まだ姿を見せないのだ。
ユイスは自分の家から歩いて数分のところにあるフィオナの家を訪ねる。木製の簡素な扉をノックすると、中からしわがれたおばあさんの声がした。フィオナの祖母だった。年季の入った木の床がきしむ音を聞きながら家の中へ入ると、台所の隅に置かれたベッドでフィオナが横になっているのが見える。いつもは生き生きとしている彼女がぐったりしている様子に、ユイスは思わず足を止めた。
「ごめんね、ユイス……朝からあんまり調子が良くなくて」
フィオナはかすれた声で言う。頬が少し赤く、額にうっすらと汗が浮いていた。声には覇気がなく、言葉を発するたびに苦しげに咳き込む。
「どうしたの……? 昨日はあんなに元気だったのに」
ユイスはベッドのそばに膝をつき、フィオナの顔をのぞき込む。川辺で笑い合っていた姿がやけに遠いものに感じられた。彼女は申し訳なさそうに目を伏せる。
「ちょっと風邪みたい。でも、おばあちゃんがお湯で湿布を作ってくれたし、もう少し休めば治るって……。だから、今日はごめんね。川へ行くのは無理かも」
「しばらく静養させてやってくれ」
年を重ねた手つきで布巾を水に浸し、そっとフィオナの額を冷やす。いかにも庶民的な手当であり、魔力による治癒などは見られない。この村で使える医療手段は、せいぜいハーブを煎じて飲むか、おまじないに頼る程度だ。
「大丈夫、僕は別に……」
ユイスは言葉を探しながら、フィオナの汗ばんだ額に視線を落とした。村で風邪をひくこと自体は珍しくないが、フィオナがこんなにも辛そうにしているのを見るのは初めてだ。自分に何かできることがあるならば、なんでもやりたいと思う。しかしその気持ちは空回りし、どうすればいいかわからないまま唇を噛んだ。
フィオナはかすかに微笑もうとしたが、咳と一緒に苦しげな息が漏れる。彼女はそのまま目を閉じ、「ごめんね、少し眠りたい……」とか細い声で呟いた。ユイスはその声に返事をすることもできず、立ち上がる。フィオナの祖母が申し訳なさそうに頭を下げ、気遣わしげにユイスを見送った。
外へ出ると、村の朝の光景はいつも通りだ。麦畑の向こうで、農作業を始めた人たちの声が飛び交い、馬車を押す車輪の軋みがかすかに聞こえてくる。けれどユイスにとって、それらはまるで遠い世界の音に思えた。フィオナの家を出る間際に聞こえた咳き込みが頭から離れず、胸が締め付けられる。
「ただの風邪、だよな……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、ユイスは家へと戻った。その日一日、彼は家の雑事をこなしながらも落ち着かず、何度かフィオナの家を覗きに行こうとした。しかし、祖母からは「ゆっくり寝かせておいてやってほしい」と止められる。結果、気がそぞろなまま日が暮れてしまった。
翌朝、ユイスが早めにフィオナの家を訪れると、状況は良くなっていないどころか、むしろ悪化しているのが一目瞭然だった。彼女は声を出すだけでひどい咳き込みに襲われ、浅く速い呼吸を繰り返している。額に手を当ててみると、高熱で肌が熱を帯びていた。
祖母は焦燥を滲ませながら、ハーブの煎じ薬の用意をすすめる。家の棚や壺をあれこれ探し回っては、くしゃりと乾燥した葉を湯に投入し、不安そうに煮立つ鍋を見つめていた。
「どうにかして、フィオナを良くしてやりたいんだけど……村に医者は来てくれないし。少し熱さましの作用がある草なら、わしも知ってはいるが、これが効かなかったら……」
苦い顔でそう零す祖母の言葉に、ユイスは胸の奥がこわばるのを感じる。
村の中には大した医療手段がない。優秀な神官や医療魔法の使い手は、王都や裕福な領地に多く雇われていて、この辺境の村にやってくることは滅多にない。郷土の伝承や民間療法で凌ぐのが精一杯というのが現実だ。ユイスはフィオナの手を握り、彼女が少しでも楽になるよう願った。だが、願うだけで状況は変わらない。
彼女の熱は下がる様子を見せず、三日も経つ頃には村人たちも心配顔を隠せなくなった。もともとフィオナは元気印の少女だっただけに、「どうしてこんな急に」という嘆きの声があちこちから上がる。
そのころには、フィオナはベッドから起き上がるどころか、会話をするのさえ苦しそうになっていた。息をするたびに肩が上下し、その合間に刻まれる咳の音が、小さな家の中を重く包み込む。
そんな状況を見かねて、村長フォードが動き出す。フィオナの祖母はもちろん、何人かの村人を交えて話し合いを行い、「どうにか領主カーデル様に医療魔法の許可を願い出よう」という話になったのだ。
本来であれば、貴族が庶民の治療費を負担することは稀だ。しかし、この村はカーデルの領地に属している以上、フィオナの命に関わる事態だと示せば、一時的にでも医者か医療魔法を差し向けてもらえるかもしれない。少なくとも、許可だけでも降りれば費用を工面する道もある。
村長の家で簡単な打ち合わせを終えた後、ユイスはフォードに食い気味に言った。
「僕も行かせてください。領主様に直談判して、フィオナの病気を治す方法を……」
その目は強い決意を帯びているが、フォードは小さく首を振った。
「いや、子どもを連れていくわけにはいかない。領主様の前で失言でもしたら、それこそ何を言われるかわからんぞ」
「でも……!」
ユイスは言葉に詰まる。確かに、貴族が自分たち庶民をどう思っているかを考えれば、相手を刺激しかねない行動はできるだけ控えるのが得策だとわかっている。しかし、フィオナの命がかかっているのに、ただ大人の判断に任せていいのかと胸がざわついた。
「すまないが、待っていてくれ。わしもできるだけのことはする。できれば今日中に領主邸へ行って話をするつもりだ」
フォードはそう言って帽子を被り直し、村の有志数名と馬車で領主の館を目指す準備を始める。ユイスはやりきれない思いで、去っていく村長の背中を見送った。
やがて、村長一行は半日ほど経ってから戻ってきた。領主邸は村からそれほど遠くはないが、大貴族のような大きな屋敷ではなく、堅固な門と石造りの壁に囲まれたロートレイン伯爵家の私邸だと言われている。半日あれば往復できる距離だった。
だが、村長たちの表情は重く、どこかうなだれていた。ユイスはすぐさまフォードに駆け寄る。
「話は……どうなりましたか?」
フォードはため息混じりに首を振る。
「領主カーデル様には会えたが、“庶民の治療に使う医療魔法は費用対効果に見合わぬ”と……。何を言っても取り合ってもらえなかった」
そう呟くフォードの声は、悔しさや苛立ちよりも、虚脱感に近い響きを帯びていた。となりにいた村人たちも同じように目を伏せている。領主の豪奢な応接室で冷たくあしらわれたのか、あるいは門前払いに近い扱いを受けたのか。詳細は語らないまま、彼らの口は重く閉ざされていた。
「そんな……どうして、フィオナは今にも……」
ユイスは思わず口を押さえる。こんな簡単な治療すらできないのか――王都に行けば医療魔法の使い手がいて、きっと助けてもらえるはずなのに。なぜそれが認められない。
頭の奥で、悔しさが真っ赤に燃え広がる。けれど、この村にいる誰もが、その怒りの矛先をどこへ向けるべきか分からないまま立ち尽くしていた。領主への反発など許されるはずもなく、嘆いてもどうにもならない現実だけが突きつけられる。
「ねえ、お金を出せばいいってわけでも、ないの……?」
横で村人の一人が弱々しく呟く。フォードは首を振った。
「“許可なしに医療魔法を使うのは規則違反”だとな。要するに、魔力の扱いに厳しいギルド規約もあり、勝手な治療行為は重い罪になるらしい。金の問題だけではないんだろう」
搾り出すような声でそう説明し、フォードはゆっくりと村長の家へ歩き出す。ユイスが追いかけようとしたとき、フォードは振り返った。
「医師に来てもらえれば万に一つの望みはある。しかし領主の反対を押し切ることなど……。すまないが、しばらくはハーブや民間の知恵を信じるしかない」
それだけ言うと、肩を落として中へ消えていった。
悔しさで声も出なかった。ユイスはしばらく足を止めたまま、荒い呼吸を抑えるように胸を押さえる。領主カーデルという男は、結局“費用対効果”で人の命を計ってしまうのか。フィオナを助けることが“無駄”だと切り捨てられたという事実に、体の内側が震える。怒りに任せて何かを壊してしまいたくなるが、それでフィオナが救われるわけでもない。思考は堂々巡りを繰り返し、出口のない灰色の迷路へ迷い込む。
その日からさらに数日、フィオナの家を訪れるユイスの足取りは、どんどん重くなっていった。彼女の症状は悪化の一途をたどり、熱と咳で顔色は青白く、息も苦しげだ。あまり口を開けず、開いても声にならない吐息ばかり。祖母が煎じ薬を何種類も試しているが、目立った快方の兆しはない。
「あ……ユイス……」
フィオナが血の気の失せた唇をかすかに動かす。ユイスは床に膝をつき、ベッドの枕元へ耳を近づけた。すると、微弱な声が聞こえる。
「……明日も……川に、行きたい……」
かすれた声でそうつぶやく彼女に、ユイスは必死で微笑もうとするが、うまく笑顔になれない。熱にうかされた瞳の奥には、微かな願いがまだ残っているのだろう。彼女は、またあの川で遊べる日が来ると、無邪気に信じたいのかもしれない。
「……行こう、ね? 絶対……行ける、よね……?」
フィオナのまぶたは閉じたり開いたりを繰り返す。ユイスは何も言えず、彼女の手をぎゅっと握った。冷や汗に濡れた手のひらは、小刻みに震えている。外では夕方の鐘が鳴り、村人たちが畑仕事を終えて家路に急ぐ気配がある。そんな日常の音が、この部屋の中ではまるで遠い世界のもののようだった。
「明日、様子を見て……具合がよくなったら行こう。今は、ちゃんと休まなきゃ……」
声が震えないよう、ユイスはゆっくりと言葉を選ぶ。フィオナはうっすらと笑いかけるように唇を動かすが、ほとんど力のないまま再び目を閉じた。彼女が落ち着いて眠りについたのを見届け、ユイスはにじむ視界をこすりながら部屋を出る。
家を出たあと、ユイスは視線を村の外れへ向けた。カーデルの領主邸があるのはあちらの方角。もし自分にもっと力があったなら、こんな不条理に立ち向かえただろうか。幼いながら、自分は無力でしかないという現実に何度も心を突き刺される。フィオナが弱っていく姿に何もできず、ただ願い、ただ嘆き、歯がゆさと怒りで頭がいっぱいになる。
夜になり、村の家々が早々に灯りを消していく頃、ユイスは自分の部屋の片隅でじっと膝を抱えていた。そっと取り出したのは、フィオナが以前作ってくれた小さな刺繍入りのお守り。草花の文様が下手な縫い目で綴られた素朴な品だが、彼にとってはなにより大切な宝物だった。手のひらでそれを握りしめながら、頭の中で何度も問う。
“どうして、こんな簡単な治療すら受けられない? 魔法があれば、一瞬で熱を下げたり呼吸を楽にしたりできるんじゃないのか。なぜフィオナはこんなにも苦しんでいるのに、誰も救ってくれないのか。”
答えは明白だ。庶民が医療魔法を受けるには、領主の許可が要る。だがそれを認めてもらえなかった。今のユイスがいくら足掻いたところで、貴族のシステムはびくともしない。何もしてやれない自分に苛立ちを覚え、知らず拳を強く握る。指先に温かい痛みが走り、お守りの端が少し破れた。思わず力を緩め、震える息を吐く。
部屋の窓から見上げた夜空は、月が雲にかくれてぼんやりした明かりしか差さない。かすかな月光で照らされる村の様子は静かだが、ユイスの心は嵐のように乱れていた。
フィオナが日に日に衰弱していく姿は、まるで大切な灯火が風に煽られて消えかけているかのようだ。
「大丈夫……明日は、何か方法が見つかるかもしれない……」
自分に言い聞かせるようにつぶやくが、その声は自信のかけらもないほど弱々しい。胸の中の苦しさが募り、いつの間にかまぶたが熱くなる。
そのままユイスは何度も夜空を見上げ、しばらく動けずにいた。月の光が雲の合間から顔を覗かせるたびに、フィオナと交わした「いつか一緒に魔術学園へ行こう」という約束が脳裏をよぎる。なぜこんなところで立ち止まらなければならないのだろう。
答えは得られないまま、夜は深まっていく。
翌朝、空が白み始めたころ、フィオナの家から小さな悲鳴のような声が上がった。村の人々が「何事だ」と駆け寄ると、フィオナの祖母が青ざめた顔で立ち尽くしている。フィオナが高熱にうなされ、荒い呼吸を繰り返しており、軽い意識混濁の状態だという。
ハーブの煎じ薬も、祈りにも似たおまじないも、最早まるで効き目を示さない。
ベッドの傍らで必死にタオルを絞り、フィオナの体を冷やす祖母。だが何度水を換えても、彼女の体温は下がるどころか上がり続けているようだ。ユイスは祖母の指示を受け、藁をもすがる思いで湿布を取り替えたり、村から少し離れた草地に薬草を探しに行ったり、懸命に動き回る。しかし、フィオナの様子に快方の兆しはない。
「ああ、フィオナ……」
祖母の低い嘆きに、ユイスは何も返せず、震える手でフィオナの腕をさすり続ける。少女の呼吸はどんどん浅くなり、意識が遠のいているのがわかる。隣家から駆けつけた人々も、何をしたらいいのか、ただオロオロと見守るしかない。領主邸へもう一度行こうという声も上がったが、村長フォードに言わせれば「絶対に門前払いをされるだけだ」と暗い顔で呟くばかり。
フィオナのまぶたがかすかに開く。そこには潤んだ瞳が映り、か細い息の合間に唇が少しだけ動く。
「ユイス……やくそく……また、川で……」
そう聞こえた瞬間、ユイスは苦しげに目を伏せた。この手の中の命が、わずかな希望に縋るようにしている。そしてそれに応えられない自分がいる。怒りと悔しさが渦巻き、どうしようもない感情が込み上げるが、胸の奥で燃え盛っているだけで何ひとつ外へ吐き出せない。
「明日……は……良く、なるから……」
かすれる声でそう言ったフィオナは、再び意識を失うようにまぶたを閉じてしまう。村の人々も祖母も、それを必死に呼び止めるように名前を呼ぶ。ユイスは手を離すことなどできず、ただ息を飲んで天井を見つめた。
外はいつの間にか夕闇が迫っている。今日もまた日が落ちる。フィオナの容体は回復の見通しが立たぬまま、危うい炎を残して揺れ続けている。どこかでカラスが一声鳴いたような気がした。
部屋の空気は薄闇に包まれ、少女のかすかな呼吸音だけが、かろうじて生と死の境をつないでいるかのようだった。
ユイスはその音を耳に焼きつけるようにして聞きながら、ぎりぎりと唇を噛みしめる。
“こんな目に遭うなんて、おかしい。命が失われそうなのに、なぜ助けの手が届かない?”
心の内側で問いかける声は、やがてゆっくりと怒りへ変わっていく。
そこに救いを見出せないまま、フィオナの小さな息づかいを見守り続けるしかない夜が、今また幕を下ろそうとしていた。
部屋の隅には、水を張った桶と冷えきったハーブ茶の残滓が置かれている。手の施しようがないことを、誰もが薄々感じ始めている――だが、それを口に出す者は一人もいなかった。