10. 特別講義
朝の鐘が鳴る。
まだ薄暗い校舎の廊下を、ユイス・アステリアはノートを脇に抱えながら歩いていた。昨夜の図書館での出来事が頭から離れず、気持ちの整理がついていない。リュディアのあの表情と言葉。互いにトゲのある態度で接し、司書に注意されて終わってしまった。
「……考えても仕方がない」
声には出さず、少し唇を噛んで自分を戒める。今は研究と授業をこなすことが最優先だ、と。
問題児クラスの教室に入ると、トールやミレーヌ、エリアーヌが早くも机を囲んでいた。レオンは窓辺の席でぼんやりと外を見ている。
「おはよう。昨日は遅くまで図書館にいたんだろ?」
トールが振り返り、相変わらず元気のいい声を落とし気味に控える。保守派教師から「問題児クラスは騒ぐな」と言われているのか、少し遠慮があるようだ。
ユイスは軽くうなずいた。
「なかなか欲しい資料が見つからなかった。閉館前ギリギリまで残っても収穫は薄い。やっぱり禁書コーナーとか、貴族向けの文献にしか載ってないんだろうな」
エリアーヌは心配そうに微笑む。
「でも、夜遅くまで大丈夫? 体を壊したら研究も続けられないよ」
「うん、ありがとう。ちゃんと寝るようにする」
形だけの答えになったが、それ以上エリアーヌに甘えるのは気恥ずかしい。彼女は慌てて自分の髪を撫でつけ、「そ、そうだよね」と落ち着かなげだ。
その時、廊下から教師たちの話し声が聞こえてくる。しばらくしてグレイサーが教室に入り、コーヒーカップを片手に不機嫌そうに息を吐いた。
「お前たち、朝からよく集まってるな。さて――学園からのお知らせだ。大講堂で特別講義があるらしい。血統魔法の歴史だとか、保守派の教師が得意気に語るんじゃないか?」
トールが「なんだよ、それ…」とぼやく。ミレーヌはふと首をかしげ、「特別講義って誰でも参加できるの?」とつぶやいた。グレイサーは鼻先で笑う。
「希望者は自由に行っていいそうだ。どうせ貴族のエリートどもが血統魔法を誇示するんだろうが…好きにしろ。欠席しても咎められんが、興味があるなら行ってみるのも手だな。知識はあって損はしない」
ユイスはその言葉に反応する。
「行きたいです」
トールも意外そうに口を開く。
「え、興味あるのか? 血統魔法の自慢ばっかり聞くとか、俺は気が乗らねぇけど」
「でも、彼らがどういう仕組みで魔力を高めてるかを知るのは大事だ。結局、数式理論と血統魔法、どっちがどう優れているか見極めないと。相手の術式を知らずに文句だけ言ったって始まらないから」
少しだけ語気を強めたユイスに、エリアーヌとミレーヌが「たしかに…」と納得しかける。レオンは窓際で皮肉げに肩をすくめた。
「どうせ講義なんて金と家名がある連中のための宣伝だろうけどな。ま、退屈しのぎにはなるかな」
グレイサーはコーヒーをすすって、机の角に腰掛ける。
「僕からは強制しないが、お前らみたいに魔力量が低い連中こそ、貴族が何を大事にしてるのか知っておいた方が得だろう。うまく立ち回るのも処世術だ」
彼はそう言うと、おもむろに教室を見回し、「行くならさっさと支度しろ」とだけ言い残して廊下へ消えた。
――数時間後、特別講義が始まる直前。学園の大講堂には高い天井と豪華な装飾が施され、エリートクラスや一般クラスの貴族たちが中心となって席を埋め始めている。
ユイスたち問題児クラスも遠慮がちに後方の隅へと腰を下ろした。周囲にはトールやミレーヌ、エリアーヌ、それにレオンが並ぶ。視線を向けると、前の方の席にはリュディアの姿がある。同じ上位クラスの友人だろうか、何人かと言葉を交わしているが、彼女がちらりとこちらに気づいたのがわかる。
ユイスはさっと目をそらす。昨日の夜、図書館で口論になったばかりだ。彼女も一瞬だけこちらを見たようだが、再び仲間の方へ向き直ってしまった。
「なんだ、あの人。ケンカでもしたの?」
トールが冗談まじりに小声で尋ねてくる。ユイスは苦笑するしかない。ミレーヌとエリアーヌもリュディアを見るが、あちらは気づかないふりを決め込んでいるようだった。
ほどなくして、講義の担当らしき教師が壇上に現れた。保守派の古株らしく、ひどく貴族的な雰囲気をまとっている。
「えー、皆さんお集まりいただきありがとうございます。本日の特別講義は、“血統魔法の歴史と理論”について。私の名はラウシェル。長年エリートクラスの魔法史を担当してきました」
その教師――ラウシェルは胸を張り、得意げな表情を浮かべている。会場の貴族学生たちはうんうんとうなずき、問題児クラスの生徒とは違った穏やかな空気だ。
ラウシェルは大きな魔法図譜の巻物を広げる。そこには古めかしい紋章や術式がいくつも描かれていた。
「まず血統魔法の本質は、先祖が築いた儀式と紋章にあります。その家に伝わる魔力の流れを正しく刻むことで大幅なブーストが得られ、凡百の一般魔法とは違う威力を発揮するのです」
そう言って、華やかなエリート魔法の由来をつぶさに解説し始める。貴族学生たちは熱心にメモを取っているが、ユイスは内心で違和感を覚える。――ほとんど儀式の暗記と血統の強調ばかりだ。
「魔力量が高いほどその恩恵が増幅され、上位貴族ほど強大な魔法を扱える。これこそが我がアルステール王国が誇る血統制システムの礎。すなわち魔力と地位が密接に結びつくことで、秩序が保たれているのです」
ラウシェルの言葉に、エリートクラスの学生が満足そうに頷く。問題児クラスの席では、トールがあくびをかみ殺し、エリアーヌが萎縮しながらノートを取っている。
ユイスはノートを開き、そっとメモを取りながら頭の中で考える。
(暗記と儀式か…。形だけなら省ける要素も多いはずだ。それをあえて削らない理由はなぜ? 疑問をぶつけても、今は聞き入れられないだろうけど)
手元に書いた数式理論の断片を見返し、今の講義内容を照らし合わせる。血統魔法が受け継ぐ膨大な呪文や儀式には、確かに無駄が多すぎるとしか思えない。だが、それこそが「格式」や「家名の証」なのだろう。
と、その時、壇上のラウシェルが「何か質問のある者は?」と問いかける。前方に陣取るエリートクラスの生徒たちがすぐ手を挙げた。
「グランシス家の伝承儀式では、どのように炎魔法を最大化すれば…」
ギルフォードの取り巻きらしい貴族学生が、ほとんど内輪話の延長のような質問をしている。ラウシェルが笑みを深めながら彼らだけに有益な情報を語ると、前方は賛同と喜びの声に包まれる。
ユイスは奥歯をかみしめた。これでは「血統がある者だけが強い魔法を使えて当然」という流れにしかならない。自分の数式理論は根本的に否定されるだろう。
思わずユイスは小さく呟いた。
「……儀式を簡略化する方法とか、考えないのかな。無駄が多すぎるのに」
そのつぶやきがすぐ近くに座っていた生徒の耳に届いたらしい。ちらりとこちらを見て鼻で笑う。
「簡略化? 血統の荘厳な儀式を削るなんてあり得ないだろ。何を言ってるんだか」
小馬鹿にするような低い声に、ユイスは視線をそむける。自分の意見をこの場で主張しても、今は意味がないと悟った。
講義はさらに血統魔力の優位性を強調していく。最後にラウシェルは言い切った。
「結局、魔力が高く、正統な術式を受け継いだ者こそが、この国を支えているのです。庶民や下位の者には一般魔法があろうと火力や範囲が限られ、わずかに補助程度に使えるだけのこと。――以上です。これが貴族社会を構成する大いなる力の伝統、血統魔法の理論と歴史の要点となります」
大講堂に散発的な拍手が起こる。ユイスはまるで冷たい水を浴びせられたような感覚で、ノートを閉じた。――ここに自分の数式理論が入り込む余地は今のところ見えない。
「なあ、ユイス…なんかすごくモヤモヤしねえか?」
トールが肩をすくめる。周囲を見渡すと、ミレーヌやエリアーヌも気を張り詰めていた面持ちから、ため息交じりにうなずく。
やがて「では、終了」とラウシェルが宣言し、生徒たちは思い思いに立ち上がり始めた。ユイスたちは出口へ向かって歩く。途中で後方の席だったエリート生たちがこちらを見て失笑している気配を感じたが、無視するしかない。
――その時、すれ違いざまにリュディアが一瞬だけ横を通り過ぎた。ユイスは気まずそうに目を伏せる。すると彼女はごく小さな声で、
「さっきの、削れないのかって話…少し興味深かったわ」
そう呟いたかと思うと、すぐ仲間たちの方へ加わり、姿を消す。ユイスは面食らったまま踏みとどまる。背後でトールが苦笑していた。
「…意外とあの伯爵令嬢、お前と話が合うかもな」
「……さあ。あんな言い方されても、どう受け止めていいか…」
エリートクラスの生徒でありながら、母が平民出身――そんな事情をユイスは以前にリュディア本人から直接聞いたことはないが、小耳に挟んだことはある。もしかすると、血統魔法一辺倒の社会に疑問を感じているのかもしれない。
考えれば考えるほど、昨日の図書館での衝突がよみがえり、胸がざわつく。
やがて大講堂を出ると、やるせない表情のミレーヌが口を開いた。
「結局、血統魔法が偉いってだけの話だったね。あれ、私たちが聞いてもどうしようもないんじゃ…」
トールが吐き捨てるように言う。
「こういうのが貴族のやり方なんだよ。自分たちの優位を堂々と主張して、それが当然って面をする」
エリアーヌはいつものように少し弱気だ。
「でも…知らないままよりは、多少は役立つかも。血統の手順とか、私には全然縁がないけど…」
ユイスは皆を見回したあと、小さく息をつく。
「まあ、あれはあれで彼らの本音が聞けたというか。文献だけじゃわからない雰囲気も感じられた。それに、敵のことを知るのは大事だと思うんだ」
レオンが退屈そうにあくびをして、鼻を鳴らす。
「へえ、そこまで熱心に考えてるわけ。まあ俺には関係ないが。今回の講義はただの貴族自慢だったな」
「でも、数式理論を広めたいなら、ああいう保守派の在り方をよく知る必要がある。どうせすぐには認められないだろうけど、議論の余地が見つかるかもしれない。リュディアも、ほんの少し興味を持ってくれたみたいだし」
そう言いながらも、ユイスの胸には大きな不安が渦巻いていた。血統主義という巨大な壁。しかも、昨夜の図書館での衝突が尾を引いており、リュディアがどう思っているのかもわからない。
けれど同時に、小さな手がかりがある気がした。血統魔法の理論がいかに保守的でも、彼らの儀式や術式をうまく数式化すれば、無駄を省ける可能性だってある。もし自分がそれを証明できたなら――。
「……ま、ひとまず帰ろうか。いろいろ整理したいこともあるし。明日からの授業に備えてな」
ユイスが皆を促すと、トールたちは軽くうなずいて肩をすくめる。エリアーヌは気を取り直したように微笑み、「じゃ、食堂でお昼…」とみんなを誘った。ミレーヌも「ほっとしたらお腹が空いた」と笑顔を見せる。レオンだけは沈黙のままだが、ついて来る気配はある。
大講堂の扉を抜け、彼らは学園の廊下を歩き始めた。ユイスはほんの一瞬だけ後ろを振り返り、リュディアの姿を探すが見当たらない。内心でわずかな後悔と期待が混ざったまま、そこから目を離す。
(いつか数式魔法で、みんなを驚かせたい。血統主義のむなしさを突き崩すには、それしかない)
重い扉が閉まり、特別講義の残響から離れていく中、ユイスは抱え続けるノートをぎゅっと握りしめた。