19. リュディアの涙
大広間に満ちた光が徐々に落ち着いていった。壁際で身を伏せていた使用人や家臣たちが、おそるおそる顔を上げる。床には焦げたような痕がいくつも走り、つい先ほどまで真っ白に染まっていた空間に淡い煙が漂っていた。
部屋の中央に設置された寝台を、リュディアが必死に揺さぶっているのが見える。彼女の肩は小刻みに震え、その先にはまだ横になったままのエリスの姿があった。
「お母様……聞こえる? 返事を……返事をして、お母さま!」
リュディアの声はかすれて途切れがちだった。つい先ほどまで、刻印の暴走を抑え込むために飛びかう閃光と衝撃をまともに浴びたのだ。周囲にいた者たちは皆一様に息を呑んで動きを止める。声をかける者も、嘲笑する者も、今は誰ひとりとして何かを言いだそうとしない。
◇◇◇
ユイスは床に手をついて、そのままひどく荒い息を吐いていた。視界はまだちらつき、耳鳴りが収まらない。魔力が暴走しかけた刻印を、強引に数式魔法で再構築する——そんな無謀な手段を選んだ代償は、術者にも大きな負担をもたらす。
それでもユイスは必死に顔を上げ、リュディアの方を見つめた。その後ろに、同じく倒れ込みそうなレオンの姿がある。彼は書類の束を腕で抱え込むようにしていたが、それを放り出すことなく歯を食いしばっている。
「……どう、なった……?」
ユイスが、息を詰まらせるように声をかけると、レオンもかすかに首を振った。
「わからない……でも、暴発は回避したはず……」
言いかけて、次の言葉が続かない。彼の胸もまた大きく上下し、呼吸が乱れていた。
◇◇◇
「お母様!」
リュディアがもう一度強く呼びかける。エリスの白かった頬にはまだ汗が浮いているが、その呼吸は先ほどまでのような苦しげな乱れが見られなかった。
ほんのわずかに、エリスの瞼が震える。
そのとき、リュディアは息を呑んだ。エリスの瞳が、光を探すように薄く開かれたからだ。
「……リュディア……?」
あまりに弱々しい声。しかし確かに耳に届く。それを聞いた途端、リュディアの目には大粒の涙が溢れた。
「お母様……お母様っ! よかった……本当によかった……!」
激しい嗚咽とともに、リュディアは母を抱きしめる。先ほどまでどれだけ声を上げても届かなかった意識が、今ようやく戻ってきた。それは奇跡と呼ぶべき光景だった。
◇◇◇
「そんな、ばかな……!」
傍らで呆然とした声をもらしたのは、保守派の医師ヴェルト・グラメルだった。灰色の髪を振り乱しながら、彼は寝台へと駆け寄る。
「平民の血統が混じった刻印が、まさか数式魔法ごときで……」
震える手でエリスの脈を測り、瞳の動きを確認している。するとグラメルの顔はみるみる蒼ざめ、うろたえた視線でユイスやリュディアを交互に見やった。
「ありえない……これは何かの錯覚か……」
その医師の背後では、派手な外套をまとった保守派代理の男が、不満そうに唇を噛みしめている。先ほどまでは堂々と「平民の血筋ゆえに暴走は必至、見捨てるしかない」と騒いでいたが、目の前でそれを覆されてしまっては形無しだ。
「信じられない……しかし、事実だ……」
医師がしぶしぶ洩らすと、控えていた伯爵家の家臣たちが顔を見合わせる。
すると、リュディアの父であるイヴァロール伯爵が、すっと寝台に近づいて、まだ横たわるエリスの頬にそっと手を触れた。
「エリス……おまえ、本当に……助かったのか……」
伯爵の声には戸惑いと喜びが混ざりあっている。目の奥は赤く潤んでおり、自分でも信じられないのか、一度まばたきしてからエリスを見つめ直した。
うっすらと開いたエリスの瞳が、伯爵の方へゆっくり動く。
「こんなに……大勢が……どうしたの……わたしは……」
かすれた声。だが生気を失ったままだった先ほどまでとは明らかに違う。辛うじて周囲を認識できている証拠だ。
◇◇◇
トールとエリアーヌ、ミレーヌもようやく動けるようになり、ユイスとレオンの背を支えに近づいてくる。
トールが小声で「あ、あぶねえ……ほんとにどうなるかと思ったぞ」と汗を拭った。エリアーヌは目に涙をためつつ、ぱちぱちと感激の拍手を打ちそうになって、慌てて口を押さえる。ミレーヌは胸をおさえ、放心したように俯いたまま肩を震わせている。
ユイスはレオンと視線を交わした。二人とも満身創痍だ。だが、やり遂げた。古文書の解析を急ぎに急ぎ、数式陣の制御を何度も修正しながら命がけで暴走を封じ込めた。その成果が、まさに今ここで証明されたのだ。
レオンは苦笑まじりに小さくつぶやく。
「……成功したんだな……俺たち、ホントに……」
言いかけて、くしゃりと床に膝をつく。その肩を、ユイスが支える。
「当然さ、最後まで諦めなかったからな……」
息も絶え絶えでありながら、ユイスの声には力強さが残っている。
◇◇◇
「お母様……」
リュディアはエリスの手を両手で包むようにして握りしめていた。先ほどまで強張っていた表情が、崩れ、涙があとからあとから零れ落ちる。
「本当に……戻ってきてくれて……」
その声を聞いたエリスは、まだうまく周囲を把握できないながらも、か細い笑みを浮かべる。
「リュディア……心配かけたのね……」
静かな空気が広間を満たす。壮絶な閃光と衝撃で満ちていた空間が嘘のように落ち着きを取り戻し始めた。息を飲んでいた家臣たちも、少しずつざわめきを取り戻す。
「……奇跡……か……」
誰かがそう呟いた。保守派の兵たちまでもが、複雑そうな表情を見せながら驚きを噛みしめている。
「奇跡じゃな」
ユイスが床を支えにしながらも、すっと顔を上げる。
「あれだけの資料と、レオンの解読、そして……リュディアの必死な思い……全部が合わさった結果だよ」
◇◇◇
イヴァロール伯爵はエリスの手を握るリュディアと、ぐったりしながらも立ち上がったユイスたちを見渡し、何かを言おうとした。が、感情がこみ上げたのか、言葉が出ない。
明らかに動揺している伯爵をよそに、周囲にいた家臣の一人がユイスを見て声をかける。
「まさか……本当に数式魔法で……。こんなことが……」
その動揺の波を感じ取り、保守派代理の男が肩をいからせて割り込むように叫んだ。
「これしきで……何も証明したとは限らんぞ! たまたま運がよかっただけだ! それに、まだ夫人の症状が完全に消えたのか、医師としては認められない!」
だがその言葉に、もはや説得力は感じられない。部屋に広がる雰囲気は、明らかに母を救い出せた安堵と喜びに支配されていた。
グラメル医師は半歩退いて唇を噛み、開きかけた口を閉じる。ここで何を言っても大勢が変わらないと悟ったのだろう。
「異端の奇跡、だの……くっ、覚えていろ……」
小さく呟いて悔しそうに足を引きずると、保守派の配下たちは部屋の隅へと身を引いた。
◇◇◇
父が、まるで操り人形の糸が切れたかのように、ずるりと床へ膝を落とす。その姿を見たリュディアがはっとして口を開く。
「父様……」
だが伯爵は首を振り、妻と娘を見据えたまま、声を震わせながら笑みを浮かべる。
「ありがとう……助かった……。リュディア、おまえも……よく耐えたな……」
その瞳に浮かぶ涙は、本当に少しだけだったが、控えめな人柄がむしろ痛いほど伝わる。家臣たちもそれを見て、言葉にならない感情を共有している様子だった。
◇◇◇
「リュディア……あなた、顔が……」
エリスが弱々しく娘の頬を撫でる。リュディアは視界をぼやかしながら、必死に笑った。
「平気……平気よ。母上が生きていてくれれば……それで十分……」
込み上げる声を必死に抑え、シワだらけの毛布をぎゅっと握りしめる。
そこへそろそろと歩み寄ったのはユイスだった。まだ全身の力が入らないのか、足元がおぼつかない。しかしレオンとトールに支えられながら、寝台の傍へたどり着く。
「リュディア……よかった……ほんとに……」
ユイス自身も顔に疲労が刻まれているものの、安堵の笑みを浮かべた。
一拍置いて、リュディアがユイスの方を振り向いた。涙でぐしゃぐしゃの顔を晒したままだが、その目には複雑な思いが混ざり合っている。
口を開きかけ、しかし言葉にならない。代わりにこみ上げてくるものがあるのか、リュディアの喉が震える。
「……ありがとう……。あなたがいなければ、こんな奇跡……起こせなかった……」
途切れ途切れの声。彼女は意識していた高慢な態度や貴族らしいプライドなどどこかへ捨て去ったかのようだった。
ユイスは首を振る。
「レオンの解読と……みんなのサポートがあったから、俺は……最後まで術式を制御できた。リュディアも……絶対に母親を見捨てないって……それが何よりの力になったんだ。」
リュディアは答えずに、ただ小さくうなずく。瞳に浮かぶ涙をそのまま見せながら、ユイスの手をそっと取った。震える細い指先が、何かを確かめるかのように、ユイスの温もりを感じ取っているように見える。
レオンはそれを静かに横目で見守っていたが、ふと目を伏せて苦笑した。
「……やれやれ……これで、俺の古文書漁りも無駄じゃなかったってわけだな……」
彼の声はまだかすれ気味だが、どこか誇らしげでもある。エリアーヌとミレーヌが小走りに駆け寄り、「すごいよ、ほんとにすごい」と微笑んで肩を叩く。レオンは照れくさそうに顔をそむけるだけだった。
◇◇◇
部屋の外には、いつの間にか多くの家臣と使用人が詰めかけていた。大広間の扉が開きっぱなしになっており、中の様子を見ようと人々が遠巻きに集まっているのだ。
その中には当然、保守派の監視役も含まれていたが、成功の事実を前にしては声を張り上げる気にもなれない様子だ。
「リュディア……落ち着いたら、母上をもう一度診せに行こう。安全の確認とか……色々あるし……」
ユイスがそう提案すると、リュディアは涙まじりの笑顔を見せる。
「ええ……そうね……少し休んだら、伯爵家の医療室で診察してもらうわ……」
彼女は母親の肩に毛布をかけ直しながら答える。エリスが浅く息をつくたびに、リュディアもいちいち安堵の表情を浮かべている。
伯爵は使用人に合図し、広間の周囲を片づけるよう指示を出した。散乱した魔道具や数式陣の跡が、激しい闘いの名残を物語っている。
「……今夜は休むといい、ユイス。それからレオンも……そなたらには無茶をさせた……。皆もそうだ。とにかく落ち着いて……」
疲れ果てた声でありながら、その口調には深い感謝が滲んでいた。
やがて、保守派の者たちが渋々と通路を空ける。彼らの中にはファルネーゼ派の顔もあったが、ここで騒げば嘲笑されるだけだと悟ったのか、苦虫を噛み潰したような表情で一人、また一人と姿を消していく。
「……異端の数式など、一時しのぎ……」
悔しそうな声が微かに聞こえたが、誰もそれを追及しなかった。
◇◇◇
大広間は、今になってようやく穏やかな空気を取り戻しつつあった。
リュディアの母は意識こそ薄いものの、命の危険といえる状態からは離れた様子だ。リュディアはエリスを支えるようにして、その手を離さない。ユイスとレオン、そして仲間たちは、重い緊張の糸が切れたように次々とその場に腰を下ろした。
「はあ……」
トールが大きく伸びをする。エリアーヌとミレーヌはお互いを見合って、一斉に表情をほころばせていた。
レオンはふと室内の隅を見やった。そこには、未だに心の整理がつかないまま立ちすくむヴェルト・グラメル医師の姿がある。レオンは言葉をかけようか迷ったが、今は何も言わないほうがいいだろうと思い直した。医師の形だけの威圧や否定を聞くよりも、この静寂を優先したほうが皆にとって救いになる。
やがてリュディアは、ユイスとレオンの方ににじり寄るようにして深く頭を下げる。
「みんな……本当にありがとう……どれだけ礼を言っても足りないくらい……感謝してる。」
その姿を見て、ユイスはかぶりを振る。レオンは頬をかいて少し照れるようなそぶりを見せる。
トールは恥ずかしそうに鼻を鳴らし、「何言ってんだよ! 俺ら仲間だろ」と照れ隠しにそっぽを向く。エリアーヌは「ほんとにうまくいってよかったね!」と瞳を潤ませ、ミレーヌは「こんな大仕事にかかわれるなんて……」と胸を押さえて大きく息をついた。
伯爵は彼らのやりとりを黙って見守っていたが、やがて意を決したように腰を上げた。
「ユイス。レオン。そなたたちを、あらためて……いや、トール、エリアーヌ、ミレーヌも含め、全員を心から讃えたい。私の妻を……私の家族を救ってくれて、ありがとう。」
年長者の落ち着いた声でそう言いながら、伯爵は深く一礼する。思いがけないその仕草に、ユイスやレオンは言葉を失った。伯爵家の当主が直接ここまで頭を下げるなど、ふだんならあり得ないことだろう。
「ですが……」
伯爵は一度息を飲み込むようにして続ける。
「数式魔法がここまでの力を持つと知ってしまえば、保守派はますます警戒を強めるでしょう……。今日のところは休みなさい。また改めて話を聞かせてもらいたい。私にも、わからないことが多くてね……」
リュディアは伯爵の言葉に小さくうなずく。
「父様……ええ、わかりました。母上が落ち着いたら、私たちもあらためて……」
広間の片づけを命じられた使用人たちが、魔道具の残骸や床に描かれた数式陣の跡を手際よく掃除しはじめる。トールが「手伝うぜ」と声をかけて手袋をはめ、エリアーヌとミレーヌも加勢しはじめるのが見えた。ユイスとレオンはまだ体の震えが残っているようで、それを見て申し訳なさそうに目をそらす。
リュディアは最後にもう一度エリスの額に手を当て、熱の具合を確認した。ほんのり汗ばむ肌は、先ほどよりはるかに安定している。
「母上、しばらく休んでいてください……もう大丈夫だから……」
その声に、エリスもほっとしたようにまぶたを閉じた。
◇◇◇
空気は、さきほどの暴走と爆発的な光が嘘のように静まった。
ユイスはまだ足元がふらつくのを感じながら、レオンに肩を借りて廊下の方へ向かう。廊下の外れには、冷たい表情を浮かべる数名の保守派貴族がいたが、ユイスらと目が合うと隠れるように身を引いた。その奥で、何人かの使用人が恐る恐るこちらをうかがっている。感謝の視線と驚嘆の入り混じった視線が、ユイスには何とも言えない重みをもって伝わる。
「ふう……落ち着く暇もなかったけど、何とか……ね……」
レオンが小声で言う。ユイスは返事の代わりに、ごく短く息をついた。
「本当に……助かった」
その言葉はリュディアの母にだけ向けたものではなく、レオンや仲間たち、そしてあの激戦を耐え抜いた自分自身にも向けられていた。