2. 入学式
夜明け前、育成クラス寮の小さな部屋では、ユイスが机にかじりつくようにノートを睨んでいた。夜通し書き込んだ数式魔法のメモには乾いたインクの跡がくっきりと残り、彼の袖口にも染みができている。短い仮眠をとっただけの身体には疲労がこびりついていたが、今日から本格的に始まる学園生活を思えば、ゆっくり寝ているわけにはいかなかった。
やがて朝日が差し込み始める頃、育成クラス寮の食堂へと足を運ぶ。そこには朝食を取りながら行き場のない緊張を漂わせる新入生たちの姿があった。硬いパンと薄いスープが並んでいるだけの質素なメニューだが、ユイスは椅子を引き、テーブルに腰を下ろす。
「よ、ユイス。あんまり寝てないんじゃないか?」
向かいの席で大きく欠伸を噛み殺しながら、トールが声をかけてきた。筋肉質な身体の彼も朝から硬いパンを食べにくそうにかじっている。
「まあ、ちょっとな。でも問題ない。ここのパン、かなり固いな」
ユイスがそう呟くと、隣に座っていたミレーヌが小声で相槌を打つ。
「私、昨日寮に来てからずっと落ち着かなくて……ほとんど眠れなかったんです。こんな朝食でも有り難い、って思うんですけど、正直、もうちょっと柔らかいパンが食べたい……」
彼女は半ば自嘲するように笑い、控えめにスープを口に含む。慣れない環境や入学式への不安が重なっているのだろう。
「ま、今日は入学式だし、どのみち緊張するのは仕方ないわな!」
トールは無理に空元気を出すように声を上げ、パンをかじる勢いだけはやけに良い。ミレーヌがそれを見てくすりと微笑んだ。ユイスは食堂の古い壁紙に一瞬視線をやり、静かにパンを千切る。昨日までに実感した身分差の重さや、魔力量の低さによる侮り。それを思うと、味気ない朝食に文句をつける気にはなれない。
「ま、急いで食べよう。式に遅れたら、さらに“問題児”扱いされるだけだろ」
ユイスが軽く促すと、トールとミレーヌは慌ただしく食器を片付け始める。ここから大ホールまでは少し距離があるし、式が終わったら一日がっつり貴族社会の冷たい視線を受けることになるだろう。ユイスはそんなことを考えながら、ノートを小脇に抱え、さっさと席を立った。
王立ラグレア魔術学園の大ホールは、まるで王城さながらに豪奢な装飾で彩られていた。高い天井から下がるシャンデリア、壁面を覆う壮麗な絵画、足音を吸い込む深紅の絨毯。その中を、見るからに家柄の良さを誇る貴族生たちが思い思いに言葉を交わしながら進んでいく。
ユイスたち育成クラスの学生は入口付近で足を止め、あまりの場違いな雰囲気に息を呑む。トールが落ち着かない様子で視線をさまよわせ、ミレーヌは人混みに飲まれそうに俯いている。
壇上には、王家の使いなどの来賓と並びつつ、伯爵家の令嬢リュディア・イヴァロールが中央に立っていた。薄桃色の正装は高貴なイメージを放ち、その物腰には弛まぬ努力で培われた気品がある。金や銀の豪華な飾りをまとっているわけではないのに、その佇まいだけで会場の視線を引き寄せる。
「彼女、母が平民出身らしいんだけど……純血の伯爵家じゃない、って陰口を叩かれても全然動じないんだって」
「ああ、それでも成績はトップクラスで、今こうして代表挨拶してるんだろ」
ホールのあちこちでささやかれる噂に耳を澄ませながら、ユイスは壇上のリュディアに目を向ける。確かに、貴族の華やかさを纏いながらも、その瞳の奥にはどこか違う色があるように見えた。
リュディアは一度呼吸を整え、はっきりと聞き取りやすい声で話し始める。
「本日、王立ラグレア魔術学園へ入学された皆さん、おめでとうございます。私たちはここで魔術と知識を学び、王国を支える人材となるべく研鑽に励むこととなります。何かを生み出すうえで大切なのは、出自でも血統でもなく、互いに学び合う意志だと私は信じています」
彼女の言葉が響くたび、会場のざわめきが収まっていく。その堂々たる声に、貴族生からも庶民生からも小さな感嘆が漏れる。ユイスは壇上を凝視しながら、ごくりと唾を飲んだ。
(出自だけが全てじゃない……本当に、そう思っているんだろうか?)
ユイスの胸にかすかな疑問が浮かぶ。リュディアの視線が一瞬、遠くの方を見据えたまま、微かな葛藤を宿す。血統至上主義が浸透するこの学園で、彼女も何かしら苦しい立場に置かれているのだろう。
式が進行する中、視線をさらっていく存在がもう一つあった。ギルフォード・グランシス、侯爵家の嫡男だ。金の刺繍をあしらった高級感のある制服に身を包み、取り巻きの貴族生とともに壇下で傲然とした雰囲気を漂わせている。
「ギルフォード……あれがエリートクラスの筆頭格か」
「強烈な魔力量らしいよ。血統魔法も相当だって、うわさだ」
周囲の学生がひそひそと話す声が聞こえ、ユイスはちらりとそちらを見やる。ギルフォードは視線に気づいても目を逸らすどころか、逆にあからさまに見下ろすような態度をとる。その背後には“最強上級生”と呼ばれるアスラという存在も見受けられたが、こちらにはまったく関心がないのか、遠巻きに静かに立っていた。
やがて式が終わりに近づくと、貴族生たちはそれぞれの集団を形成して華やかに引き上げていく。育成クラスの生徒たちは取り残されるようにホールを出る形になり、あからさまな空気の違いを肌で感じた。
そして、ホールから出た直後の廊下で、耳障りな嘲笑が聞こえてくる。
「あれが特例奨学生? でも実際は育成クラスなんだろ? 落ちこぼれとどう違うわけ?」
「まあ、所詮は凡人が無理してるだけじゃない?」
どこか知らない上級生らしき面々が、すれ違いざまに軽く笑いを残す。トールが悔しげに拳を握り、ミレーヌはうつむいて唇を噛んだ。
ユイスは怒気を表に出さないようにしながら、静かに廊下を歩く。袖口に掴んだノートから、かすかにインクの匂いが漂う。
(絶対にこのままでは終わらない。数式魔法を完成させて、彼らの思い上がりを覆してみせる)
中庭へ出ると、晴れやかな青空が広がっていた。色とりどりの装いをした貴族生が花のように散らばり、育成クラスの学生たちは遠巻きに歩く。リュディアの姿も一瞬見かけたが、周囲の友人や従者に囲まれてすぐに視界から消える。
ユイスはトール、ミレーヌとともに古い寮へ帰る道へ足を向ける。途中、ミレーヌが落ち着かなさそうに声を落とす。
「……ユイス、これから本当に大丈夫、ですよね?」
「大丈夫かどうかは、俺たち次第だ。だから、俺はやるよ」
彼の口調は淡々としているが、その瞳に宿る決意は強い。育成クラスの仲間たちと共に、どんな圧力が待ち受けようと逃げない。研究を進め、弱者を助ける魔法を完成させる――その想いこそが、ユイスを奮い立たせていた。
こうして、王立ラグレア魔術学園での正式な初日が幕を開けた。華やかな貴族たち、伯爵令嬢リュディアの凛とした姿、そして圧倒的魔力を誇るギルフォードら。ユイスは軽くノートを抱え直し、蔑視に満ちた視線の裏に存在する社会の歪みを、いずれ自分の手で壊してみせると心に誓う。
鐘の音が遠くで鳴り、午前の日差しが校舎の影を伸ばす頃。彼の背中には、あの質素な朝食の時間では感じられなかった熱が、確かに燃え上がっていた。