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そういうことで私はどうにもならない、報われることもない恋というエネルギーに突き動かされ、船の旅をしている最中なのである。
彼女からのありがとうの言葉は今でも耳に残っており、言われたその時からずっとこの胸を温かくしている。これまでのどのありがとうとも違う、感情の乗ったまるで魂を宿しているかのようなあの音が私を癒し続けてくれているのだ。
そして彼女ははっきりと口にすることはなかったが、貴族、いや王族に嫁いだのではないかと思われる。彼女にずっと護衛という名の監視がついていたことも知っていたし、偶然見かけた迎えらしき人物の装いには王族の紋章があった。それでも彼女側の条件として、結婚まではそれまでと変わらない生活を続けるということで私との店のみでの会話なども黙認されていたのだろう。
彼女に一目ぼれした貴族である自分がいえることではないが、彼女の身分では貴族と結婚はできない。だから本来であるならば絶対に認められることのない結婚をしたということになる。恐らく極秘という形で進められていたであろう彼女の結婚には何かもっと深い誰にも触れらてはならない事情があったのかもしれない。私はそんなことを思いながら目線の先にある水平線をじっと見つめていた。
そして我が国を出て数か月。
数か所を経てようやく目的地であるサンライズ王国に到着した。
事前に得た情報によると王国ではあるものの、政治はショーグンという別の権力者により治められているらしい。私はただの金持ち貴族の気まぐれ観光ということになっているが、ほとんどのものは政治的な目的があって遣わされている女王の配下である。どのような政治目的で交渉が行われるのかまではさすがに一貴族でしかない私が知るところではないが、最終的には女王が望む通りの条約締結に持ち込まれてしまうであろうことは想像に難くない。
それは私にとっても利になるであろう喜ぶべきことであるはずなのに、どうしてかそうならなかったのは船上からこの目が捉えてしまったこの島国の美しい景観のせいなのかもしれない。私は思わず両手を組みどうかこの美しい島国の景観が損なわれることがないよう神に祈っていた。
船から降り、この足が異国の地を踏むと、何か少しだけ違和感のようなものを覚えた。それに首を傾けながらも案内人の後について宿泊先へと向かったが、宿に運ばれてくるはずの私個人の荷物が見当たらず、使用人たちが青ざめた顔で船員や自分たちのようなものが宿泊する別の宿に間違って運ばれてしまった可能性が高いと告げてきた。
小刻みに体を震わせながら申し訳ありませんと謝罪する彼らを制し私は言った。
「では私がその宿に向かうとしよう。私は他のものたちとは違い、ただの観光だ。だから船員や君たちと同じ宿に宿泊する方が気が楽でよい」
それでも彼らは恐縮し、荷物は運んでくると動こうとしたので実をいうと他の貴族連中とはあまり気が合わず、このようなハプニングが起こったことに感謝したいくらいなのだと説明すると、ようやくそれならばと納得し安堵の表情を浮かべた。
【その先で導かれ出会った民に渡していただきたいのです】
私はこの時、彼女のこの言葉を思い出していた。導かれるというのはきっとあの石にということだったのだろう。もしもあのまま女王の配下のものたちと同じ場所に留まってしまっていたのならば、恐らくそのショーグンとやらやその関係者以外との交流は困難であったに違いない。彼女はこの国の民の手に渡ることを望んでいた。だからこれは確実に導かれていると確信したのだ。
私は近くで控えていたある一人の使用人に声を掛けた。
「君は船上にいた時から誰よりも気が利き手際もよかったと記憶している。で、もし可能であればこの地の案内と通訳を兼任できるものを探し出してきてもらいたいのだがどうであろうか?」
突然声をかけられ驚きを隠せない様子のその男はそれでも何かを考える素振りをした後口を開いた。
「そうですね‥‥城下とその周辺の案内でしたら通訳も含め揃えることは可能です。ですがそれ以外となりますと少々時間をいただかなければならないかもしれません」
「さすがだな!やはり君はただの使用人というわけではなさそうだ‥‥まあそこら辺の事情を探るような野暮な真似は一切するつもりはないから心配するな。それで先ほども言ったが私は単なる観光目的の一貴族でしかない。この国の政治に関することには興味はなく、ただ普通に暮らす民のその生活を見てみたいのだ。多少は待つ、だから探し出してきてもらいたい」
その男は軽く頷いた後、礼をしてから下がっていった。
翌日、使用人の一人を供として連れ宿を出た。
賑やかな城下を散策しながら町の様子や行き交う人々を観察した。
整然とした街並みは美しく、驚くほどに清潔感があった。
店はどこも繁盛しているようで、働いているものたちの表情は皆とても明るい。そしてそこを行き交う人々の表情も同様に明るく老人も成人しているものも子供も誰もが一様に幸せそうな笑顔を見せている。
事前に聞いていた情報通りで納得するはずが、私はなぜか衝撃を受けてしまったのである。それはきっと心のどこかでこの国のことを見下していたからに違いない。自国がどこの国よりも先を行く最高の国であるという自負があり、それこそが至高の幸せであるとずっと思い込んでいたのだ。
装い等でもわかる身分が違うはずの人々が皆同様に笑顔なのだ。
どこを見ても誰一人俯くことなく一切暗い表情をしていない。
彼らの言語もまた、何を話しているのかさえわからないのに、その音は何か明るいメロディーが流れているかのようで心地よさを覚えてしまうほどであった。
そこで船上から見えた息を飲むような美しい景色とこの地に降り立った際の違和感を思い出したのである。
そうだ、あれは感動だ。胸の内に光が差し、じわじわと高揚するあの感覚。
これまでも高揚する感覚というのは何度か経験しているが、そのどれとも異なっていた。言葉ではうまく言い表すことのできない不思議な感覚である。
その後もしばらく散策を楽しみ陽が落ちる前に宿へと戻って行った。




