表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/107

9. 図書館

 ユイスは問題児クラス寮の古びた扉をそっと閉じて外に出た。夜の帳が降りる王立ラグレア魔術学園の敷地は、昼間の喧騒が嘘のように静かだ。冷えた空気が頬を掠めるが、足は自然と図書館のほうへ向かっていた。


 先ほどまで、寮の食堂でエリアーヌが主催した小さなお茶会が開かれていた。焦げたお菓子の臭いがまだ鼻に残っている。あの煙騒ぎのおかげで、クラスの皆が意外にも打ち解けたのは確かだが、ユイスにとっては新たな研究課題が頭を占めてやまない。トールの炎魔法を安定化させるために、数式理論を応用した補助具を形にしなくてはいけない。だが、問題児クラスに許された資料や設備は限られている。探すなら図書館しかない――そう考えて、ユイスは食後もすぐに行動を起こしたわけだ。


 図書館へ至る石造りの小道を急いでいると、扉の横に立つ司書が「閉館まであと少しだよ」と小さく声をかける。にこやかな笑みではあるが、半ば門限を警告するような響きだ。ユイスは礼を言いつつ建物の中に入った。館内は薄灯のランタンだけが頼りで、人影もほとんどない。がらんとした闇の中、床に伸びるユイスの影が微かに揺れる。


「あと三十分もあれば、基礎資料くらいは確認できるはず……」


 呟きながら、彼は魔法理論の書棚に歩み寄った。意外にも目当ての文献は貸出中になっており、代わりの参考書を探そうにも、目ぼしいものはほとんどロックされている。保守的な管理方針ゆえか、血統が保証された貴族クラスでなければ禁書には触れさせてもらえない。短く息を吐いて、ユイスはインク染みが目立つ手作りノートを開いた。


「……結局、血統魔法が優先か。そればかりだな……」


 皮肉混じりの独り言が、静寂に吸い込まれていく。大した声量ではないのに、天井が高いせいか、わずかな響きを伴って耳に返ってくる。それが鬱陶しいほど静かなのだ。彼はノートの隅に走り書きした火力制御リングの図面を見つめた。今までのデータをさらに検証するには、古代術式の最適化手法が不可欠だ。だが、関連資料は禁書コーナーにある。どうにも歯がゆい指先がペンを強く握りしめていた。


「貸出制限があるからって、ここまで読むことすら許されないのか……」


 そのとき、ふわりとした気配が隣に立つ。誰かが同じ机に来たらしい。館内は暗いが、小さなランタンが細身のシルエットを照らしだす。それは、伯爵令嬢リュディア・イヴァロールだった。軽く肩にかかる髪を揺らして、彼女はいつものようにきりりとした表情を浮かべている。


「夜更かし? まったく、無理をするにも程があるわよ。閉館間際の図書館に駆け込んでくるなんて」


 小声で囁くようだが、その調子は決して柔らかいわけではない。ツンとすました態度は、彼女がどこか不器用である証拠だろう。ユイスは眉を寄せる。先ほどまでいい気分とはいえず、このまま上位クラスの令嬢に嫌味でも言われるとなると、いっそう気が滅入ると思った。


「放っておいてくれ。俺にはやらなきゃいけないことがあるんだ」


 それだけ言うと、ユイスはちらりとノートに視線を戻す。魔導具の図面と試作データ。リュディアはちょっとだけ口をとがらせ、ユイスの手元を見ているようだが、相手が拒絶しそうな雰囲気を隠しもしない。このまま黙って退いてくれればいいが……と思うのに、彼女はその場から動こうとしなかった。


「見ればわかるわよ。夜中まで勉強して、身体を壊したらどうするの。そんなに焦っても仕方ないんじゃない?」

「あんたこそ。こんな時間まで何してるんだ。……貴族の優等生なら、もっと明るい時間に勉強できるんだろ」

「わたしにだって都合があるの。余計な詮索はしないでちょうだい」


 小さな声だが、お互い譲る気配はない。司書の視線がこちらに向いているのを感じるが、どちらもすぐに引き下がれない。次第に言葉が尖りはじめ、ユイスはノートを一度閉じた。


「そっちのほうこそ、平民出身の母親を馬鹿にされて苦労してるんだろ?」

 そう口をついて出た瞬間、リュディアの瞳が淡く揺れた。さすがに彼女の表情が凍りつく。

「……母のことを、勝手に話題にしないで」

 その掠れた声に、ユイスもはっとして唇を噛む。言わなくていい一言を言ってしまった。そんな後悔が一瞬で込み上げるが、態度に表すのはまた違う話だ。


「すまない。俺はただ……血統とか身分とか、そんなことで魔法の可能性が閉ざされるのが嫌なだけだ。なのに、貴族出身のあんたが俺の苦労をわかるわけないと思った。それだけだ」


 リュディアは唇をきゅっと噛みつつ、俯きかけた顔をぐっと上げた。周囲からの嘲笑や陰口に傷つきながらも、表に出すのが下手なのはユイスと同じかもしれない。


「……貴族だからって、すべてが楽だと思われるのは心外よ。学園も家も、血統がどうだとか、母がどうだとか、好き勝手言われるのにわたしだって耐えてる。あなたに言われる筋合いはないわ」


 まるで互いの苦しみを否定し合うような会話だった。意地の張り合いだとわかっていても、簡単に和解できるほど素直になれない。司書が「お静かに」と小さく注意の声を飛ばすが、ユイスもリュディアも声を止められないでいる。


「あんた……黙ってればいいのに、いちいち口出ししてくるんだから、面倒だ」

「だったらわたしが何をしてても、あなたには関係ないでしょ。夜更かししてるからって、一言くらい気遣いをしたら悪いのかしら」


 ぴりぴりとした空気がテーブルに漂う。その瞬間、脚立に乗っていた司書がパタンと本を閉じ、低い声で咳払いをした。


「図書館では私語は慎んでください。閉館時間も近いですよ」


 その一言に、ユイスとリュディアは同時に息を呑んで黙り込んだ。互いにそれ以上言い返そうとしても、図書館でのルールを破るわけにはいかない。かといって、これで仲直りというわけでもない。ユイスはわずかに視線をそらす。彼女もそっと顔を背けるようにして、指を震わせながら蔵書を抱え直す。


 息苦しい沈黙の中、ほんの短い刹那、二人は互いの横顔を見合った。とげとげしい言葉の裏に、何か言い合えない悩みを抱えている――そんな気配を感じたからだ。けれど口先では、言葉にならない。


 やがて司書が扉を半分閉めかける音が聞こえ、そろそろ出なくてはいけない時間だとわかった。ユイスはノートをかき集め、カバンに押し込む。リュディアのほうはふとランタンを手に立ち上がるが、ちらりとユイスを見やるだけで、何も言わずに歩き出した。


「……余計なお世話だったわね」


 微かにそう呟く声が聞こえた気がするが、ユイスは答えられない。窓の外を見ると、闇がますます深くなっている。明日もまた朝早く授業があるというのに、こんな時間まで粘っても得られる資料は少なかった。苛立ちと後悔が胸に絡み合うが、今はこれ以上どうにもできない。仕方なく、ユイスは背中を丸めて図書館を出た。


 廊下を曲がる角で、リュディアの姿が一瞬だけ見えた。彼女は自分にかけられた噂や母の出自を、無理に気にしていないように装っている。しかし、先ほどの表情を見る限り、本当はどこかで耐えているのだろう。かといって、自分は手を差し伸べられるわけでもない。そんな煩わしさを抱え、ユイスはそっと吐息を漏らす。


 寮への帰り道。夜風が冷たいのはいつものことだ。けれど、今夜はやけに肌に刺さるように感じられた。ノートの中にはまだ未完成の数式が並んでいる。


 重たい扉を開けて図書館を出ると、再び訪れた静かな校内を一人歩き出す。後ろからは誰の足音も聞こえない。遠巻きに見える街灯だけが頼りだが、ユイスはポケットに片手を突っ込み、研究ノートをもう一度握りしめた。


「――勝手に気遣われても困る。けど……母親のこと、言い過ぎたかな」


 口元で小さく呟いても、夜闇は何も返してくれない。ぎゅっと握り込んだノートからはインクの香りが漂い、失敗した図面の数々を思い出す。しかし研究が進まなければ、仲間を助けることはできない。


 突っかかってきたリュディアのことを頭から追い出そうとするたび、彼女のわずかに揺れた瞳が脳裏をかすめる。あんなに突っぱねながらも、どこか似たもの同士の空気を感じてしまったのは、錯覚だろうか――。


 学園の時計台が短い鐘を一度だけ打ち鳴らす。夜更けの警鐘のように聞こえて、ユイスは歩調を早めた。この数式理論が完成するまでは、誰にも手助けなんて求められない。そう自分に言い聞かせるように、夜の校舎の道をまっすぐに進んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ