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その日の晩、なかなか眠りにつくことができなかった私はクラスメイトに起こされなんとか着替えを済ませた。そして気は進まないが促されて食卓につき、物音ひとつしないその空間で恐る恐る茶碗に盛られた白米を口に運んだ。そして咀嚼することもできずにそのまま飲み込んでいた。
私は目線を上げられないまま、茶碗といつくかの小皿を見ていることくらいしかできなかった。だが突然の怒鳴り声に驚き、思わず持っていた箸を落としてしまった。
「お箸の持ち方までおかしいだなんて!貴族のお嬢様のくせに一体どうなっているの?」
母親は昨日は食べ方の方に気が取られて気付かなかったが、まさか箸まで正しく使えていなかったなんてとまるで汚いものでも見るような目をして私を見ていたのだ。
私はすぐにでもそこから逃げ出したかったが、全身が震え、私の意思とは無関係にまったく動かすことができず、まるで縛り付けられて殴る蹴るの暴力を受けているような感覚になり、とうとう意識を失った。
そして気が付いた時には布団に寝かされた状態で周囲には誰もいなかった。
だが母親が誰かと電話をしている声が聞こえてきた。
「もうえらい迷惑!伯爵家のお嬢様だからどれだけきちんとしているのかと思ったら‥‥音を立てて食べるわ箸もまともに持てずおかしな持ち方で食べるわで、アレ本当に貴族の娘なのかしらって疑うレベルよ」
私はその時生まれて初めて大人が自分の悪口を言っているのを聞いてしまった。
もうダメだった。
私は動かなかったはずの自分の体に必死でお願いをしていた。
『どうか動いて!私のおうちまででいいいからお願い!』と‥‥
そして体を動かせると感じた瞬間、飛び起きた私はそのまま玄関へと向かい、急いで靴を履いて外へ出た。後ろから聞こえてくる呼び止める声は無視して全速力で走り続けた。
屋敷に着くと安心からか力が抜け、玄関先で座り込んでしまった。
だが異変を察した執事のセバスチャンがドアを開け、私を見つけてくれた。
もちろんすぐに保護され手伝いの皆からは心配で泣かれてしまい、そんな大騒ぎの屋敷内がさらに大変なことになってしまったのは、兄がお世話になっている家のものと一緒に訪れた時だった。私はセバスチャンに抱え上げられた時も、手伝いの皆の顔を見た時にも散々泣いたが、兄の顔を見た時には涙が枯れるほど号泣した。
私はまだ何も話していなかったが、セバスチャンは私を預かっていたクラスメイトの母親が来ても門前払いで相手にしなかった。更には手伝いの者たちが残してきた私の荷物を引き取りに向かい、もうどこにも行かれないでくださいねと言ってやさしく抱きしめてくれたのだ。
翌日は約束通り、学舎帰りにまた兄とクラスメイトの親が家を訪問してくれた。ようやく落ちついて話すことができるようになっていた私は皆にあの家で起きた出来事を話すことにした。
夕食時にいつも通り出されたものを頂いていたが、自分の目の前に座って食べていたクラスメイトの母親に「くちゃくちゃと音を立てないで!」と注意され恐ろしかったこと。
自分では音を立てているつもりはなかったので困惑したが、あまりに静かすぎる食卓だったせいか、飲み込む音までが聞こえているようでまた注意されるのかもしれないという緊張からもう食べられそうになかったこと。
でも食べ残しはマナー違反だと注意され、もう味もなにもわからずひたすら口にいれ飲み込んでいたこと。
そこからほとんど覚えていないが、お風呂に入り眠ったこと。
そして朝になってまた食卓についたが、今度はお箸の持ち方がおかしいと注意され、伯爵家の娘なのにどうなっているのかと叱られたことを話した。
私は電話のことも話すべきか迷っていたが、その時のことを思い出すと唇が震え、とても話すことができず黙るしかなかった。
セバスチャンがそれで家に帰ってこられたのですね?と私の後を継ぎ、やさしくそう言ってくれたが、あの時は怒りを押し殺し、耐えていたのだろうと今ならわかる。
実は私はとても手先が不器用である。
それでも幼い頃から一生懸命毎日お箸の正しい持ち方を練習してきた。
だが正しい持ち方をしても、私には食べずらいだけで食事がまったく楽しめなくなった。食事をするというよりも、お箸で正しく食べ物を口に入れる場と化してしまっていた。
家族や私の周りにいた人たちは皆、私がずっと努力していたことを知っており、そのせいで食事の場が緊張とストレスの時間になってしまったことを悲しんでいた。そして両親はある日私に告げたのだ。
「人はつい自分ができることは皆もできて当たり前と思いがちだが、それは完全に間違いであって、人にはそれぞれ個性があり、向き不向き、得意不得意など、細かい部分まで違いがあるということが当たり前なのだ。だから箸の持ち方にも本当は正しい正しくないなんてなかったはずで、誰かがそう持てばあくまで平均的に皆が食べやすいと感じ、きれいに見えるからというただの一例だったのではないかと思う。私たちは子供たちに教えられることは多いが、今回は娘にそんな大切なことを思い出させてもらった。本当にありがとう。もう誰のことも気にせず、好きなように食べるといい」
その時周りにいた皆から拍手が起き、兄はフォークを持ってきて、これなら食べやすいかな?と手に持たせてくれた。私はそのフォークをテーブルの上に置き、お箸を持った。
「私、正しいお箸の持ち方では食べられないけれど、違う持ち方でなら食べられるの。それじゃあダメ?」
そう尋ねた私に皆が笑顔でもちろんそれでいいんだと言って頷いてくれた日のことは今でも忘れられない。




