1. ふたりの約束
「大人になったら結婚しようね。」
まだあどけない声音でフィオナがそう囁いたのは、村はずれの川辺。空はどこまでも青く、川面が陽光を受けて金の鱗のようにきらめいている。足元に広がるのは柔らかな草地。耳をすませば、遠くで牛やヤギの鳴く声が混じり合い、ここがいかにのどかな農村であるかを教えてくれる。
だが今、この場所にいる二人の子どもにとって、世界はここだけで十分だった。どこまでも穏やかで、どこまでも優しい。大人になれば別の場所へ踏み出せると、当たり前のように信じている。
フィオナは川辺の大きな石に腰かけ、川の水を足先でぱしゃりと跳ね上げていた。頬に当たる風が心地よいのか、彼女は薄茶色の髪をくしゃりと揺らしながら、何度も同じ言葉を繰り返す。
「結婚して、一緒に学園へ行って、もっと上手に魔法を使えるようになって……そしたらすごいことがいっぱいできそうじゃない?」
首をかしげるようにして笑う姿は、まるでいつまでも純粋な夢だけを信じていられるかのようだった。
その隣で、ユイスは川面に手を浸しながらやや照れくさそうに視線を落とす。
「うん……僕も、強い魔法が使えたら、フィオナのこと、ずっと守ってあげられるんだろうな」
本音を漏らすと、フィオナが「ね、約束だよ?」といたずらっぽく言って小指を差し出してきた。ユイスは何の戸惑いもなく、同じように小指を絡ませる。
「……絶対に、一緒に行こう」
約束を交わす二人の間で、暖かな風が川の香りを運んでいく。水音はゆるやかで、草の葉擦れと混じって優しい調べを奏でる。ときどきフィオナが嬉しそうに笑う声が、その調べをさらに彩り豊かにしていた。
そんな幸福に満ちたひとときを、ふいに遠くから響く馬蹄の音が断ち切るように割り込んできた。ぱか、ぱか、と乾いたリズムを刻みながら、きらびやかな馬車が村の外れの道を進んでいく。いつもは通らないような豪奢な装飾がほどこされた車体。その周囲を囲む兵士たちが周囲を警戒するように歩調を合わせている。
「領主様の……馬車、かな」
フィオナが手の平でまぶしそうに光を遮りながら、そっとつぶやく。
その途端、のどかだった村の空気が、少しだけ張り詰めた。畑で農作業をしていた人々が一斉に手を止め、軽く頭を下げる。普段ならば笑い声の絶えない村人たちも、貴族階級である領主カーデルを目の当たりにすると、まるで息を潜めてやり過ごそうとするのだった。
「あんな馬車、初めて見た……」
ユイスが視線の端に捉えながら小声で言う。まだ幼い彼の目には、きらびやかな飾りよりも、その存在自体が大きく、遠いものに感じられた。村の誰一人として、気軽に話しかけられるような相手ではない。その馬車が通り過ぎる間、賑やかだった空気はどことなく重苦しく変わってしまう。
馬車が道を先へ進んで見えなくなると、村人たちは何事もなかったように再び作業へ戻っていった。しかし、引き締まった様子はどこかに残っている。領主への敬意なのか、それとも恐れなのか――その両方なのだろう、と幼い二人にさえ伝わるほどに。
「なんだか少し怖いね」
フィオナがぽつりと漏らした声は、先ほどまでの晴れやかな調子とは違って小さく沈んでいる。
「うん……」
ユイスもうまく言葉を返せずに、ただ目を伏せた。なんとなく、先ほどまで話していた未来の約束が、実現しにくいような気がしてしまう。領主の馬車は、二人が住むこの村と“貴族の世界”との大きな隔たりを見せつけているかのように思えた。
同時にユイスには自分でも理解しきれない奇妙な感覚がわずかに広がっていた。まるで“前にいた世界”では、こんな身分の差を理屈や技術で乗り越えていた――そんな光景を、どこかで見たような気がするのだ。夢か幻かすらあやふやで、もしかしたら単なる思い込みかもしれないが、なぜか心がざわつく。
フィオナが急に笑顔を作って、ユイスの袖を軽く引く。
「でもさ、私たちが学園に行ってすごい魔法を学んだら、この村だってもっと良くなるかもしれないよ。そうしたら領主様にだって負けないかも!」
彼女の瞳は揺るがずにまっすぐだ。わずかに震える声にも、夢を信じたいという強い気持ちが込められている。
「……うん、そうだね。僕、頑張るよ。フィオナを守るって約束したし……」
ユイスがわずかに口元を引き結ぶ。夢物語かもしれない。それでも目の前の少女が微笑む限り、何とかして叶えたいと思ってしまう。そのために、もっと強くなりたい。彼の小さな胸に初めてそんな“決意”が生まれていた。
遠くへ去っていく馬車の奥には、広大な領地が続いている。畑や牧草地、さらに先には人々が集まる都市や王都ラグレアがあるのだろう。けれど、今の彼らには想像もつかない異世界に等しかった。
それでもいつか、この狭い村を出て、大きな世界へ飛び込んでいきたい――そんな漠然とした夢だけは、互いに共有している。
「明日も、川で遊ぼうね」
フィオナの声が優しく響く。彼女は無邪気に足もとを水につけてじゃぶじゃぶと歩き出し、ユイスを振り返った。
顔を少し赤らめながら、それでもしっかりとしたまなざしでこう付け加える。
「大人になったら結婚して、二人で学園に行くって、もう決まったことなんだからね」
そう言って破顔するフィオナに、ユイスは確かな笑みを返した。
同時に、胸の奥にしこりのような不安が小さく芽生えているのを感じる。先ほど目にした領主の馬車の存在――この村から少し外へ出ただけでも、二人には届かない巨大な力が渦巻いているのだと知らせるように。
それでも彼はごく当たり前のように答えを返す。
「わかった。約束、だからね」
やがて陽が少しずつ傾きはじめると、あたりの草原は金色に染まり出した。牧草地から帰る家畜の声が高らかに響き、夕暮れへの合図を告げるようだ。夕陽を受けて川面がいっそう赤く染まっていく。
フィオナが「帰ろうか」と声をかけると、二人は手を繋いで土の道を歩き出す。村から漂う夕餉のにおいに、ほっとするような安心感があるのは、まだ子どもだからだろうか。
――“いつか魔法が上手くなったら、この村を守りたい”
ユイスの中で小さな誓いが芽を出し、かすかな希望の光を宿す。フィオナの笑顔が隣にある限り、大人になっても一緒にいられる。その姿はまるで何にも染まらない透明なガラスのようで、彼はただ大切にしたいと思うのだった。
そんな二人の後ろ姿を、田舎の夕焼け空が静かに見守っている。穏やかで、温かく、まるで永遠がそこにあるかのように錯覚させるほどの光景。しかし、この先に待ち受ける現実は、まだ何も知らない。
フィオナが差し出す約束の小指は、ほのかに震えているようにも見えた。それをしっかり受け止めながら、ユイスはこの日がずっと続けばいいと、漠然と心のどこかで祈っている。
「ね、ユイス。明日こそは上手に川の石を飛ばせるように練習してみせるからね。見ててよ」
「はは、じゃあ僕は負けないように頑張らないとな」
なんでもない会話を交わす二人。その笑顔が途切れることはない。村の中央に近づくと、少しずつ家並みが増え、農家の人々の暮らしのにおいが強まってくる。干し草や土の香り、そしてかまどから立ちのぼる煙が、ようやく家へと戻る時間を告げる。
「それじゃ、また明日!」
フィオナが夕陽に染まった笑顔で手を振ると、ユイスも同じように手を振り返す。彼の胸には、先ほどまでの不安もかき消すかのように、ほんのりと温かい確信が生まれていた。
――二人の未来は明るい。必ずそうなる。そうでなければいけない。
だが、夕暮れの風が吹き抜けたとき、一瞬だけユイスは視線を馬車が消えた道のほうへやった。暗がりが迫る道の奥、何も見えないはずなのに、心に小さなざわめきが広がる。
フィオナの声が大きく響いて、また「明日も遊ぼうね!」と無邪気に誘う。ユイスはもう一度笑って頷く。胸の奥で芽生えかけた奇妙な記憶――“ここではない世界の知識”――はまだ混沌としたままだが、ほんの少しだけ明日を疑わずにいられる気がしていた。