機械仕掛けの姫君
お茶会の席で、私は微笑んで――微笑んだつもりで語りかける。
「皆さま、今日は楽しんでくださいね」
同年代の貴族子女たちが、なんとも複雑な表情で微笑み、頷いた。
『機械仕掛けの姫君』――それが私の通称であり蔑称だ。
心臓の病で死にかけた私は、宮廷魔導士エドワード様によって、心臓の代わりに古代遺物を埋め込まれて命を取り留めた。
それ以来、私は感情と表情を失い生きている。
春だというのに、何の感慨もわいてこない。
春の陽気も、可愛らしく咲き誇る小さな花も、私の心に何も生み出しはしない。
こうしてお茶会を開き、社交に参加してはいるのだけれど、彼らの目が私を蔑んでいるのがわかっても、私の心には何も訪れない。
嘆きも悲しみも、怒りや恐れすら訪れない。
喜びを忘れた私は、毎日を無味乾燥に生きていた。
傍に座る貴族令嬢が、私に気を使うように微笑みながら語りかけてくる。
「グレタ様、今日のスコーンは絶品ですわね。
私はハチミツをかけたものが好みなのですが、グレタ様はどの味がお好みですか」
私はニコリと――口元を持ち上げて応える。
「私はラズベリージャムが紅茶に合って良いと思いますわ」
食べ物の味はわかる。美味しいから嬉しいとか、美味しくないから悲しいとか、そういった気持ちが湧かないだけだ。
「そうですか」
それっきり、彼女は他の貴族子女と会話をしだした。
おそらく私の感情が読み取れなくて、会話を断念したのだろう。
当たり障りのない食べ物の話題で様子を見たけど、やはり意思の疎通ができないと思わせてしまったのだ。
……別に、意思がない訳じゃないんだけどな。
顔の筋肉を動かすことはできるのだけれど、お母様からは『心がこもって見えないから、冷たく感じてしまうわね』と言われてしまった。
そんなことを言われても、こめる心が私の胸にはないのだから、無理難題というものだろう。
隣に座るマティアスが私に告げる。
「今日もあなたは相変わらずのようだ。
それではせっかく社交場を開いても、意味がないでしょう。
もう少し心を開けるといいのですけどね」
ずかずかと私の心に踏み込んでくる彼は、エドワード様の弟子で、希代の天才と名高い若き魔導士だ。
幼馴染のようになってしまった彼は、私に遠慮のない言葉を放り込んでくる。
「開いてはいますわ。中に何も入って居ないから、空虚なだけです」
マティアスが苦笑を浮かべた。
「何もないわけがない。
今の状況が悲しくないわけがない。
ただあなたは、そんな自分の心を感じ取れないだけですよ」
そうなのだろうか。私にはわからない。
八歳で魔導手術を受けて以来五年、十三歳になった今も、私の心には何もないのだから。
今日のお茶会も虚しい時間が過ぎて行き、終わりを告げた。
マティアスが椅子から立ち上がり、私に告げる。
「私が必ず、グレタ様に笑顔を取り戻してみせますよ」
「ええ、期待せずに待っていますわね」
困ったような微笑みを残し、マティアスは去って行った。
****
十三歳は夜会デビューが許される年齢でもある。
私は生まれて初めて夜会用のドレスに袖を通し、姿見の前で微笑んでみた。
……やっぱり、なんだか巧く笑えてない気がする。
せっかくの可愛らしいシルクのドレスも、なんだか台無しだ。
シルクの滑らかな肌触りも、私の心に何も響かせはしない。
姿見の中には、綺麗なお人形が佇んでいる錯覚すら覚えた。
傍に居るお母様も、悲しそうに微笑んでいた。
「よく……似合っていると思うのだけれどね。
やっぱり巧く笑えないから、冷たく感じてしまうわ。
もっと大人びたドレスの方が良かったのかしら」
「……どちらにせよ笑えないのですから、印象は変わりませんわ。
それよりヘルマン様は、まだお見えにならないのかしら」
ヘルマン・エッカート子爵令息。私の婚約者だ。
我がローゼンキルヒ伯爵家の遠縁にあたるエッカート子爵家の令息で、婿養子として選びだされた。
伯爵令嬢の私だけれど、『機械仕掛けの姫君』と蔑まれる私と婚約しようとする家は皆無だった。
結局、遥か格下で遠縁の子爵家ぐらいしか、私の婚約に応じる家が居なかった。
だけどそんな事実も、私の心には何も生み出しはしない。
愛も恋も、私には縁遠い世界だ。
このまま虚しい人生を送り、子供を作り、育て送り出し、死んでいくのだろう。
そのことを思っても、私の心は凪いでいた。
澄んだ湖面のような心は、ただ世界を静かに写し込むだけだ。
三十分遅れでようやく姿を現したヘルマンが私に告げる。
「遅くなりました。では参りましょうか」
お母様の睨み付ける視線を無視するように、ヘルマンは私をエスコートする。
……こうやって時間に遅れるのは、私を蔑ろにしている証。詰まり『舐められている』のだ。
堂々と我が家を軽く扱うヘルマンに対するお母様の心証は最悪になってしまった。
「ヘルマン様、せめてお母様にお詫びの言葉くらいはないのかしら」
「ん? 先ほど謝って見せたではないですか」
遅くなったという報告しか聞いていない気がする。それでも彼にとっては謝ったうちになるらしい。
私はヘルマンの肘を払いのけ、彼に告げる。
「きちんと、誠意を込めてお母様に謝罪を」
「――チッ、機械仕掛けの分際で、人間に意見をするのか」
その小さな声は、私にしか聞こえなかったようだ。
その後、ヘルマンがお母様に頭を下げ「遅れて申し訳ありません」と述べると、お母様はようやく機嫌を直して頷いた。
「二度と遅れる事の無いよう、気を付けなさい」
「はい、心得ております」
嘘ばっかり。遅れるのは今日が初めてじゃない。何度目なのか忘れてしまうくらいだ。
改めて差し出された肘に掴まり、今度こそ私はヘルマンにエスコートされ、馬車に乗りこんだ。
****
馬車の中で、ヘルマンが私に告げる。
「まるで人形が座っているようだな。少しは微笑むぐらいできんのか」
私はニコリと口元を持ち上げて応える。
「……これでいいかしら」
あからさまに私を蔑んだ眼差しを向けたヘルマンが応える。
「冷笑を向けられても、気分が悪いだけだ。
そんなだから婚約者が私しか出てこないんじゃないか?
家督をもらえるという話だから父上は応じたようだが、私は不満だね。
お前のような妻など、気分が悪い」
そんなことを言われても、温かい笑顔の作り方なんて、もう覚えていない。
八歳の頃は努力したけど、結局笑えないまま時間が過ぎていった。
もう努力することも諦めてしまい、今では形だけの笑顔を作るのが癖になって居た。
……だって、どんなに微笑んでみても『冷たい』だとか『心がこもってない』と言われたら、どうしたらいいのかなんてわからなくなってしまう。
絶望、してるのだろうか。心は穏やかで、いつものように凪いでいる。
こんな男を夫としなければならない事実すら、私の心にはなにも生み出さない。
私は静かな心で窓の外を眺め、ただ時間が過ぎ去るのを待っていた。
****
馬車が夜会会場に着くと、ヘルマンが私に告げる。
「お前のように気持ちの悪い女と一緒に行動するつもりはない。
好きに行動してろ。私は別の令嬢のところに行く」
えっ、と思っていると、ヘルマンは先に馬車を降りて、さっさと会場に入ってしまった。
……招待状、彼が持っていってしまったな。
私の顔はわかると思うから大丈夫だと思うけど、変に思われないかな。
私は侍女に手伝ってもらいながら馬車を降りて息をついた。
侍女が私に告げる。
「エッカート子爵令息は何様なのでしょうか。
このことは、奥様に報告し厳重に注意して頂きます」
「いいえ、このことは内密に。
彼が悪いのではないわ。私が悪いのよ」
「そんな! グレタお嬢様は何も悪くありません!」
「……いいえ、私がきちんと笑えてれば、彼の気分を損ねることもなかったんだもの。
私が悪いのよ、きっとね」
私は侍女を残し、会場に入っていった。
****
会場に入った私は、飲み物を受け取ると壁際で佇んでいた。
舞踏会の会場では貴族子女たちがホール中央で、くるくるとダンスの花を咲かせていた。
私は初めての夜会で勝手がわからないまま、夜会の様子を窺っていく。
何人もの貴族子女たちが、一人で壁際に佇む私を白い目で見ていった。
……普通、夜会にはパートナーと共に参加するものですものね。
女性が一人で参加するのなんて、パートナーを探す時ぐらい。
十三歳という若さで相手も居ないのに夜会に参加するとはつまり、男漁りに来ていると言っているようなもの。
そんな私に対して、蔑視のような視線が刺さっていく。
しかも私がローゼンキルヒ伯爵家のグレタだと理解すると、その蔑視の視線が強まっているようだ。
ひそひそと噂をしていく貴族子女たちが横目で私を見ている。
……ヘルマンは、こうなることがわかって私を放り出したのかな。
性格の悪い人だこと。あんな人が夫か。
私の将来、暗そうだなぁ。
会場に目を走らせると、ヘルマンは別の令嬢と談笑していた。
あれは確か……ホーエンフェルス侯爵家のイザベラだったかな。以前、お茶会で会ったことがある。
彼女も本来のパートナーを放り出して、ヘルマンと談笑しているようだ。
ヘルマンは同年代では抜きんでて優れた男性。成人すれば、伯爵以上は間違いないと言われている。
そんな彼にとって、パートナーが欠陥品の私であるのが許せないのだろう。
「グレタ様、どうしてお一人なのですか」
聞き覚えのある声に振り返ると、マティアスが呆然として立っていた。
「マティアス、あなたも来ていたの?」
「ええ、私はパートナーが居ませんからね。
あぶれた女性でも見繕うかと、会場をぶらぶらしていました」
マティアスは希代の天才と名高いけれど、性格に難がある。
ちょっと天狗になって居る彼は、誰に対しても不遜な態度を取ってしまい、それが社交界で悪評として根付いていた。
せっかく能力を持っているのに、悪評を持つ彼も婚約者を得られない一人だ。
「あらあら、だから『少しは謙虚を覚えたらいかが』と、以前忠告したじゃない」
肩をすくめたマティアスが、フッと笑った。
「低能な人間に会話のレベルを合わせて窮屈な思いをするよりはマシですよ。
――それより、隣に居てよろしいですか」
私はきょとんとしてマティアスの顔を見つめた。
「構わないけど……私も、あなたの言う『低能』の仲間じゃないのかしら」
「……そんなこと、今はどうでもいいんですよ」
飲み物を持ったマティアスが、私の横に並び、壁に背を預けた。
「それより、ヘルマンはどうしたんですか。
彼は婚約者でしょう?」
私はクスリと――笑ったつもりで口を動かして応える。
「あちらでイザベラと仲良くしてらっしゃいますわ。
私は『気持ちの悪い女』だそうです。
一緒に居たくないと、置き去りにされました」
横目でマティアスを見ると、あからさまに不機嫌そうに眉間にしわを寄せていた。
「……なんて奴だ。婚約者にこんな恥をかかせて、平気な顔で別の令嬢と談笑など。
男の風上にも置けない人間だな」
「それには同意しますけど、悪いのは私ですわ。
きちんと笑えない私が悪いのです」
マティアスが私に悲しそうな目を寄越して応える。
「そんなことはない。あなたが笑えないのは不可抗力だ。
命を繋ぎ止める為とはいえ、胸に古代遺物なんていうものを埋め込まれてしまった。
死ぬよりマシなのか、死よりもおぞましいのか、判断が付きませんよ。今の状態は」
「ふふ、そんな風に仰ってくれるのは、マティアスくらいですわね。
あなたを貴重な友人だと思っていますわ」
マティアスが目を伏せ、手に持ったグラスを見つめた。
「……友人、ですか。
それ以上を望むのは、難しいでしょうか」
私はきょとんとしてマティアスの目を見つめた。
「どういう意味かしら? 友人以上とは、どういうこと?」
「……いえ、何でもありません。忘れてください」
それきり、マティアスは会場に目をやり、ヘルマンを睨み付けているようだった。
私はマティアスの横顔を見つめながら、先ほどの言葉を考えてみる。
友人以上って、恋人ということかしら。
でもマティアスはちょっと自信過剰になっているけれど、本来の性格は素直で優しい人だと思う。こうして私の心配をしてくれてるし。
それに伯爵令息で、家格は我が家と引けを取らない。
私なんかを相手にするより、まっとうな令嬢を求めた方がいいと思うんだけど。
夜会も半ばを過ぎる頃、マティアスがぽつりと私に告げる。
「……もし、ですよ?
もし私が、あなたに笑顔を取り戻せたら、私があなたを求めても構わないでしょうか」
私が、笑顔を? そんな奇跡、あるのかしら。
「……そうですわね。あなたがそんな奇跡を起こせたなら、あなたの望み通りに応じて差し上げますわ」
マティアスが、力強く私に応える。
「奇跡なんかじゃない。必ず実現させて見せる。
あなたは心優しい女性だ。柔らかく笑える女性だ。
あの日のように、温かい日差しのような笑顔を、必ず取り戻してみせます」
その瞳には強い意志が宿っていた。
……私、心を失う前にマティアスと会ったことがあったかしら。
彼の口ぶりだと、私がまだ普通に笑えていた頃を知っているかのよう。
空になったグラスを給仕に預け、マティアスが私に手を差し出した。
「せっかくの舞踏会です。私と一曲、いかがですか」
私も給仕にグラスを預け、マティアスの手を取った。
「初めてのダンスですから、巧く踊れるかわかりませんわよ?」
ホール中央に進み出て、くるくるとワルツを踊る私たちを、周囲の貴族子女は不思議な目で眺めていた。
普段は仏頂面のマティアスが、楽しそうに笑顔を浮かべて私と踊っていた。
私も頑張って微笑んでみたけど、たぶんまた、冷たい笑いに見えているだろう。
そんなちぐはぐな私たちのダンスは、夜会の終わりまで続いて行った。
****
マティアスが七歳の頃、親に連れられてローゼンキルヒ伯爵家を訪れたことがある。
同年代だからとグレタが挨拶に姿を見せた時、マティアスは雷に打たれたかのような衝撃が走っていた。
春に咲く花のように柔らかな微笑みでマティアスを迎えたグレタは、可憐な貴族令嬢だった。
黄金のように艶やかな金髪に、話に聞く海のように深く青い瞳。全てを包み込むかのような慈愛に満ちた笑顔は、一瞬でマティアスを虜にした。
彼女の夫になりたい。幼心に誓ったマティアスは以来、得意だった魔導に熱心に打ち込み、宮廷魔導士であるエドワード・シュトラウス伯爵に弟子入りした。
伯爵家次男だったマティアスは、自力で実績を作り爵位を得る必要がある。
どうにかしてローゼンキルヒ伯爵令嬢の婿養子になれる実績を作るため、毎日努力を欠かさなかった。
ようやくその努力が芽吹いた頃、彼の師匠であるエドワードが暗い顔で帰宅した。
「どうなさったのですか、師匠」
「ああ、マティアスか。
……ローゼキルヒ伯爵令嬢だが、なんとも難しい状態になってしまった」
その言葉で蒼褪めたマティアスが、慌ててエドワードに尋ねる。
「まさか、グレタ様に何かあったのですか?!」
小さく息をついたエドワードが、コップに注いだ水を飲み干してから応える。
「彼女の一命はなんとかとりとめた。
だが代わりに、彼女は感情を失ってしまったようだ。
古代遺物を埋め込んだのは、失敗だったかもしれない」
マティアスは呆然として、師匠の言葉を聞いていた。
その後マティアスは、エドワードに連れられてグレタの下へ訪れるようになった。
検診の中でグレタの状態を把握したマティアスは、彼女から春の日差しのような笑顔が失われた事を痛感した。
以来、それまで以上に努力を重ね、いつしか『希代の天才』と呼ばれるようになった。
だがそんな名声など、何の価値もない。
マティアスの努力は全て、グレタの為のもの。
彼女を得るため、あの笑顔を傍で見続けるために努力し続けた。
夜会から自宅へ戻る馬車の中で、マティアスはふと我に返った。
――過去を振り返ってる暇などない。私はさらに努力を重ねなければ。
グレタにあの笑顔を取り戻す――それこそがマティアスの悲願であり、彼の誓いだった。
今も下劣なヘルマンの横に居るだろうグレタを思うと、胸が痛んだ。
彼女はあんな男が並び立っていい女性じゃない。
必ず彼女を救い出してみせる――改めて神に誓ったマティアスは、夜空を睨み付けながら彼女を救う手段を探し求めた。
****
私が十六歳になる頃、周囲ではぽつぽつと婚姻していく貴族子女が出始めた。
結婚適齢期を迎えたのだから当たり前だろうな、と思う反面、『ヘルマンともそろそろ婚姻しないと』と思ってしまい、なんだか胸が重たい。
感情がなくても、気分が重たくなることがあるんだろうか。
夜会に参加するたびに私を置き去りにするヘルマンに対して、特に何かを思う訳じゃないんだけど、婚姻後も彼に同じ扱いを受けるのか、と思うと暗い将来に打ちひしがれた。
なぜか毎回、マティアスが夜会に参加して私と一緒に過ごしてくれるので、恥をかくと言う事はなかったのだけれど。
なぜそう都合よく、いつもマティアスが居てくれるのか。
彼に聞いてもはぐらかされて、教えてくれなかった。
今夜も私はヘルマンに放置され、そんな私の横にマティアスが一緒に居てくれている。
「ねぇマティアス、あなた忙しいんじゃないの?
こんなに頻繁に夜会に参加して、大丈夫?」
マティアスは楽しそうに私に微笑みながら応える。
「グレタ様と夜会に参加できると考えれば、それに勝るものはありませんよ」
だけどマティアスの目には隈ができている。
睡眠時間を削って勉強をしてるはずだ。
そこまで大変なのに、時間を割いて私のために夜会に参加しているように思えた。
「マティアス、私にはあなたの時間を割く価値なんてないわ。
もっと自分の身体を大切にして。
あなたが身体を壊したら、悲しむ人が大勢いるわ」
マティアスがニコリと微笑んだ。
「それはグレタ様を含む、と思っても構いませんか」
「それは……もちろんそうなんだけど」
なぜだろう、素直に認めるのが、なんだか難しかった。
恥ずかしい……のかな。でも顔が熱くなるわけでもないし、自分がよくわからない。
周囲の貴族子女は、私たちをいつもの視線で眺めているようだ。
婚約者が居ながら、別のパートナーといつも一緒に居る――それが私とヘルマンに対する評価だった。
こういう場合、男性より女性に対する風当たりの方が強い。不公平だと思う。
夜会のステージが騒がしくなり、目をやる――そこには、ヘルマンが壇上で大きく手を広げていた。
「聞いてくれみんな! 私は今夜、ローゼンキルヒ伯爵令嬢グレタとの婚約を破棄する!
彼女はクライン伯爵令息マティアスと不貞を働いた!
そんな令嬢とこれ以上、婚約を続けることなどできない!」
大きな声で告げられる言葉に、私は唖然としていた。
不貞って……それはあんまりじゃない?
事実無根の話を、さも事実であるかのように語るヘルマンの言葉に、周囲の貴族子女たちは騒然としていた。
ある者は「本当に?」と疑問を呈し、ある者は「まぁ、彼女ならやりかねん」と言っている。女子は「信じられない」と、私に蔑む視線を寄越してきた。
なんでよ。私が不貞を働くように見えるのかしら。
ヘルマンの横にはイザベラが佇んで微笑んでいる。
彼女も口を開き、周囲の貴族子女たちに告げる。
「マティアスが毎週、グレタの家に通っている証拠は抑えてあるわ。
これは明らかに密通、不貞の証よ。
帰りも夜遅くになってから。
――グレタ! 言い逃れがあるなら聞いてあげても良くてよ?」
え、だって最近はエドワード様が身体を壊されて、検診をマティアスが代わりにやってるだけだし。
せっかく我が家に来たのだからと、夕食をごちそうしてるから帰りが遅くなるのは仕方ないじゃない?
なんと説明していいかまごついていると、ヘルマンがニヤリと笑った。
「――どうやら、弁明の余地がないと本人も認めたようだ!
あのように汚らわしい女、早く縁を切れてよかったと痛感する!」
呆れた、こちらの言い分を最初から聞く気がないのね。
横を見ると、マティアスが額に血管が浮き出るほど怒りを現していた。
「……グレタをよくも、ここまで愚弄してくれた。
ヘルマンめ、覚えて居ろ」
私はマティアスに向かって告げる。
「ごめんなさいマティアス、あなたまで不貞の相手という、不名誉を被ってしまって。
それもこれも、私の普段の行いが悪いのね。
私がみんなから信用されてこなかったから、ヘルマンやイザベラの言葉にみんなが惑わされるのよ」
だけど、婚約破棄か。
十六歳から婚約者を改めて探すのは難しい。
妥当な家柄の子女はもう、婚約か婚姻を済ませている。
残っているのは、何らかの問題を抱えた子女ばかりだ。
あるいは、独り身を貫こうとしているマティアスのような人ぐらい。
男性は二十代まで婚姻の機会があるけど、女性は二十代を迎えるともう、ほとんど婚姻の機会がない。
残り四年。厳しいなぁ。その上に不貞の濡れ衣付きだもの。相手が見つかるかな。
――突然、マティアスが私の前に回り込んで跪いた。
ぽかんとして眺めていると、マティアスが私の手を取り、目を見つめて告げる。
「こうなったら体裁など構うものか。
グレタ、私と婚約して欲しい。
私が必ずあなたに笑顔を取り戻してみせるから」
私は戸惑いながらマティアスに応える。
「私の笑顔を? でも私、感情を失くしてしまった女よ?
あなたの気持ちに応えることは、難しいと思うの」
マティアスは真剣な表情で私の目を見つめてきた。
「構わない。たとえグレタの心が私になくても、横に居てくれるならそれでいい。
それでも必ず、あなたの温かい微笑みを取り戻してみせる」
これは……どう応えたらいいのだろう。
婚姻するつもりなら、私なんかを相手にするより、きちんとした令嬢を求めた方がいいと思うのだけど。
なのに、なぜか断ることに抵抗があった。
彼の、マティアスのこの気持ちを……嬉しく思っている? 私の凪いでいた心には、不思議なさざ波が立っているように思えた。
ステージからヘルマンの下卑た笑い声が聞こえてくる。
「ハハハ! 不貞を働いた女が、不貞相手から求婚されたのか!
責任を取ってもらうのか? 機械仕掛けの女が?
どうせベッドの上でも、機械のように冷たい態度だったのだろう?!
そんな人形で満足するとは、クライン伯爵令息もとんだ悪趣味だな!」
私はさすがに顔をしかめ、ヘルマンを睨みつけた。
「そうやって不貞を事実のように言うのは止めてもらえるかしら。
それに私を悪く言うのは構わないけど、マティアスまで悪く言うのは止めて。
彼は誠実な人よ。あなたと違ってね」
「ハハハ! そうやって不貞相手をかばっているがいい!
お前が不貞を働いたことは、この場の全員が認識した!
どちらの言い分が正しいかは、すぐに貴族社会が判定を下してくれるだろう!」
胸の中が気持ち悪い。不快感で満ちている。こんなの、八年ぶりかもしれない。
これは……感情? うすぼんやりと、怒りのようなものがこみ上げている。
私が蔑まれたからじゃない。マティアスが蔑まれた事を、私の心が許せないんだ。
マティアスが私の手を引っ張り、意識を引き戻した。
「あんな男の言葉など、聞く必要はない。
それより返答を――私との婚約に、応じてくれますか」
私はマティアスの瞳をまじまじと見つめた。
その瞳には恋慕の炎が燃え盛っているように見えた。
彼は今、ひたむきに私だけを見つめている。
自分を蔑んだ言葉など歯牙にもかけず、ただ私の返答だけを待っていた。
私はニコリと――口元を持ち上げて応える。
「ええ、わかったわ。あなたの熱意、確かに受け止めました。
私で良ければ、あなたの婚約者としてください」
ステージ上からヘルマンの声が聞こえる。
「見たか! 不貞相手にすら冷笑を向ける女だ! まさに人形だな!」
うるさい男だこと。誰かを蔑まないと、気が済まないのかしら。
――次の瞬間、私の視界をマティアスが覆った。
私の身体を抱きしめ、強く抱擁してくる。
「ああ……グレタ。愛しています。
大丈夫、あなたは必ず、私が治してみせる」
――マティアスの身体から、途方もない熱量が私の身体に流れ込んできた。
なんて熱い想い。これが、恋慕の感情。
その想いが私の身体を巡り、胸の辺りに集約していく。
つうっと、私の目から水が流れていった。
マティアスの頬に水が振れ、驚いたマティアスが弾けるように私から身体を離し、私の顔を見て愕然としていた。
「……グレタ、あなた、涙が」
私は自分の目元を指先で触り、水の感触を確かめる。
それは八年以上振りの涙。でも、なぜ?
「なぜ泣いてしまったのかしら、私は」
胸が熱い。心臓の代わりに埋め込まれた古代遺物が熱を持って動き出したかのように感じる。
彼の想いが、空虚になったはずの心を満たしていく――
「マティアス、あなたの気持ちを、嬉しく思います」
私は自然と頬が持ち上がり、マティアスに微笑みを向けた。
マティアスの顔が驚愕から歓喜へと変わっていった。
「ああ! ああ! その笑顔、グレタ! あなたは笑えるのですか!」
歓喜の表情で再び抱き着いてきたマティアスから、私は再び強烈な熱を受け取っていた。
彼の想いがさらに身体を巡り、胸を熱くしていく。
私の腕が自然と彼を抱きしめ、その体に体重を預けた。
「この言葉が合っているのか、それはわかりません。
だけどきっと……私はあなたを、愛しています」
八年間、私に親身になってくれた人。
私のために努力してくれる姿を、ずっと見てきたんだ。
こんな人がここまでの想いを向けてくれたなら、応えないなんて嘘だ。
マティアスは何度も私の笑顔を確認しては、再び私を抱きしめていく。
その度に私の顔には、自然とこぼれる笑みが溢れていく気がした。
「ばかな……人形が、笑ってる?」
ステージの上から聞こえる声も、驚きに満ちていた。
その日の夜会は、騒然としたまま終わっていった。
****
帰りの馬車に、ヘルマンの姿はなかった。
代わりに私の手を握るマティアスが、喜びに満ちた顔で私に告げる。
「これからすぐ、ローゼンキルヒ伯爵に婚約の話をします。
――それと、ヘルマンの仕打ちもね」
私はクスリと――本当にクスリと笑いながら、応える。
「あんな人のこと、忘れてしまえば良いじゃないですか。
もちろん、あなたの名誉を傷つけた報いは受けさせますけれど」
「あなたの名誉を傷つけた報いも、私が必ず受けさせます。
ああそれよりも! あなたの慈愛に満ちた笑みが戻った!
これほど嬉しいことがあるだろうか!」
喜びを全身から迸らせるマティアスを見て、私はクスクスと笑いだしてしまった。
「あなたがとても嬉しそうで、私も嬉しく思います。
マティアスが喜んでくれるなら、私はいくらでも笑える気がする」
ニコニコと彼の手を握り返す私に、マティアスが感慨深そうな表情で応える。
「しかし、なぜ突然笑えたのですか?」
なぜ? なぜだろう……
「なんだか、マティアスの想いが私を動かしたような、そんな感じがしました。
私の空虚な心を、マティアスの愛が埋め尽くしていったのです」
「なるほど……最後の鍵は、やはり感情なのか」
ぶつぶつとつぶやき始めたマティアスに、小首を傾げて尋ねる。
「何か、ご存じなのかしら」
「ええ、最近になって、古代遺物自体にも調整を入れてきたんです。
あれは出力が強すぎて、グレタ様の心に強い影響がありました。
それが感情を失ってしまった原因だと仮説を立てました」
「古代遺物に調整を? そんなこと、エドワード様でもできなかったのでは?」
マティアスがニヤリと微笑んだ。
「もちろん、私独自の技術です。
既にこの分野では、師匠を遥かに凌駕している自負があります」
私は呆気に取られてしまった。
エドワード様だって、若い頃から優秀な魔導士として有名だった人だ。
そんな人が老齢になっても辿り着けない境地に、若くして辿り着いたことになる。
その熱量の高さに、改めて驚かされていた。
マティアスが言葉を続ける。
「しかし、調整をするのが余りにも遅かった。
あなたの心は感情を失い、長い時間が経過していた。
新たに感情を動かすきっかけが必要だったのです」
「つまり、それがマティアスの愛だったと、そういうことなの?」
マティアスが頬を染めて視線を逸らして応える。
「そうハッキリ言われてしまうと照れてしまいますが……そういうことだと思います」
恥ずかしそうに目を逸らすマティアスが可愛らしく見えて、私は思わず身を乗り出し、彼の頬に口付けした。
驚いたマティアスが取り乱しながら馬車の壁に後頭部をぶつけ、私に告げる。
「な、何をするんですか! 突然!」
「だって、余りに可愛らしかったから」
クスリと笑った私の笑みに、マティアスは呆然と見惚れているようだった。
椅子に座り直した私たちは、これからのことについて話をしていった。
****
お父様はマティアスとの婚約を快諾してくれた。
それと同時に、ヘルマンの不貞に関する糾弾に怒り、即座に行動を起こした。
翌日の夜には、『ヘルマンがイザベラと不貞を働いていた』という噂が社交界中に広まっていた。
どうやらお父様とお母様は、ヘルマンが行う私に対する仕打ちを密かに知っていたらしい。
彼の行動を監視し、不貞の証拠を集め、いつでも逆襲できるようにしていたのだとか。
不貞を糾弾した男が、実は不貞をしていた張本人――ヘルマンの立場は無くなり、彼の姿を社交界から見ることは以後、なくなった。
不貞相手だったイザベラも純潔を失ったことが明らかになり、それ以後の縁談に苦労しているようだ。
彼女はこのまま婚期を逃し、いつか誰かの愛人となるか、後妻になるしか道はないだろう。
ホーエンフェルス侯爵家はイザベラを放逐するつもりらしいと聞いたので、田舎に引っ込んだヘルマンの下に行くのかもしれない。
私はマティアスと幸せな婚約期間を過ごし、半年後に入籍した。
彼は私の古代遺物をメンテナンスしながら、新しく古代遺物を再現する研究も始めたらしい。
「この研究が成功すれば、古代遺物は失われた技術ではなくなる。
グレタの胸に埋め込まれた古代遺物を、もっと無害なものに換装できるかもしれない」
彼の熱意は、未だ留まるところを知らないらしい。
私はクスリと笑い、彼の頬に口づけをして告げる。
「研究は構いませんが、身体も大切にしてくださいね」
「ああ、わかっているさ」
私たちはその後、三人の子供を設けた。
お父様の後を継いだマティアスがローゼンキルヒ伯爵となり、彼の開発した技術は『薔薇機関』と呼ばれ、心臓に欠陥を抱える人たちの救済となっていった。
年老いたマティアスの隣で紅茶を飲みながら、私は告げる。
「あなた、本当にやりきってしまったわね」
「ハハハ! お前のためなら、どんなことでも成し遂げてみせるさ!」
今も私の胸には、彼の作った新しい心臓が息づいている。
彼が私のためだけに作った、特別製の心臓だ。
そんな彼の愛が、今も私を生かし、動かしている。
マティアスの手に手を重ね、私は告げる。
「あなたに愛されて、本当に私は幸せ者です」
「なに、お前がそうやって微笑んでくれるなら、私はいくらでも力を出せるさ」
私たちの笑い声が、春の空に響き渡っていった。
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