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4. 小さな火種

 翌朝、伯爵家の玄関先に馬車が二台、並んでいた。まだ陽が昇りきらない薄暗さの中、リュディアは父と母に見送られながら、問題児クラスの仲間たちと合流する。ユイスが積み込む荷物の束を抱えてバランスを取り損ねそうになるのを、トールが横からひょいと支えてやった。


「ありがと。助かった」

 ユイスはひと息つくと、翌日に備えてろくに寝ていない顔をわずかにほころばせる。トールは大きく肩をいからせ、

「お前、今にも倒れそうじゃねえか。全部背負いこむんじゃねえぞ」

 と不服そうに眉を寄せる。ユイスは苦笑いを浮かべた。


 その隣ではエリアーヌとミレーヌが、旅程の最終確認をしている。エリアーヌが大きな巾着袋を嬉しそうに揺らしながら、

「おやつは持ってきたよ。途中でお腹が空いたら、これでしのげるはず」

 と声を弾ませる。ミレーヌは書類綴りを抱えたまま、

「ありがとう。夕方には宿場町に着く予定だけど、それまでの食事も大事だものね。あ、でも移動中の経費はちゃんと控えておくから」

 と小声で数字を確認している。


 リュディアはその光景を見やりながら、静かに胸を張る。伯爵家の者が問題児クラスと連れ立って旅をするなど、普通なら考えられない事態だ。しかし彼女には、その“普通”を超えなければいけない理由がはっきり存在していた。母エリスを救った数式魔法をさらに広めるには、王都での会議に臨むしかない。背後から聞こえてくる父のやや低い声に、リュディアは振り返る。


「……本当に行くのだな」

 いつも以上に沈んだ伯爵の表情。保守派に見込まれた立場ゆえ、リュディアを送り出すのが心から怖いのだろう。彼女は目を伏せつつ、しかしためらわずに言葉を重ねた。

「伯爵家が何を言われようと、母は回復しました。私たちはその事実を王都でも主張しなければなりません」

 言葉の裏には、母を侮辱させまいという強い意地が滲んでいるのを感じる。伯爵はその表情から複雑な色を消せないまま、

「できるだけ、危ない橋は渡らんでくれよ……」

 と、念を押すように呟いた。


 少し離れたところで、エリスが音も立てずに立っている。その瞳は回復後もまだ少し色素が薄く、疲れやすそうに見えるが、かつての陰の色合いはだいぶ消えている。リュディアが母に近づくと、エリスは穏やかに微笑んだ。

「自分の信じる道を歩んでおいで。あなたを救った数式魔法を、誇りに思っているのでしょう?」

 瞬間、リュディアの胸が熱くなる。ずっと病床に伏していた母が、今はこのように立って自分を送り出してくれる。それだけで十分に、遠く王都まで行く意義があると思えた。


「はい。ありがとう、母上。……必ず成果を持って帰ります」

 そう言葉を結ぶと、リュディアはユイスたちとともに馬車へ乗り込む。父と母に小さく手を振り、見送られながら、伯爵家を後にした。


 ◇◇◇


 その日の午後遅く。一行は広い街道を通り抜け、小さな市街地へ入った。宿場町としてかなりの旅人が行き交うらしく、通りに露店や雑多な店が立ち並んでいる。高台から見下ろすと、家々が石畳の両側に並んでいて、活気のある声が絶え間なく響いてきた。


「いやー、さすがに腹減ったな!」

 トールが馬車から飛び降り、軽く伸びをする。体力は有り余っているらしく、連日の移動にもへばらない。

 エリアーヌは小さく笑い、

「実は私も。さっきのお菓子だけじゃ、もう限界……」

 と、くすんだ声で囁く。小柄な彼女が抱える巾着袋は半分ほど軽くなっていた。


「とりあえず宿を取って、荷物を置いてから夕食にしようか。長時間の移動で、みんな足も疲れているでしょう」

 リュディアが提案すると、ミレーヌが宿泊予定の紙を確認して、

「うん、前もって予約してある宿があるの。こっちよ」

 と先導した。


 宿は、街道沿いの大通りから少し入った場所にあった。木造の二階建てで、表の看板には「ホロウ亭」と書かれている。店主が温かな笑顔で出迎え、

「ようこそお越しくださいました。部屋は二つご用意してあります。夜の食事は皆さまと別々にされますか?」

 と尋ねる。トールは首を振りながらニカッと笑う。

「いや、みんな一緒でいい。やっぱ賑やかなほうが落ち着くしな」

 エリアーヌも「わたしも同じ意見!」とすぐに賛同。リュディアとユイス、ミレーヌ、レオンもかぶりを振らなかった。


 チェックインを済ませると、それぞれ荷物を部屋に置きに向かった。レオンは階段を上がりかけたところで、一階の片隅に古道具や地図が雑多に並ぶ棚を見つけて立ち止まる。店主は「好きに見ていってくださいな」と軽く言うと、他の宿泊客の対応に向かった。レオンはまるで吸い寄せられるように棚へ歩み寄る。

「……古い交易路の地図か。見慣れない文字が入っているな」

 そう呟きながら、一枚の地図を手に取る。その瞳には、わずかな興味が灯っている。やはり古文書や古物に触れるときのレオンは、いつもの皮肉屋な空気をやや薄れさせるらしい。


「レオン、また変なもの見つけたのか?」

 声をかけたのはユイスだった。レオンはちらりと地図を指さし、

「ここに書いてある地名、王国内ではもう使われていないはずだ。……興味はある。まあ、金が余れば買ってもいいかと思っただけだ」

 言葉はつれないが、その目はどこか楽しげだ。ユイスは少し笑みを浮かべつつ、

「無駄遣いだけはしないように。ミレーヌに怒られるぞ」

 と小さく囁いた。レオンはわずかに眉をひそめるが、まんざらでもなさそうに地図を棚に戻す。


 ◇◇◇


 夕刻、宿泊客用の大きめの食堂で一行は席を囲んでいた。長い旅路のほこりを払い、ようやくゆっくり食事にありつける。エリアーヌが嬉々として「宿特製のスープがとても美味しいらしい」と先に箸をつけると、トールもまた目を輝かせて肉料理へ突撃する。リュディアはそんな二人を横目に、小さく息を吐いた。伯爵家の晩餐とはまた違う、肩肘張らない雰囲気に少しホッとするところもある。


 ところが、店内の一画から射すような視線を受けて、リュディアはふと箸を止めた。ちらりとそちらを見やると、金刺繍の入った上質なマントをまとった中年の男がじっとこちらを見ている。貴族のようだが、どこか尖った眼光が嫌に胸へ刺さる。ユイスもその視線に気づき、そっとリュディアの隣に身を寄せた。


 しばらくすると、その男がこちらのテーブルに近づいてくる。粗野な大声ではないものの、抑えた口調でしかしはっきりと告げた。

「イヴァロール伯爵家の令嬢だな。顔を見かけたことがあるぞ。……どうやら、噂は本当らしい。平民の血を持つ母を異端治療で救ったとか」

 その声色には、まざまざと軽蔑が混じっていた。リュディアは怒りを感じながらも、相手の態度を見極めようとするように背筋を伸ばす。


「伯爵家の事情に首を突っ込む権利が、あなたにありますか?」

 リュディアが静かに問いかけると、中年貴族は唇の端をわずかに歪める。

「あるとも。わたしはファルネーゼ侯爵家に近しい立場にある者だ。もちろん、表立った紹介は省略するがね。貴族の伝統を踏みにじる娘が、何食わぬ顔でいるのは気に食わん」

 リュディアは母の話題を持ち出されるだけで胸の奥が熱くなるが、どうにかそれを押しこらえる。しかし代わりに、トールが椅子を軋ませて立ち上がった。


「おい、おっさん。伯爵家とか母上とか、あんたが口を挟む話じゃねえだろ」

 怒りがにじむトールの声に、中年貴族は冷淡な視線を返す。

「なんだ、下民か。まさかイヴァロール家の同行者にこんな平民出がいるとは……。ああ、王子の犬か? あるいは数式魔法とやらに踊らされた愚か者か」

 トールの頬がひきつり、手が拳を作りかける。その気配を感じ取って、ミレーヌが慌ててトールの腕を押さえる。

「待って、ここで乱闘になったら大変よ」

 彼女の声は弱々しくも必死だ。エリアーヌも怖そうに首をすくめながら、背筋を伸ばして立ち尽くしている。


 そして、ユイスがゆっくりと立ち上がり、中年貴族と向き合う。若干寝不足気味のその目は、しかし静かに熱を帯びる。

「貴族だろうと平民だろうと、数式魔法で人の命が救われた。それを否定する理由が、どこにあるんです?」

 なるべく敵意をむき出しにせず、理詰めで話そうという態度が伺えた。ところが相手は、まるで鼻であしらうように唇を動かす。

「ふん、そういう甘い考えで、王都へ乗り込むつもりか。王子の馴れ合いで事が運ぶほど、アルステール王国は甘くない。覚えておくがいい、皆すぐに思い知る日が来る」

 声に含まれた悪意は、リュディアの耳にもはっきり届いた。思わず手が震えそうになるが、母を救ったことへの侮蔑を許すわけにはいかない。リュディアは毅然とした表情をつくり、

「私たちがどう動こうと、あなた方保守派はわたくしの母を見捨てようとした。結果として、母は救われた。それがすべてです」

 相手の視線が一瞬、赤黒く燃え上がるように険しく変わったが、それでもリュディアは退かない。店内の空気が重たくなり、周囲の客も固唾をのんで見守っている。


「イヴァロール伯爵家の娘……肝は据わっているようだが、甘い考えに違いはない。せいぜい好きなように吠えるがいい。王都に着く頃には、その自信を打ち砕かれることだろう」

 吐き捨てるように言って、男はマントを翻す。店の主人が飛んできて「お、お客さま、どうか騒ぎは起こさずに……」と宥めようとしたが、男は主人を腕で払いのけるように通り過ぎ、そのまま食堂を後にした。


 一瞬の静寂が落ちる。トールが机を叩きかけたが、リュディアが制した。彼女の目には、悔しさと怒りが交じっているが、それを表に出すことはしたくないらしい。エリアーヌがいつもの元気を失いかけた声で、

「こ、ここまで言われるんだね。保守派って、やっぱり怖い……」

 と眉根を寄せて呟いた。ミレーヌも顔色が悪い。ユイスがそんな二人の肩を少し叩き、

「大丈夫。こんな嫌がらせは、王都でさらに激しくなるだろう。でも、それを踏まえて前に進まないと」

 声は穏やかだが、その瞳の奥には決意が燃えているように見える。トールは荒い息を吐きながら、ようやく座り直した。

「くそっ。腹立たしいけど、今はやるべきことがある……だろ?」


 レオンは黙り込んだままサラダを突いていたが、最後に低く呟くように言った。

「ああ。保守派は想像以上に根回しが進んでるな。ここでいちいち殴り合いしても意味はない。俺たちが王都へ行く意味が、よけいに明確になっただけさ」

 彼なりの皮肉めいた言い回しに、リュディアは少しだけほほをゆるめてうなずいた。


 ◇◇◇


 同じ日の夜、宿の二階にある二部屋へ分かれ、それぞれ休む準備を進めていた。食堂での一幕が頭から離れないメンバーたちは、互いに言葉少なになりながら、寝床の段取りをしている。


 リュディアは窓辺に立ち、夜風を頬に感じていた。遠く街道のほうには旅人の松明がちらほら見え、にぎやかな宿場町とはいえ、夜はさすがに静まりつつある。彼女は自然と母の顔を思い浮かべた。あの貴族の言動が母を否定するものではないとわかっていても、すでに胸の奥が波立つような怒りを抑えきれない。けれど、あの場では持ちこたえた。それでいいのだ、と思おうとしても、腹の底には針を飲みこんだような違和感が残っていた。


 コンコン、とドアが軽く叩かれ、ユイスの声がする。

「起きてるか? 話があれば……」

 ドアを開けると、ユイスが遠慮がちに立っていた。その顔は相変わらず疲れているが、思いつめたような色もある。リュディアは部屋の中へ通し、椅子を勧める。


「どうかしたの?」

「いや……さっきの相手のことを考えてたんだけど、やっぱり保守派の動きは激しい。僕たちが王子に呼ばれて王都へ行くのも、もう把握しているだろうし。王都ではあれ以上の嫌がらせや衝突が起きるかもしれない」

 それを聞いて、リュディアはぎゅっと拳を握る。そうだ、今夜の短い休息を惜しんででも、この不安に立ち向かう意志を確かめたかったのかもしれない。


「わかってる。でも、私は逃げたくない。母を救ってくれた数式魔法を信じてるし、伯爵家がそれを否定しては今までの努力がすべて無になる。……あの人たちに何を言われたって、母を見捨てるよりましよ」

 リュディアの瞳には揺るぎない意思がある。ユイスはそっと微笑みを返し、

「ありがとう。きみがそう言ってくれると、僕も心強い。保守派にどう言われようと、僕たちは本当に人を助けたいだけなんだ。それを曲げるわけにはいかない」

 やわらかな空気が二人の間を満たす。しばらくしてユイスが、

「ごめん、休みを邪魔したな。そろそろ部屋に戻るよ」

 と席を立った。リュディアはほんの少し物足りなさを感じたが、彼の疲弊ぶりを知っているから無理は言えない。


「あなたも無理はしないで。王都に着くまでは、できるだけ体力を温存しなきゃ……」

 そう言い終わらないうちに、ユイスは小さく微笑んで扉の向こうへ消えた。


 ◇◇◇


 深夜、宿の周囲はすっかり闇に包まれている。巡回の宿の主人が通りを見回し、扉に鍵をかけ始めている頃、道の影から誰かがじっと宿を見つめていた。黒いマントをまとったその人影は、一瞬だけ窓辺を見上げるように視線を送る。部屋の中にはかすかに明かりがある。やがて人影は微細な足取りで通りへ消えていった。


 宿の中では、ユイスが机の上にノートを広げ、数式魔法の新たな試案を記していた。王都へ行く前に少しでも式を固めておきたいという焦燥感が彼の目の下に色濃く沈む。だが、ここまで来る道中にあれだけの保守派の敵意を向けられたのだ。王都であれ以上の妨害を受けるのは、もはや目に見えている。ならば、時間は限られている。ペンを走らせながら、彼は小さくつぶやいた。


「……あいつらに壊されないように、気をつけないと」

 その言葉は誰に向けたものでもないが、まるで自分自身への警告だった。まだ夜は長い。ユイスはわずかに背筋を伸ばし、眠気を押し返すようにノートにペンを走らせ続ける。


 一方、リュディアも眠れないまま布団に身を横たえていた。母のこと、伯爵家のこと、保守派との衝突。そしてユイスの疲れ切った顔にどこか心を痛める自分。あれこれ考え始めると頭は冴えてしまう。そっと胸元に手を当て、呼吸を整える。愛する母を救ってくれた数式魔法、その学び舎の仲間たち。この先、どのような道があろうと、引き返すつもりはない。彼女の目は閉じられたままだが、決意の炎はすぐ消えることはない。

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