7. 休日散策
翌朝、問題児クラスの寮はいつもより静かだった。今日は休日ということもあり、寮の廊下には学生の姿がまばらにしか見えない。昨日の実技演習で派手に火球を暴走させたトールは、今朝から筋トレだかランニングだかに出かけたらしく、部屋にはいなかった。
ユイスは問題児クラス寮の玄関をそっと開け、朝の涼しい外気を吸い込んだ。今日は休日だが、どうしても探したい素材があった。火力制御が難しい炎魔法を支援する“火力制御リング”――その試作のために必要な鉱石を、庶民街の露店で見つけられるかもしれない。
仲間を誘うか迷った末に、ユイスはひとりを選んだ。ミレーヌやエリアーヌを連れ出すと、慣れない街歩きで疲れさせてしまうかもしれないし、トールは今朝から自主トレに出て行った。レオンを誘うことも考えたが、彼の皮肉まじりの会話を受け止める余裕は、いまのユイスにはなかった。
「ひとりで行けば、必要なものに集中できるだろう」
そう心に言い聞かせ、裏通りを抜けて賑やかな庶民街へ足を向ける。
雑多な露店が並ぶ一帯に入ると、華やかな貴族街とは対照的な賑わいに、どこか懐かしい空気を感じた。地元の農村にいた頃を思い出す。大通りの喧騒を避けるように路地を進んでいると、焼き菓子の甘い香りが漂う屋台が目に留まる。
(いい匂いだな……)
そんなことを考えながらふと視線を向けると、女学生らしき姿が紙袋を抱えていた。ユイスは一瞬、その人を見間違えたかと思う。
(……イヴァロール伯爵家の令嬢? リュディア、だよな。入学式の時に壇上で見かけたあの人……)
学園の上位クラスに所属し、伯爵令嬢だと噂される少女――リュディアは、屋台の店主と言葉を交わしている。普段は凛とした印象が強いらしいが、今はどこか落ち着かない様子だ。彼女が貴族街ではなく、こんな庶民の露店街にいる理由を考えたが、見当がつかない。
ユイスは声をかけるべきか迷ったものの、相手も学園の生徒ではあるし、放っておくのも気まずい。人通りの多い通りを横切り、遠慮がちに挨拶する。
「……イヴァロール先輩ですよね。こんにちは」
リュディアは一瞬驚いたように振り返り、ユイスを見つめる。
「あ、あなたは……特例奨学生の、ユイス・アステリア、だったかしら。どうしてここに?」
聞き覚えのある名前、といった具合で控えめに尋ねてくる。初対面らしく互いに硬い空気が漂ったが、ユイスはつとめて柔らかい調子で応じた。
「ええ。実は、研究用に変わった素材を探していて……学園の購買では手に入りそうになかったので、庶民街の露店なら何かあるかもと思ったんです」
リュディアは軽くうなずくと、背後に隠していた紙袋をもう片方の手で持ち直した。香ばしい甘さがふわりと漂い、彼女が少し恥ずかしそうにそっぽを向く。
「私は……ちょっと庶民向けの買い物を試してみたかっただけ。別に、甘いものが好きってわけじゃないの」
そう言う声はいつものきっぱりした口調とは違って、いくぶん小さい。ユイスは彼女の意外な一面に戸惑いながらも、何も言わず頷いた。
「そう、ですか……。ところで、先輩は普段からここに? いや、その……伯爵家の令嬢が来るような場所じゃない気がして」
「普段は来ないわ。……母の買い物を手伝う程度で。だけど、庶民街には庶民街の良いものがあるって聞いたから……ね」
リュディアはぎこちなく言葉をつなげ、静かに目を伏せる。まるで、心の中にまだ言いづらい何かがあるようだ。
そんな微妙な空気が漂う中、通りの向こうからエリートクラスの制服を着た数人が声をかけてきた。
「リュディア、こんな所で何してるんだ? まさか下層街で買い物か?」
彼らはギルフォードの取り巻きらしい男子生徒で、嘲笑めいた口調が混ざる。リュディアは鋭い目つきで応じようとしたが、彼らは横目でユイスも見下すようにちらりと見る。
「その問題児クラスの子と一緒に? へえ、随分と気が合うんだな」
からかい半分の言葉に、リュディアは唇を強く結んだ。
「別に。誰と話そうと私の自由だし、あなたたちには関係ないでしょ」
取り巻きは嫌味っぽく肩をすくめ、「ま、勝手にすればいいけどさ」と言い捨てて立ち去る。彼らが去り際にユイスへ向ける視線には、明確な差別意識があった。
ユイスが何か言おうと一歩踏み出しかけると、リュディアはかすかにかぶりを振る。
「いいの、あんな連中。あまり気にしないで……」
声は小さいが、拒絶の意思が感じられた。
そして彼女はそそくさと背を向けると、「じゃあ、私もう行くわ」とだけ告げ、通りの奥へと立ち去る。ユイスは呼び止めるタイミングを失い、屋台の甘い匂いの中にひとり取り残される格好になった。
(……どうしてああなるかね。本人も大変そうだ)
伯爵家の令嬢とはいえ、リュディア自身は母親の出自を噂されていると聞いたことがある。貴族社会は血統をやたら誇示する者が多いだけに、彼女も内心苦労しているのかもしれない。ユイスはそう考えながら、露店の店員に「焼き菓子、ひとつください」と声をかける。偶然とはいえ、自分も少し試したくなったからだ。
袋を受け取りかじりながら、ユイスはさらなる目的を思い出す。
「……火力制御リングの素材、ちゃんと探さないとな。炎魔法が暴走しやすいトールや、ほかの人が困ってるのを何とかしたい」
火力制御リングは、本来は高魔力の人向けではないが、炎魔法の暴走を抑える用途なら誰にでも役立ちそうだ。ユイスは再び歩き出し、鉱石や素材を扱う小さな工房の看板を探す。
その胸には“庶民街にもこんな人間味あふれる場所があるなら、学園の理不尽だっていつか変えられるかもしれない”――そんな微かな希望が芽生えつつあった。
店先に並ぶ鉱石を品定めしながら、ユイスは先ほどのリュディアの姿をうっすらと思い出す。いつも凛とした伯爵令嬢が、焼き菓子を隠すように持ち、居心地悪そうに俯いていた様子は、ほかの学園生徒が知らない一面だろう。そこにかすかな親近感を抱いた自分自身が、不思議に思えてならなかった。
とはいえ、今は目の前の研究が優先だ。
「すみません、炎魔法の高温だけは通すけど、魔力はあまり流さない性質の鉱石を探してるんですけど……」
工房の店主が怪訝そうに振り返るのを見て、ユイスはひとつ息を整える。確かな手応えを得るまでは、何度でも試行錯誤するしかない。自分も、トールも、ほかの育成クラスの仲間も――みなが少しでも魔法を使いやすくするために。
焼き菓子の甘みがまだわずかに口に残る。ユイスは紙袋を畳みながら、やや緊張した面持ちで店主の話に耳を傾けた。彼の小さな探求心と決意は、この庶民街から始まる新たな発見への扉を、そっと開けようとしているようだった。