1. 招集令と伯爵家の困惑
ユイスとリュディアが伯爵家の庭先での別れを終え、再び学園へ戻ってから数日がたった。朝の問題児クラスには、一見いつもと変わらぬ静けさが流れている。賑やかなはずのトールも、今朝はなぜか低い声であくびをかみ殺し、エリアーヌとミレーヌは揃って何か不安げな表情を見交わしていた。
「……あれ、ユイスは?」
エリアーヌが首をかしげながら、席に着いたままのレオンへ問いかける。レオンは机に肘をついたまま、ちらりと教室の時計を見やった。
「さあ、知らないね。さっきまで研究室にいたようだが、遅れて来るんじゃないか?」
冷たい調子でそう返すが、実はレオン自身も少し気にしているらしい。仲間の姿が見えず落ち着かないのか、時折入口のほうへ視線を動かしている。
「ううん……ユイスが朝から来ないって、めずらしいような……」
エリアーヌは不安そうに自分の魔力試験ノートをめくる。そこへガタガタと廊下を駆ける音が近づいた。扉が開き、息を切らせたトールが顔を出す。
「おい、なんか変な騒ぎが始まってるぞ! 学園の門から王都の使者が来たって、他のクラスがざわついてるんだ!」
「使者……?」
聞き返したのはミレーヌだ。彼女は手に計算メモを握りしめたまま落ち着かず、あがり症のせいか小刻みに震えている。トールが教室へ飛び込むのを見計らうように、今度はユイスが後ろから姿を現した。
「……みんな、おはよう。ちょっと遅れて悪い。さっき、正門で王都の兵が来ていて正式な書簡を持っていた。どうやらレオナート王子の召集状みたいだ。」
ユイスは相変わらず寝不足らしく目の下に隈が浮いているものの、その瞳には妙な期待が宿っている。レオンが机に両腕を乗せながら、皮肉めいた口調で漏らした。
「つまり、王子がわざわざ問題児クラスに用があると? ……これまた面倒事の予感しかしないね。」
トールは頭をかきながら、大声で意見を挟む。
「でもよ、王都からの招集ってことは、数式魔法が王都で正式に取り上げられるチャンスなんじゃないか? オレら、学園の落ちこぼれクラスなのにここまで注目されるなんて、すげえじゃねえか!」
教室の数人の生徒が「うるさいぞ」と睨むが、トールは平然と胸を張っている。一方ミレーヌはたじろぎつつ、
「で、でも保守派の人たちが黙っているわけがないのに……うまくいかなかったらどうしよう。」
怯えがちにそう言うと、エリアーヌが慌てて彼女の背をさすりながら、
「大丈夫、ユイスもいるし、きっと何とかしてくれるよ! そうだよね、ユイス?」
ユイスは少し戸惑った表情を浮かべつつ、頷いた。
「呼び出しを受ける以上、数式魔法を正式に認めてもらう交渉にもなると思う。だけど、保守派が壁になってくるのは確かだ。……まぁ、レオナート王子のやり方は好きじゃないけど、今は保護が必要かもしれない。」
レオンが小さく鼻を鳴らす。
「王子に恩を売られるだけだってのに、お前はそれでも行くんだ? なんだかんだ言ってやるしかない、か。」
「……ああ。」
ユイスが短く答えたとき、教室の扉が再び開かれた。そこには問題児クラスの担任――グレイサーが無表情に立っている。手には一通の手紙が握られていた。相変わらずコーヒーの香りをほんのり漂わせながら、生徒たちに視線を飛ばす。
「朝からずいぶん騒がしいな。……これは、王都の使者が届けた召集状だ。問題児クラス宛てだそうだが……好きにすればいい。読んでみろ。」
そう言ってグレイサーは書簡を教卓に放り投げると、コーヒーをすすりながら窓際へ移動する。トールが慌てて封を破くと、中には「王都にて数式魔法に関する会議を開くので、問題児クラス各員の出席を求む」という、レオナート王子の署名入りの正式文書が入っていた。
「マジか!ほんとにオレら指名じゃん!」
「……王子が、研究を高く買っている……?」
エリアーヌが瞳をきらきらさせると、レオンは嫌そうに呟く。
「どうせ利用する気だろ。数式魔法を大々的に宣伝して、保守派をけん制したいだけじゃないのか。」
ユイスは書簡を受け取り、数秒黙読してからレオンを見た。
「利用されるだけでも、保守派を押し返せる可能性があるなら動かない手はないだろ? ぼくたちは数式魔法を広めたいんだ。ここで断ったら、いつまた王子が協力してくれるか分からない。」
レオンは疲れたように肩をすくめたが、何も言い返さない。代わりにミレーヌがそっと訊ねる。
「……じゃあ、受けるしかない、かな。」
「受けよう。学園にいても保守派教師が嫌がらせを繰り返すだけだし、王都でちゃんと主張すれば、認めさせるチャンスになるかもしれないし。」
ユイスの言葉に、エリアーヌとトールは「おおっ」と息を弾ませる。そこへグレイサーが横から一言だけ呟く。
「やるなら徹底的にやれ。おまえらが潰されても俺は責任取らんがな。」
何とも素っ気ないが、いつもの放任主義そのままの口調だ。トールは鼻を鳴らし、
「けっ! 先生はいつもそれだな! けど、ま、オレらはオレらでやってやるさ。」
教室の外からは、他クラスの生徒たちが「王都召集? 本当なのか?」と囁く声が漏れてくる。保守派教師の視線が遠巻きに問題児クラスを監視しながら、面白くなさそうに唇を曲げているのが分かる。
◇◇◇
同じ頃――イヴァロール伯爵家の書斎では、父が深刻そうに書簡を手にしていた。差出人はレオナート王子。内容は「伯爵家として数式魔法に関する会議への参加を求む」という要請だった。
「……王子がここまで直接出てくるとは、正直想定外だ……。どうする、リュディア。」
渋い顔で伯爵は呟く。机の上には、保守派から届いたばかりの別の封書が山積みになっており、嫌な予感を孕む文章がちらりと見えている――「伯爵家が数式魔法を是認するなら、今後の資金援助は見直す」といった脅しめいた文言だ。
リュディアは父の傍らで数秒黙した後、決意めいた声を落とす。
「……私は行きます。王子から招集されたのなら、伯爵家の代表として出席すべきかと。それに、数式魔法を否定するなんて、もうできません。母を救ってくれた力です。」
伯爵はうっ、と小さく唸る。娘の瞳にはまるで迷いが見えない。だが父としては「保守派がな…」という本音を吐きださずにはいられなかった。
「保守派は――ファルネーゼ侯爵は、数式魔法を異端とみなし、いまだに伯爵家を冷遇している。母上の回復を認めざるを得なくなった手前、連中はさらに苛烈な手に出るかもしれん。王子の招集に安易に応じれば、あちら側と見なされるぞ。」
「それでも……。もう私、後戻りはできません。母の回復を見届けた以上、保守派に怯えて黙ってなんかいられない。」
リュディアは父の言葉を遮るように、はっきりと応じる。少し前までなら父に意見されるたび揺れていたが、今は違う。父は困ったように天井を仰ぎ、苦しそうに息を吐く。
その時、書斎の扉が軽くノックされた。病み上がりのエリスが控えめに入ってくる。まだベッドで安静が原則のはずだが、静かに歩いてきて、
「お二人とも、招集状のこと……ですよね。」
リュディアが母の体を支えようと腕を伸ばすが、エリスは優しく微笑んで首を振る。
「大丈夫よ。あまり長くは立っていられないけれど……。リュディア、あなたはあなただけの道を進んでいいの。私は平民の出だし、伯爵家の内情は分からないなんて言われるでしょうけれど……」
エリスはちらっと伯爵を見る。伯爵は目を伏せて微動だにしない。母の澄んだ声が続く。
「あなたが選んだ道なら、私は応援したい。伯爵家がどうこう以前に、あなたは私の大切な娘ですから。」
リュディアは唇を軽く噛む。父の視線が痛いほど感じられたが、母の言葉が温かく胸に染みる。
「……お母様、ありがとうございます。私、王都へ行きます。数式魔法が危険だという人たちにも、あれが多くの人を救える力だと知ってもらいたいし、伯爵家がこれを否定しないって態度をはっきり示したいんです。」
父は何も言わず顔を上げた。そこには迷いが渦巻いているが、しばし沈黙した末に小さく頷き、
「分かった……止めても仕方がない、か。私も、エリスの病を救った技術を今さら否定はできん。だが、リュディア、おまえの安全だけは頼むから忘れないでくれ。保守派の怒りを真正面で受けることになるぞ。」
リュディアはその警告を真摯に受け止めた上で、きっぱりと返す。
「ええ、覚悟はしています。……父さまがどうするかは、父さま自身が決めてください。私は私で、もう後ろを振り返らずに進むだけです。」
エリスは少し疲れた顔ながらも、安堵の微笑を浮かべて「ありがとう……」とつぶやいた。父は苦い表情で娘と妻を見つめながら、招集状を握りしめる。
◇◇◇
放課後の問題児クラスの教室。照りつける午後の日差しが窓から差し込む中、ユイス、レオン、トール、エリアーヌ、ミレーヌが机を囲み、学園を離れる段取りを話し合っていた。
「招集は来週にも始まるらしい。王都の会議には、いろんな貴族や学者も呼ばれるって聞いたよ。」
ユイスがメモを読み上げると、レオンはため息をつく。
「つまり、保守派や教会の連中も当然来るというわけか。……想像するだけで胃が痛い。」
トールは拳を握りしめて笑う。
「面白そうじゃねえか! どんな偉い奴が来ようと、オレらが数式魔法で成し遂げたことは揺るがない!」
エリアーヌはお菓子袋を両手で抱え、
「うん、そうだね……でもやっぱり、保守派が黙ってないよ。変な妨害があったら怖いな。」
ミレーヌが心配そうに書類をぱらぱら捲り、
「学園の授業は、どうしよう。こんな短期間で王都に行って戻ってくるのって、単位とか……」
ユイスは困ったように眉を下げたが、すぐに苦笑する。
「担任のグレイサー先生は、放任だし。学園側に正式に届ければ、王都への研究出張扱いになるんじゃないかな。実際、レオナート王子の招集だし、学園としても完全拒否は難しいだろう。」
レオンが無気力そうにうなずく。
「まあ、そうなるかな。……それより問題は王都での立ち回りだ。下手をすれば、ほんとに保守派理事や貴族どもに潰されかねない。連中が狙ってくるのは確実だろ。」
ピリリとした空気が張り詰めたその瞬間、廊下の陰に人影がさっと横切る。視線を向けると、そこには先ほどから教室をうかがっていた保守派教師の姿が見える。彼はわざとらしく眉をひそめ、口端に嫌味な笑みを浮かべていた。
「へっ……王子の召集? 問題児クラスが何を調子に乗っているのか。王都に行っても成果など出せまい。むしろ大恥かかないよう気をつけるんだな。」
低く吐き捨てるように言い残すと、足音も荒く去ってゆく。エリアーヌが小さく息を呑み、ミレーヌはすくんだまま身を縮める。
「……聞こえよがしに嫌味言ってたね。やっぱり保守派教師は怖いよ。」
「今はまだ小さな嫌味で済んでいるが、王都ではもっと大掛かりな嫌がらせが来ると思ったほうがいい。」
「なら、全部跳ね返せばいいだけだろ! 覚悟はできてるよな、ユイス?」
ユイスは一瞬だけ逡巡するように視線を落としたが、すぐに笑みを浮かべた。リュディアの決意を、伯爵家の現状を思い出しているのかもしれない。その笑顔にははっきりした意思がある。
「……ああ、やるしかない。学園にいるだけでも保守派の横槍は絶えないし。王都で公の場に出て、正々堂々と数式魔法の価値を示したい。」
エリアーヌとミレーヌが一緒に大きく頷いた。レオンは相変わらず面倒くさそうな溜め息をつきつつも、否定はしない。トールは「おう!」と大声で返事し、拳を突き上げる。
こうして、問題児クラスの面々は来週の王都招集へ向け動き出すことを決めた。背後では廊下に立つ保守派教師が「愚か者どもめ」と小さく呟き、気配を消して去っていく。不穏な気配を残しながら――。
誰もがまだ知らない。王都に集う保守派、改革派、教会勢力が、今回の会議で一斉に衝突を深めることになるだろうと。
ユイスは廊下の窓から見える空を見上げ、ほんの一瞬だけ、すべてがうまく行く可能性と、大きく失敗する恐れとの間で心が揺れた。だが次の瞬間には、その揺れを振り払うように拳を握りしめる。
「……行こう。ここで立ち止まったら、何も変わらないから。」
レオンが横目でそれを見て、苦笑まじりに呟いた。
「まったく……変わらないな。……まあ、付き合うか。退屈しのぎにはなる」
こうして、問題児クラス一同は招集を受け入れ、王都への旅立ちを決意する。だがその陰で、伯爵家や保守派、そして学園内の保守教師たちが何を企んでいるのか――。