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4. 寮生活初夜

 夕方の図書館で区切りをつけたユイス・アステリアは、差し込む夕陽を背にしながら重い扉を押し開ける。昼過ぎから集中して研究していたせいで、思わぬ時間になってしまった。館内を出ると、すでに学園の敷地内に長い影が落ちている。


「そろそろ、夕食か」


 自分にそう呟きかけるが、頭はまだ数式の断片を整理しきれていない。足早に校舎を抜け、男子寮へ向かう。とはいえ問題児クラス寮の食堂は男女共用のスペースだけが用意されているので、ユイスは荷物を部屋に放り込むとすぐ、食堂へ足を運んだ。


 建物は全体的に古く、ところどころ壁の塗装が剥がれかけている。男子寮と女子寮は一応別棟だが、真ん中にある低い渡り廊下でつながっており、夕食や朝食は共通の食堂を使う仕組みだった。女子寮棟から来る者と入口で鉢合わせすることもある。


 今夜はちょうど同じタイミングで、トール・ラグナーが入口から姿を見せた。筋肉質な身体を大きく伸ばし、深々と息を吐いている。


「お、ユイス。遅かったな。図書館に籠ってたんだろ? 腹減らないのかよ」


「少し遅れただけだ」


 息をつく間もなく、階段のほうからミレーヌ・クワントが遠慮がちに姿を覗かせた。


「ごめんなさい、私も遅れちゃって……あ、ユイスさん、こんばんは」


 恥ずかしそうに挨拶してから、視線を落とす。その後ろにはエリアーヌ・マルヴィスの姿もあった。伯爵家の分家出身という名が示すように、立ち振る舞いには上品な雰囲気が残っているが、どこかしら力ない表情が気にかかる。


「エリアーヌ、疲れてるのか?」


 トールが小首をかしげると、彼女は微弱な笑みを作って「少しだけ……大丈夫」と答える。しかしその目元は赤みを帯び、元気がないのは一目瞭然だった。


 木の扉を開けば、問題児クラス寮の食堂は相変わらず質素な明かりに照らされている。奥の調理場には鍋が一つだけ湯気を立てていて、そこから雑炊が配給される形だ。給仕している中年スタッフが、「はい、次どうぞ」と淡々と盛り付けては皿を渡す。


 トールが貰った雑炊を見て、浮かない顔で呟く。


「見ろよ、これ……。やっぱ地味だよな。豪華な貴族寮は何種類も料理が出て、デザートも用意されてるらしいぜ」


 近くにいた男が「あっちは全然違うんだってな」と話を合わせ、軽い溜息をつく。


 ユイスは皿を受け取りながら、淡々と「贅沢に興味はない」と呟いた。むしろ、こういう質素な食事のほうが集中できるとさえ思っている。そのまま空いたテーブルに腰掛けると、ミレーヌが気遣わしげに隣へ座る。トールも向かいの席に腰を下ろし、「はあ……」とやけに気の抜けた声を漏らす。


 だが、エリアーヌだけが席から少し離れた場所で足を止めていた。何やら気後れしているようだ。もしかすると、これまで伯爵分家の待遇としてもう少し良い環境にいたのだろうか。


「エリアーヌ、早く座れよ。冷めちまうぞ」


 トールが笑顔を向けても、彼女はかすかに会釈をするだけ。仕方なく腰を下ろすが、雑炊には手をつけようとしない。俯いたまま、匙を持ち上げる気配もない。


 周囲の学生が「エリート寮は豪勢でいいなあ」と噂話を続ける中、エリアーヌはどんどん萎縮していくように見える。


 ユイスは雑炊の一口目を口にしてから、ふと彼女に視線をやった。ぼんやりした照明の下で、エリアーヌは箸を軽く握っているが、その先が鍋に触れそうで触れない。明らかに元気がない。


「どうした? 食わないのか」


 不器用ながら、彼にしては珍しく声をかける。するとエリアーヌの唇が震えた。彼女の瞳は今にも潤みそうで、しかしなんとかこらえているようだ。


「……私なんか、分家からも見放されてるし、魔力は低いし……どうせ、役に立てない」


 掻き消えそうな声音に、ミレーヌが「そんなこと…」と慌てて言いかけるが、エリアーヌは首を振り、箸を置いてしまった。最初から食べる気力がないのか、涙を落とすまいと必死にしているのが伝わってくる。


 トールが曖昧に視線を泳がせ、「大丈夫だって…まだ始まったばかりだろ」とフォローするが、言葉は空回りして届かないようだ。


 ユイスは雑炊を静かに二口ほど飲んでから、エリアーヌにもう一度目を向ける。表情は険しいわけでもないが、言いづらそうな空気だけが漂う。


(こういう時、何を言えばいいか分からないな)


 彼は心の中で呟く。フィオナを救えなかった過去を抱える自分だからこそ、弱い立場にいる者を見過ごせなくて、けれど優しい言葉を紡ぐのは苦手だ。


「何か方法があるはずだ。ここで終わりにしたくないなら、探せばいい」


 どこか朴訥な響きのまま、ぽつりと口を開く。ミレーヌが「ユイスさん……」と少しだけ感心したように呟く。トールもそれに続いて、「ああ、そうだぞ。ほんとに何とでもなるさ」と頷く。


 エリアーヌは眼を伏せながらも、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。弱々しくも、礼を言いたい気持ちが透けて見える。


「ありがとう…。わたし、頑張らなきゃいけないのに、どうしても自信がなくて……ごめんね」


 ユイスは無言で食事を再開する。トールは「ほら、食べないと元気出ないって」と促し、ミレーヌがそっと水差しを差し出す。エリアーヌは名残惜しそうに涙を拭ってから、箸を手に取った。まだ食べるペースは上がらないが、それでも一口ずつ口に運ぼうと努力しているのが伝わる。


 ◇◇◇


 夜が深まり、ユイスは男子寮の小さな自室へ戻る。ランタンの淡い光が染みついた壁を揺らし、部屋の中は薄暗く静まり返っている。隣の部屋からはトールが寝返りを打つ音がかすかに聞こえるが、もうすっかり沈黙に包まれていた。


 机に手作りのノートを広げる。何度も書き直した数式や術式の断片が混乱を招くときもあるが、自分が目指すのはここに詰まっていると思えば、苦にはならない。ペン先をインクに浸し、静かにページへ走らせる。


(今日のエリアーヌの様子を見て…考えた。ああいう子も救える世界があったら……)


 ユイスは机上に視線を落としながら、小さく息を吐く。フィオナを救えなかった後悔が、胸を鋭く刺すように蘇る。その時、もし平民でも使える強力な魔法があったなら、誰かの許可を得なくても命を繋げられたかもしれない。


「こんな不安定な子たちも、生まれを問わず助けられる術を……」


 声が自然と漏れる。天井から吊るされたランタンが、かすかに揺れた。古い建物のせいで隙間風が入り、ペン先のインクが冷えていくのを感じるが、それでも手を止めるわけにはいかない。


 少しでも早く数式魔法を完成させる。そうすれば、魔力量が低い者が見放されずに済む可能性が広がる。血統主義を振りかざす貴族社会を変える力にもなり得るだろう。


 ユイスはページをめくる。ここ数日の進捗を改めて洗い出し、火力制御リングの欠点や回復魔法の演算式など、あらゆる観点で再検証する作業に没頭する。


「やるしかない」


 苦い決意を混ぜ込んだ呟きが、夜の空気に沈んでいく。


(いつか、見ていてくれ。お前みたいな子をもう二度と見殺しにしない世界にしてやるから)


 ペンの音が微かに響く。夜は長く、そして静かだ。外の風が校舎の隙間を鳴らし、室内の灯りにうっすらと陰影を落としていく。


 再びペン先をインクに浸し、ノートに数式を綴る音だけが、彼の小さな部屋にこもり続けていた。

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