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18. 刻印再構築

 夜の帳が降りきった伯爵家の大広間。壁際には大きなソファやテーブルが押しのけられ、中央に描かれた複雑な魔法陣が月明かりと魔導灯の照り返しを受けて微妙な光を帯びていた。


 寝台の上、エリス夫人はまだ息が浅く、ほとんど意識のないまま頬の色を失っている。傍らでリュディアがその手をそっと握る。その様子を見つめるユイスとレオンは、最後の確認をするかのようにノートや古文書の写しを何度も見返していた。


「ユイス、置き忘れた物はないか? 道具の配置は全部あってる? 座標をずらすとこっちの術式が噛み合わなくなる」

 レオンがひそやかな声で念押しすると、ユイスは強張った表情のまま、すぐ近くの魔道具を指差した。

「トールが置いてくれた封鎖結界の発生器はあれで十分。万が一、刻印が暴走しても結界内に封じ込める見込みだ。……もっとも、失敗はしたくないけどね」


 トールは大きな木箱の陰で腕組みしながら何度かうなずく。彼の後ろではエリアーヌとミレーヌが資材を最終的に整え、焦げたような臭いや変なガタつきがないかを確認していた。広間に漂う空気は張り詰めていて、誰も大きな声を出そうとしない。


 リュディアが寝台から顔を上げた。目の下には深い隈ができ、髪にはところどころ乱れたまま。だが、あの決意を口にしてからは、ただ母を救うことだけに意志を燃やしているように見える。

「……母がこんな状態じゃ、もう待ってられない。今すぐ始めてもいいわよね?」

 ユイスは小さく息を吐いて頷く。

「刻印再構築は、まだどこにどんな罠があるか分からない。でも少しでも遅れたら、その間にお母さんの容体が持たないかもしれない。……だから、やろう」


 レオンも無言でノートを閉じ、床の魔法陣を見やった。そこにはいくつもの円と線が重なり合い、中心に寝台を置くための小さな空間がある。あらかじめエリス夫人ごとベッドを運び込んだのは、儀式をできるだけ安全にかつ迅速に行うためだ。


 ◇◇◇


 広間の奥に立つイヴァロール伯爵は、家臣らを遠巻きに控えさせている。保守派の監視役と思しき男たちも数人立ち会い、嘲るような眼差しを投げている。

「まったく……どれだけ時間をかければ気が済むのか。異端の魔法に頼るなど、どれほど愚かだろうな」

 声を押し殺したような嫌味が聞こえてくるが、伯爵は強く反論しようとしない。苦しげに唇を噛み、ただ娘と妻を見つめる。その脇で家臣の一人が小声で伯爵に話しかける。

「旦那様、今からでも式を止めれば保守派の圧力は弱まるかと……」

「もう遅い……決めたことだ」

 伯爵の声は沈んでいたが、そこには退く意志がないことを示すかのような鈍い光があった。


 ◇◇◇


「リュディア」

 ユイスが緊張で少し震える声で彼女に呼びかける。

「……いいか? 今から刻印を強制的に書き換える術式を起動する。母上の身体が大きく反応するかもしれない。暴走しかけた刻印が、数式魔法を拒絶する可能性もある」

 リュディアは唇を噛んで静かに頷く。

「わたしは母のそばで見守る。最初の衝撃があるなら、この手で支えていたい。……怖いけど、誰よりも母を失うのは嫌だから」


 レオンがノートをめくり、細かい計算メモを指差してユイスに視線を送る。

「術式起動のシグナルはおまえの詠唱に任せる。俺は手元で位置座標と魔力収束のタイミングを合わせるから、少しでも狂えば言ってくれ」

「わかった」

 ユイスは自分に言い聞かせるように目を閉じ、ふう、と一つ呼吸を整える。

「よし……みんな、気を付けて。結界が展開されるまでの間が一番危険だから」


 トールは大きく頷いて腰を落とす。いつでも人をかばえるように身構えるつもりらしい。エリアーヌとミレーヌは少し後ろへ下がりながらも、周囲の魔道具の制御が狂わないか必死に見張っている。保守派の人影が「勝手に滅びろ」とでも言いたげな表情で壁近くに立っていたが、その嘲笑が耳に入る余裕はなかった。


 ◇◇◇


 ユイスが先に、低い詠唱を開始する。彼が唱えるのは一般的な治癒術の呪文とは違う、数式化された特殊な詠唱。レオンが横で魔力干渉計をにらみ、数式陣の座標と付き合わせるように手を動かしている。

 床に描かれた陣が薄緑の光を帯び始めると同時に、リュディアが母の手をきゅっと握りしめた。

「お母様……」


 魔力の流れが、すうっと空気を震わせていく。最初は穏やかだったが、その振動はみるみる大きくなる。ローブの袖先が風で揺れ、エリアーヌの持つ道具の金具がかすかに音を立てる。


 レオンが短くつぶやいた。

「問題ない、いまのところは順調だ」

 だがユイスは陣の中央に視線を注いだまま、汗を滲ませている。

「……刻印の動きが予想より強い。ちょっと待って、ここから数式を切り替える」


 エリス夫人の胸元あたりが淡い光の帯に包まれた。彼女がわずかに眉を寄せ、苦しげに小さな声を漏らす。リュディアは動揺を抑えながら夫人の額に触れ、声にならない呼び掛けを続けた。


 ふと、陣全体が急に明滅を始める。ユイスが詠唱を変化させたのだろう、光の強さが二段階、三段階と増幅していく。床から吹き上がるような魔力の風がユイスとレオンの髪をあおる。

「くっ……」

 ユイスが片手で目を覆うようにしながら、別の呪文の断片を走らせる。レオンが横でノートを指し、「数値がずれてる!」と鋭い声を上げる。


「今、リライトする!」

 ユイスが叫ぶと同時に、陣の中で白光が暴れだした。リュディアは母の肩を押さえ込むように必死に耐える。四方から突風のような力が収束し、寝台のカーテンがはたはたと大きくはためく。


「やばい、刻印が抵抗してるぞ!」

 レオンが術式メモを片手に、必死に追加の数式を書き込み始める。保守派の一人が広間の外れから「ほら見ろ、暴走だ!」とあざ笑うが、誰も振り返る余裕はない。


「ユイス! いつ結界を展開する!?」

 トールの声が床の振動にかき消されそうになる。ユイスは魔力の渦に耐えつつ、途切れ途切れに返す。

「まだだ……今展開したら逆流でエリス夫人に負荷がかかる! もっと刻印を弱めてからじゃないと……」

 言い終わらないうちに、エリス夫人の身体を覆う光がさらに激しく閃いた。一瞬、夫人が小さく悲鳴のような声を上げる。


「お、お母様……!」

 リュディアは目を見開き、母の体を必死に押さえる。陣の上を走る魔力の火花が、手の先をかすめて熱を感じさせる。


 レオンが刻一刻と数式を修正しているが、どうにも刻印が激しく暴れているらしい。

「やばいぞ……崩壊までいくかもしれない!」

 そう呟いた時、ユイスが大きく低い声で叫んだ。

「リライティング、いく……!」


 床から吹き上がる魔力が一斉に跳ね上がる。白い閃光が部屋を満たしていき、視界がぐにゃりと歪んだ。家臣らの悲鳴が遠くから聞こえる。トールが「下がれ!」とエリアーヌやミレーヌをかばい、炎魔法を手のひらに溜めようとしている。


「くそっ、ここまでかよ!」

 レオンが膝をつきながらもノートを抱え込み、ユイスの動きに合わせる。リュディアは寝台にしがみつき、「お母様……頑張って……!」と必死に呼びかける。


「いま結界だ、トール! 急げ!」

 ユイスが振り返らずに怒鳴る。トールはタイミングを見計らい、手元の制御結晶を叩きつけた。結界がばっと展開し、轟音が部屋を震動させる。


 ──その瞬間、陣の真ん中で閃光が弾けた。空気が裂けるような衝撃音とともに、視界が真っ白になっていく。


 リュディアの悲鳴にも似た叫びが聞こえる。ユイスは光に飲まれる感覚の中で、最後にリライトした術式が間に合うかどうかを必死に思い描いていた。古文書の記述と数式がかすれる頭を駆け巡り、彼の意識は途切れそうになる。


 眩い光が一気に増幅し、世界が白一色に染まる。轟音、衝撃、誰かの声——すべてが混沌として耳鳴りしか残らない。しばらくして、光と音が一気に収縮したように広間はしんと静まり返った。


 ◇◇◇


 誰もが息をのむ暗転の中、埃の臭いと魔力の残滓が立ちこめる。結界がどうなったのかも見えない。暴走が止まったのか、それとも成功したのか。

 しかし、まだ誰にも答えは分からない。


 広間いっぱいに漂う光の残響と、ひび割れたようにゆがむ空気。リュディアが母を抱えている姿も、ユイスとレオンの所在も、まだ目に入らない。

 白い靄のような余波が消えぬまま、伯爵家の人々は凍りついたように動きを止めていた。


 そして闇に沈む空間の中、ほんのかすかな声がどこかで洩れた——エリス夫人のものであればいいのにと。

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