3. 旅立ち準備
伯爵家の中庭には清々しい朝の光が差し、つい先日まで病を患っていたエリスの小さな足音が微かに響いていた。彼女はすでに大広間まで歩けるほど回復し、今は日々の小さな動きに「生きていること」を感じているようだった。
「お母様、あまり無理はしないでください」
リュディアが控えめに声をかけると、エリスは笑みを返した。淡い陽光のもとで、平民出身の夫人という肩書では測れない優しさがにじむ。
「もう大丈夫よ。あなたが母を信じてくれたから、こうして立っていられるの」
そう言って、エリスはほんの少し息を整える。伯爵家が数式魔法を容認した――それは保守派にとって目障りな事実だが、どちらにせよ回復したエリスとリュディアの絆は揺るがないように思えた。
◇◇◇
「王都へ行くのか」
書斎のソファに腰掛けていたイヴァロール伯爵が、書類から顔を上げる。そこにはリュディアが立っていた。やや硬い表情で、彼女は家臣から受け取った書簡を伯爵に差し出す。
「ええ。レオナート王子が主催する“数式魔法の会議”が、数日のうちに始まると聞いています。伯爵家としてここで尻込みするわけにはいきません」
伯爵は低く息を吐きつつ、机上のペンを指先で転がした。
「保守派の嫌がらせは、これまで以上にあるだろう。おまえが前に出れば、エリスの平民血統のことをまた叩かれるかもしれない。……それでも行くのか」
リュディアの瞳がゆらぎ、しかしすぐに決意を帯びる。
「母は数式魔法で救われた。それを誤魔化したり否定したりはしません。伯爵家当主として私がどう動くべきか、はっきりさせるためにも、今こそ王都に出る必要があると思います」
伯爵は黙り込んだ。テーブル越しにちらりと視線を交わすが、リュディアの意志は変わらないと読んだのだろう。重々しくうなずく。
「わかった。だが気をつけろ。ファルネーゼ侯爵も教会上層も動き出している。……くれぐれも無理はするな」
「ええ、お父様」
奥のほうで立っていた一人の家臣が、伯爵に口を挟みたそうにするが、伯爵は手を挙げて制した。声をかけられなくなった家臣は目を伏せる。一方、リュディアは父が少しでも味方でいてくれることに安堵し、深く頭を下げる。
◇◇◇
エリスが食堂に顔を出したころ、リュディアは旅支度を整え、荷箱の量を確認している最中だった。香り高い紅茶の湯気がふんわり漂い、エリスは椅子に腰をかける。
「あなたが選んだ道だもの。自分の心に素直に進みなさい」
つい先日まで病で倒れていたとは思えない落ち着きで、エリスはやさしく微笑む。
「伯爵家の事情なんて、結局ほかの誰でもないあなた自身が決めることだから。……それに、仲間たちが支えてくれるのでしょう?」
リュディアはひとつ息を吐いた。
「母上……。本当はもっと一緒にいたいんです。けれどあれから、保守派が母上の経緯を否定するような動きを見せている。私が声を上げないと、また何を言われるかわからない」
エリスは静かに目を伏せた。もしかすると、自分の出自が娘の足枷になるのではないかという気持ちがあるのかもしれない。
「私は一人でも大丈夫よ。あなたにはあなたの戦いがある。伯爵家のことを、母のために犠牲にする必要はないの。けれど……ありがとう。あなたがここまで強くなってくれて、私は心から誇りに思うわ」
言い終えると、エリスは小さく咳をこらえ、それでも気丈に笑みを浮かべる。リュディアがそっとエリスの手を握りしめた。お互いに多くを語らなくとも、心は通じている――そんな空気が食堂に満ちていた。
◇◇◇
同じ日の夕暮れ、学園の寮区画にある共同研究室では、ユイスたち問題児クラスが手続きをととのえていた。
「うわあ、何だかややこしい書類ばっかりだぞ」
トールが束になった許可証を机に放り出し、あきれたように首を振る。レオンは「目を通しておかないと、旅の最中にトラブルになるぞ」と皮肉っぽく応じる。
「何が必要なのか端的にまとめるわ」
ミレーヌがすかさずコストや時間を算出し、いくつかの手順を整理していく。トールが「助かる!」と大声で感謝すると、ミレーヌは少し顔を赤らめた。
エリアーヌは手作りのフィナンシェ菓子を取り出し、「こんなときこそ甘いものよ!」と声を弾ませる。
「ごめんね、私、これぐらいしか取り柄がないから」
彼女の手には小さな包みがいくつも詰まっていた。ユイスはその光景を見て、疲れ気味の表情にかすかな笑みを浮かべる。
「いや、助かる。夜勤が増えそうだし、エネルギー補給がないと持たないからな……」
ユイスは手帳のページをめくりながら答える。書き込まれた数式理論は、さらに厚みを増して見えた。レオンがちらっとそのノートを覗き込み、「まだ増やすのか」と小声で呟く。
「数式魔法の会議だろ? どうせ保守派からケチをつけられるに決まってる。しっかり理論武装しとかないと、まともに話ができないからな」
どこか苛立ちを帯びた声。だが、仲間たちは慣れた調子でユイスをサポートしている。
◇◇◇
一方、学園の廊下の突き当たり。保守派寄りの教師らが問題児クラスに対して口うるさく言い募っていた。
「勝手に長期で王都へ向かうなど、学生の本分を逸脱している。研究とは聞こえがいいが、政治ごっこに手を染めているだけではないのか?」
トールは食ってかかりそうな勢いでにらみ返したが、ミレーヌがすばやく前へ進み出る。
「公的な招集状がありますし、学園長の許可もいただいております。すでに必要書類は提出済みです。あとは理事会の承認印だけ、今週中には下りるはずですが」
教師は舌打ち混じりに「……まあいい。万が一、不備があれば退学も覚悟するんだな」と吐き捨て、足早に去った。
「くそっ、何かあったら即追い出すつもりみたいだな」
トールが悔しそうに握り拳をつくる。エリアーヌは震えそうな笑顔を作りながら、みんなを振り向く。
「大丈夫だよ! 私たちなら、へっちゃら……のはずっ。あっ、あれ、甘いもの食べます?」
その無邪気な申し出に場が和み、トールがエリアーヌの頭をくしゃりと乱暴に撫でる。ユイスもふと肩の力を抜いた様子だった。
「さて、細かいことはまとめた。明日のうちに全員の準備が終わるようにしよう。あと一日でも遅れると保守派の妨害がもっと増えるかも知れないし、さっさと出発しよう」
◇◇◇
翌日の夕刻。伯爵家の門前には馬車が用意され、リュディアが軽くため息をつきながら荷台の確認をしている。
「ずいぶん多いわね……。でも、これでも足りないぐらいかもしれない」
ほどなくしてユイスたちが到着すると、リュディアはかしこまった調子で出迎えた。エリスもほんの少し顔を出し、まだ長時間は立てない様子ながら、ユイスやレオンたちに微笑みかける。
「お母様、あまりここにいると疲れます。部屋で休んでいれば――」
リュディアの心配を、エリスは首を振って制した。
「いいえ、せめて顔ぐらい見送らせて。あなたたちが、また大きなことを成し遂げに行くんだもの」
ユイスは居心地悪そうに身じろぎしながら、それでもはっきり言葉を返す。
「あなたが回復したのは数式魔法の一例にすぎません。でも、それを証明できたのは大きい。伯爵家にとっても、俺たちにとっても」
エリスは恐縮するように首を横に振った。
「数式魔法だけでなく、娘やあなたの情熱があったからこそ私は生きています。……だから、無理はしないで」
「……ありがとうございます。きっと成果を持ち帰ります」
ユイスの瞳は疲労を帯びながらも、どこか強い決意が透けて見える。
リュディアはそんな二人を目の端で見守り、「私も行くわよ。保守派が何を企もうが、絶対に下がる気はないから」と声を投げかける。周囲にはトールが「ああ、守りは任せろ!」と燃え、ミレーヌやエリアーヌがせわしなく確認作業を進めている。レオンは一歩離れた場所で、古文書らしき鞄を大事に抱えていた。
◇◇◇
旅立ちの前夜。イヴァロール伯爵家の廊下からは人の気配が遠のき、しんとした空気が漂っていた。自室の窓を開け放ち、リュディアは夜風を受け止めている。
「王都……私が行こうとしているのは、伯爵家の未来のためか。それとも、母のためか。――いや、どちらも同じことかもしれない」
窓の外には星々の光がまたたき、遠くから町の音がかすかに聞こえる。彼女はそっと目を閉じ、自分の胸に問いかける。かつては母を救うために必死だったが、今は数式魔法が抱える可能性、そして伯爵家の責任感……いろいろな思いが絡み合って一歩を踏み出そうとしている。
「もうあとには引けないわね。……ユイス、あなたとなら、きっと前に進めるはず」
そう小さくつぶやき、リュディアは部屋を後にした。