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20. 決着

 数日が経ち、イヴァロール伯爵家の屋敷はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。エリス夫人の容体が劇的に好転し、数式魔法による刻印再構築の成功を誰もが実感している。


 その日、リュディアは母の寝室を訪れ、窓辺から差す柔らかな陽光のなか、ベッドに寄り添うように座っていた。エリスの頬にはまだ疲労の色が残るが、先日までの苦しげな表情はすっかり消え去っている。


「お母様……気分はどう?」

 リュディアは小さな声で問いかける。するとエリスは、ゆっくりまぶたを開けて笑みを浮かべた。

「ええ……少しずつだけれど、身体が軽くなってきたわ。あなたが守ってくれたんだね」


 その穏やかな声を聞いた瞬間、リュディアの胸にこみ上げるものがあった。

「私……お母様を捨てるなんて絶対にできなかった。ごめんね、苦しませてしまって。でも、もう大丈夫。刻印は安定したって、ユイスたちが言っていたから」


 エリスはリュディアの手をそっと握り返す。平民出身でありながら伯爵家に嫁いだその女性は、どれほど周囲の眼を痛ましく感じながらも娘を愛してきたことだろう。今のリュディアにとって、その事実こそが何より誇りだった。


「泣かないの。あなたが泣いていたら、私まで不安になってしまうわ」

「泣いてなんか……でも、少しだけ、ほっとしたの」


 リュディアは何かを振り払うように細く息を吐いた。まだ少し涙が目尻に残っている。


 ◇◇◇


 大広間の向かいにある小さなサロンでは、イヴァロール伯爵が執務机の前で家臣と話し合っていた。サロン越しに見える中庭には、控えめな花々が並び、暖かな陽気が差し込んでいる。伯爵は数式魔法を正式に否定できなくなったことに複雑そうな表情だ。


「伯爵様。今さら数式魔法を完全に排除するのは難しいでしょうな」

 家臣のひとりがそう言葉を濁すと、伯爵はうなずきながら苦い顔をする。

「まさか、平民の血による刻印を安定させるとは……こんな形でイヴァロール伯爵家が新技術を認めることになるとは想像もしていなかった」


 窓外に目を向けていた伯爵は、ふと細くつぶやく。

「とはいえ、私としてもエリスが無事になったことが何よりだ。あのまま失っていたら、リュディアは……」

 彼はそこで言葉を切った。娘の覚悟を目にして初めて、伯爵家の体面よりも家族の命こそが大切だと思い知ったのだ。


 少し離れたソファではレオンが、膝に書類を広げながら伯爵の背中を見やる。

「ずいぶんと難しそうですね」

 低い声でそう漏らすと、伯爵は振り返って小さく息をついた。

「……なにぶん、保守派への弁明も必要だろう。それでも数式魔法をやみくもに推し進めるつもりはない。危険性もある以上、段階を踏まねばならん。しかし、あれほど騒がれていた‘平民の血の暴走説’が否定された意味は大きい」


 それから伯爵は、机上に置かれた書簡に目を通す。保守派に対する説明と、伯爵家の意志表示をまとめた内容を固めるためだ。


「数式魔法を憎む者たちは少なくないが、こうして結果が出た以上、我々も今までのようには振る舞えない。イヴァロール伯爵家としては、エリスの回復を証明しつつ、新技術を認める立場を表明する……それしかないだろう」


 レオンは黙ってうなずく。机の横には、リュディアが自分の手でまとめた術式解説書や、レオンが解読した古文書の写しが揃っている。伯爵家としては苦渋の選択であるはずが、その決断がエリスを救ったという事実をもってしては、もう否定の余地がないということだ。


 ◇◇◇


 日が暮れるころ、小規模な貴族同士の集まりが伯爵家の客間で行われた。そこには伯爵をはじめとする家臣、そして保守派の代表格であるファルネーゼ陣営の代理人が顔を見せている。大々的なパーティというほどではないが、簡単な社交の場には違いなかった。


 リュディアは薄手のドレスをまとい、背筋を伸ばして客間の中央へ立つ。

「……改めて、ご心配をおかけしました。母の病は幸いにも快方へ向かっております」

 抑えた声だが、その響きにはしっかりとした意思がこもっている。視線の先にはファルネーゼ陣営の代理らしき初老の貴族がいる。


 彼は明らかに苦々しげだが、無理に笑みを作った。

「イヴァロール令嬢、それは何よりです。ですが……貴女の母上に施したのは、あの“邪道”の数式魔法だとか。はて、伯爵家として認めるのですか?」

 嫌味を込めた言い回しに、リュディアは瞬きを一度してから言い切る。

「ええ、認めます。数式魔法が母を救ったのは紛れもない事実ですし、平民の血を否定するような主張は成り立ちません」


 会場がざわりと揺れる。保守派がどう反応するか見守る貴族や使用人が動揺したのだ。その真ん中で、リュディアは一歩も引かない。


「母エリスは平民出身ですが、私にとってかけがえのない家族です。彼女を救った数式魔法を、伯爵家が完全に排除することはできません。母の血を恥じることなど、私は二度といたしません」


 代理人は視線をそらし、少し青ざめた表情を浮かべる。周囲の空気を読んだのか、彼はそれ以上の猛反発を控え、そっと口を閉ざした。ファルネーゼ陣営としても、エリスの回復という結果を前に何も言えなくなっているのだろう。


 すぐ横でイヴァロール伯爵がうなずき、落ち着いた声を上げる。

「イヴァロール家は今後も伝統を尊重しつつ、新技術を頭ごなしに否定することは避けるつもりだ。これ以上の討議は無益だろう。ファルネーゼ殿にも理解を頂きたい」

 伯爵はしっかりと視線を合わせて言い切る。保守派の者たちは暗い表情のまま押し黙り、客間に沈黙が落ちた。


 ◇◇◇


 その夜の終わり、客間の混乱が収束したころ、リュディアは母の部屋を最後に訪ねるつもりで廊下を歩いていた。途中、扉の影からひょっこりとユイスが顔をのぞかせ、遠慮がちに声をかける。

「……ああ、リュディア。会合は無事に終わった?」


 相変わらず少し目の下にクマがあるが、彼の瞳には安心感がにじんでいる。リュディアは歩を止めて、小さく息を整えた。

「だいたいね。母の回復を否定するわけにもいかないし、保守派も黙らざるを得ないの。正直、しばらくは裏でいろいろ騒がれそうだけど……今はそれでもかまわない。母が生きているんだから」


 リュディアは改めてユイスの姿を見た。自分の母を助けるために、夜通し研究し、危険な術式の制御にも挑んでくれた少年。つい先日までは、こうして二人で話すだけで反発してしまうような距離感だった。


「ユイス……本当にありがとう。あの数式魔法がなければ、母はどうなっていたか……」

 その声音は震えていて、ユイスが一瞬戸惑うほどだった。


「いや、俺だけの力じゃない。レオンや他のみんな、伯爵家の人たちだって必死になってたんだ。リュディアが最後まで諦めなかったからこそ、成功したんだと思う」


 いつもは皮肉交じりに応じるレオンも、今日はそばにいない。トールやエリアーヌ、ミレーヌもそれぞれの役割を終えて今は別の場所で休息中だ。廊下にはリュディアとユイスの二人きり。


 リュディアは大きく息をつき、視線をユイスに重ねる。

「あなた、フィオナって子のことが原因で、数式魔法を猛勉強していたのよね……。あの時は何も言えなかったけれど、今なら少しわかる気がするわ。守りたい人を救えなかった悔しさ、忘れられないのよね」


 ユイスはかすかに瞬きをして、苦い笑みを浮かべる。

「うん。フィオナを救いたかったけど、何もできなくて……でも、今度はリュディアの母を助けることができた。これで全部が報われるわけじゃないけど、少しは前に進めた気がする」


 そう言ったユイスの表情は、微弱ながら晴れやかだ。心の奥に抱えていた後悔を払拭するきっかけを、リュディアの母が与えたのかもしれない。


「あなたがいたから、私も母を捨てるなんて馬鹿なこと、しなくて済んだ。だから……ありがとう」


 まっすぐに向けられる感謝の言葉。それを受けたユイスがわずかに頬を赤らめ、目を伏せる。

「別に、礼を言われるほどのことじゃない。リュディアが覚悟を決めてくれたから、俺も最後まで踏み込めたんだからさ」


 二人の間に、しんとした静寂が落ちる。廊下のランプが淡い灯りを落とし、石床に伸びる影がゆらりと揺れる。リュディアはほんの少し照れたように視線を外し、それでも口を開いた。

「でも、母の刻印は完全に安定したわけじゃないって、レオンが言ってた。しばらくは再検査が必要になるんでしょう?」

「そうだね。術式の影響がどう継続するか、定期的にチェックしないと。俺もレオンも、まだ知らないことが多いから」


 リュディアはこくりと頷き、廊下を吹き抜けた夜風に髪を揺らす。

「あなたたちが研究を続けるなら、私にも手伝わせて。母のためにもなるし、伯爵家にとっても大事なこと。……それに、私自身も数式魔法をもっと知りたいから」


 いつものツンとした口調が少しだけ柔らかい。ユイスは意外そうに目を見開き、ほんの少し笑って答える。

「うん、助かるよ。正直、一人や二人じゃ大変でさ。リュディアが手伝ってくれるなら、心強い」


 それきり会話が止まり、一拍の沈黙。だが嫌な空気ではなかった。むしろどちらともなく、言葉にならない安堵感がそこに漂っている。


 リュディアは胸の奥に芽生えた小さな感情を抑えるように、「……ふん」と少しだけそっぽを向く。

「それじゃ、私は母の部屋に行ってくるから。あなたも少しは休んで。最近、夜更かしばかりじゃない?」

「はいはい。心配してくれるんだ?」

「そ、そんなわけじゃないけど……倒れられたら困るだけよ」


 お互い口を尖らせながらも、どこか嬉しそうだ。二人は軽く視線を交わし合ってから、違う方向へ歩き出した。


 ◇◇◇


 一方、邸内の別室。保守派の代理人たちは屋敷を後にする準備をしていた。

「まさか、本当に数式魔法で回復するとは……」

「どうします? このままでは伯爵家が改革派寄りになりかねません」

 悔しげに小声で話し合う男たち。彼らはファルネーゼ侯爵へ報告する義務があるが、逆に失態を責められぬよう、言い訳を考えているらしい。


「ふん、伯爵家など所詮、保守派の一角にすぎない。だが、あの小娘もエリス夫人も、いずれ痛い目を見るに違いない。数式魔法などが幅をきかせれば、いずれ王国全体の秩序が崩れるのだからな……」


 そんな不穏な言葉を残し、彼らは屋敷から消えていった。


 ◇◇◇


 翌朝、伯爵家の庭には淡い朝陽が射し込み、こぼれる光が花壇に映える。そこに佇むリュディアの姿を見つけたユイスは、おずおずと近寄る。

「今日は学園へ戻る準備をするんだよね。レオンや他のみんなも、そろそろ……」


 リュディアは花壇の花びらを見つめていたが、振り向くとすっと笑みを浮かべる。

「ええ、私も準備するわ。でも母を置いていくのは少し心配……父がちゃんと面倒を見てくれるとは思うけれど」


 彼女の瞳には、幾分余裕がある。守るべき家族を確実に救えたという確信が、リュディアを強くしたのだろう。


 ユイスもまた、母の病が回復に向かうエリスを思い、「もしも失われていたら」と想像するたび胸が軋む。それと同時に、過去のフィオナを救えなかった自分から、少しだけ前へ進めた気がしていた。


「リュディア。もし大変なことがあれば、いつでも連絡を。数式魔法の管理や、術式の再調整が必要なら、また来るよ」

「わかったわ。遠慮なく呼び出して困らせてあげる」

「ああ、喜んで困らせられるよ」


 どちらともなく笑みをこぼした瞬間、しばし静けさが訪れる。ユイスが花壇を見やりながら、ぼそりと呟いた。

「……保守派は、これからどう出るかわからない。教会の上層部だって数式魔法を快く思っていないらしい。俺たちは、やるべきことが山積みだ」


 リュディアは一瞬神妙な表情を浮かべるが、すぐに前を向く。

「仕方ないわね。私たちが引くわけにもいかない。母の命を繋いだ新しい魔法、それを誰もが潰そうとするなら……私は絶対に許さないわ」


 その決意にユイスは頷き、何も言わずに気持ちを汲み取る。そっと視線が交差したとき、二人の間に微妙な甘酸っぱさが漂うのを感じた。


 ほんのわずかな距離。しかし、それは以前のように互いを拒む壁ではなく、互いを意識し合うがゆえの恥じらいでもあった。


「……じゃあ、学園に戻ったらまた作戦会議ね。レオンも気合い入れてるし、私だって負けないんだから」

 リュディアが胸を張ると、ユイスは困ったような笑みを浮かべながら答える。

「了解。新しい術式の研究と、伯爵家のサポートも並行してやらなきゃだね。……大変だけど、リュディアが一緒なら心強い」


 そう言われ、リュディアは一瞬目を伏せる。耳がうっすら赤く染まっているのは、日差しのせいだけではないだろう。


「変なこと言わないで。さ、さっさと行くわよ」

 気恥ずかしそうに先に歩きだすリュディア。その背を追いかけるように、ユイスは一歩踏み出す。


 エリスの命を救い、家名を捨てずに済んだ。だが、それはゴールではなく、また新たな始まりにすぎない。伯爵家を取り巻く保守派の動き、教会や王族の思惑、数式魔法への警戒は今後さらに高まるだろう。


 けれども、二人は揺るがない決意を抱いている。リュディアが大切な母を守ったように、ユイスがかつて救えなかった相手への思いを乗り越えたように。次に何が起きようとも、もう容易に諦めることはないはずだ。


 小鳥のさえずりが聞こえる庭を横切り、リュディアとユイスは並んで屋敷の玄関へ向かった。二人の足音が重なり、伯爵家に降り注ぐ朝の光が、これからの新たな道を示すかのように柔らかく輝いていた。

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