蝶々の恋
レスタヴィアン・フォンシャテール公爵令息。
彼は宰相で公爵の父を持つ、フォンシャテール家の嫡子である。煌めく金髪に翠緑玉のような瞳を持つ、甘い顔立ちの美男子でもある。
学問をやらせても武芸をやらせても非の打ち所がない優秀な成績を残す、多才な人物で性格は柔和。女性への気遣いもできる、王立学園きっての優等生。王太子の側近で未来の宰相と名高く、将来有望な高嶺の花のような存在。
そして私、シェラリラ・ランヴシェーヌの思い人だ。
*・*・*・*・*・*・*
私、シェラリラ・ランヴシェーヌは浅ましくもレスタヴィアン・フォンシャテール様に恋をしてしまった。七歳の頃に行われた、伯爵家以上の有力な貴族の子息子女を集めた王家の茶会での一目惚れだった。
レスタヴィアン様は当時から周囲とは一線を画した存在で人当たりもよく、齢八歳にして既に紳士の風貌を纏っていた。清濁併せ呑んだ笑顔でもって周囲と接していた。
私は彼が振り撒く甘やかな微笑みの中に、嘲りのような感情が含まれていることに気付いた。巷で聞く腹黒とはああいう人かとどうでもいいことを感じた。富と権力と容姿に群がり媚びる周囲への嫌悪、子供と舐めて掛かる大人への侮蔑、大人に良いようにされる子供への呆れ等々。
決して純粋で善良とは言えない感情を宿す瞳に、貴族らしい強かな姿に、強烈に惹きつけられた。目を奪われてもう離すことができなかった。
心臓が熱くなってその熱が全身を燃やした。制御の効かない身体に困惑した。どくどくという心臓が勢いよく立てる音が大きく聞こえた気がして分かってしまった。
――ああ恋に落ちてしまったんだ、と。
恋に落ちたと、レスタヴィアン様が好きだと理解した後はひたすら彼を追いかけた。彼に一目でも会いたくて、一言でも話がしたくて。彼が出席するパーティーに出かけ、彼の話についていけるように勉強した。
愚かにも私は彼に集る虫の一匹になってしまったのだ。
私は彼の癪に障らぬよう努めた。彼の役に立つよう努めた。機嫌が悪そうに見える時、忙しそうな時、集る虫たちを煩わしそうにしている時には絶対に彼に近づかず。彼の欲しそうな情報を集めて提供し、意に沿うような行動を取った。
勿論自らとランヴシェーヌ家に影響を与えない範囲でだ。彼に近づくための勉強は自分の価値を高めてくれ、彼の為に集めた情報はランヴシェーヌ家の為にも役に立った。レスタヴィアン様を追いかけるのは悪いことばかりではなかった。
うまく立ち回ったお陰で私はレスタヴィアン様の非公認の取り巻きの中にずっと居続けることができていた。あまり高いとは言えない身分でありながら近くに寄って時々話すことができた。王立学園に入ってさらに近寄れる機会も増えた。
私は元々彼の恋人になりたいだとか妻になりたいだとかそういう大それた望みを抱いてはいなかった。近くにいたい、侍りたいとかいう望みも同様に抱いていなかった。ただ遠くから見つめられれば幸せで、彼の幸福や栄華を願って微力ながらも尽力することが至上の喜びであった。彼の目にも留まらない矮小な存在であっても構わなかった。
だから近くに寄れるという今の状況が幸運であると、そう言い聞かせていた。
事実、幸運であったと思う。レスタヴィアン様に未だ婚約者はおらず、また私にも婚約者はいなかったのだから。ランヴシェーヌ家の状況も私の家族も婚約者を強制するようなことはなかった。これがどんなに得難いものなのか私は知っている。これ以上を望むなんてどれだけ強欲であるのだろう。
レスタヴィアン様に恋をした当初は、この恋心はすぐに跡形もなく消え去ってしまうと思っていた。それなのに、いずれ無くなると思っていたこの思いは成長するにつれ、深まるばかり。
恋とは恐ろしいものだと思った。叶わない、儚い恋であるのに激しい思いに抗えない。激しい思いがこの身を突き動かす。
今が幸運だと、そう言い聞かせるのは自分を強く留めておかなければ何をしてしまうか分からないからでもあった。私は初恋という未知の恐怖と日々闘っていた。
そんな日々が変わる兆しを見せたのは王立学園でのある春の日。
その日は静かで落ち着いた場所で一人読書でもしたいと気に入りの場所に向かった。
気に入りの場所は入り組んだ垣根に隠されていた。他人がいるところなど見たことがなく、まるで自分だけが入ることのできる秘密の場所のようだった。花々が乱れ咲いてもいて、もし人の手が加わっていない「秘密の花園」が存在していたら、ここのような所なのかと思える場所でもあった。
当然誰もいないのだと思い込んで行けば、座り込んでぼうっとしていたレスタヴィアン様を見つけて私は無意識に立ち止まっていた。
*・*・*・*・*・*・*
集る虫たちへの対処に少し疲れたレスタヴィアンは誘い込まれるように辿り着いた、花園で座って無意味に時間を過ごしていた。
花園に来てからどれくらいの時間が経ったのか。知らぬ間に時間が過ぎていたことに気付いたのは、花園の入り口から草を踏む足音が聞こえてきたからであった。気配にも気付かぬほどに自分はぼけっとしていたらしい。
足音の元に目をやれば、そこには金髪碧眼の儚げな容姿の令嬢がいた。シェラリラ・ランヴシェーヌ伯爵令嬢だった。彼女はあまり目立たぬ令嬢であったが自らに集る虫の一匹で、そして従順で大人しく、度の過ぎた行動を取らないためによく覚えていた。学業の成績も優れた知る人ぞ知る立派な淑女という印象を持つ人物だ。
視線が合って、軽く目を見張っていた彼女は会釈をして去ろうとする。その行動に今度はレスタヴィアンが目を見張る番だった。
彼女の行動は休憩中の自分に配慮してのものだったのだろう。王立学園という身分を抜きにして皆が等しく学ぶ為の場であるからこその多少の無礼も見逃してくれということでもあったろう。
それはいい。それは分かる。
だが――
何故ランヴシェーヌ嬢はこの場に僕と彼女しかいないという自分を売り込むのに絶好の機会をふいにするのか。
これが分からなかった。
彼女からはいつも自分への好意を感じた。勘違いでも自惚れでもないはずだ。レスタヴィアンは昔から人の感情の機微に聡かった。感情の機微を読み取って利用し、自分の思い通りに事を進めるのは造作もなかった。
だからランヴシェーヌ嬢が僕に気があるというのは間違いない。
過度な自信と言われそうなものだがその自信を裏付けられる能力がレスタヴィアンにはあった。
自分に好意を持つ令嬢と二人きりになったら、その令嬢は必ずここぞとばかりに話しかけてくるだろう。というのが今までのレスタヴィアンの考えであった。何もせずに去るという行動は意味不明だ。
それに自分は好機を無駄にすることなど絶対にない。
理解のできない行動を取るランヴシェーヌ嬢にふと興味が湧いた。
気が付けば彼女に声を掛けていた。
「ランヴシェーヌ嬢、君は私に好意を持っているよね?折角私と二人きりになれたのに君はどうしてこのまたとない機会を利用しないのかな?」
*・*・*・*・*・*・*
感情を覆い隠すような笑みを浮かべず、普段他人には見せない少し疲れた表情で座っているレスタヴィアン様。その姿を見つけて驚きすぎて動けない間に彼が振り向いてしまう。目が合って私は凍りついたように固まってしまった。レスタヴィアン様の美しい翠緑玉の瞳に意識さえも奪われていた。
はっと意識を取り戻して咄嗟に思ったのは休憩中にお邪魔してはいけないということだった。レスタヴィアン様はお疲れのご様子。私如きが休憩を妨げて彼が余計に疲れる原因になんてなってはいけない、と。
場合にもよると思うが、彼は多少の無礼に気分を害するような狭量な人ではない。それにここは王立学園であるからと、私は畏れ多いことながら会釈だけして去るという行動を取った。
ばくばくと音を立てる心臓を落ち着かせながら私は歩いた。見苦しく見えないようにゆったりと。
その背に対して彼は言葉を投げ掛けてきた。
「ランヴシェーヌ嬢、君は私に好意を持っているよね?折角私と二人きりになれたのに君はどうしてこのまたとない機会を利用しないのかな?」
私がレスタヴィアン様を好いていることが相手に伝わっていたという現実に頰が熱を持つ。うまく回らない頭で少し考えて、あれだけ近付こうと行動していたのだから聡明な彼に知られているのはおかしくない。知られていないほうがおかしいのだと思い至る。思い至って今更恥ずかしさが込み上げてきた。
それでも返答しなければと頬が熱を持った状態のまま振り向けば。彼が立ち上がり、近づいて来ていて狼狽えた。彼はにこやかな笑顔で興味を持ったというふうな顔を作っていた。
返答する覚悟を決めた時に想像していたより近い私とレスタヴィアン様の距離。緊張で頭が真っ白になりながらも、今まで彼に近寄った時に迷惑にならないように、品位を下げないようにと頑張ってきた成果は出てくれてなんとか答えることができた。
「……はい、確かにわたくしはフォンシャテール様をお慕い申し上げております。ですがフォンシャテール様のお邪魔をすることはわたくしの本意ではありません」
言い終えて、慕っていると本人に伝えてしまったのことがどうしようもなく照れ臭くて俯いた。この恋心は一生伝えずに、将来婚約者ができたら無理矢理にでも封じ込めて捨てると決めていた。それなのに。
こうして伝えてしまったら。
彼の瞳に映りたいなどという分不相応な願いを捨てられなくなってしまうではないか。溢れる思いをこの身の内に留めておけなくなってしまうではないか。
今まででさえ伝えられない恋情に、叶うはずのない思いに身を焦がされて苦しくて苦しくて仕方がなかったというのに。
「本意ではない?じゃあ君は私の次期フォンシャテール公爵という立場の魅力はどうだっていいってこと?」
いつの間にかレスタヴィアン様は間近にいて、大きな声ではないのにはっきりと通る麗しい声が耳に心地良く響いた。声音に試されているような色を感じて、私は俯きたくなるのを必死で我慢し、顔を上げて目の前にいる彼の瞳を見つめながら口を開く。
「次期フォンシャテール公爵という立場は勿論とても魅力的です……ランヴシェーヌ家の娘であるシェラリラ・ランヴシェーヌからすれば。ただの小娘であるシェラリラとしては貴方様自身の魅力以上に勝るものはないと思っております」
「それは、私の容姿が好きだってことなのかな?」
そうと分からぬような冷笑を浮かべて私を見るレスタヴィアン様。
「フォンシャテール様の素晴らしい容姿も好きですが、私が初めに惹かれたのはその性格です」
性格が好きと言い切った私に彼は完全に興味を失ったようであった。
でも多分。私が伝えたかったことと彼の解釈には相違があると思う。私は彼の本心を表さない上辺だけを見て性格が好きだと言ったのではない。折角不本意でありつつも思いを伝えてしまったのだから、そのような誤解をされたままというのは耐えられなかった。
「何が起こっても、どんなに嫌な人物と話している時でも……心の内では冷酷な考えを抱きながら、表面では穏やかに微笑むいけしゃあしゃあとしたところが好きなのです」
つい余計なことまで言ってしまった私にレスタヴィアン様は一瞬ぽかんとした後、くすくすと笑った。
「ランヴシェーヌ嬢、それ悪口だよ」
レスタヴィアン様になんて口を利いてしまったんだと私は青褪めて慌てた。
「ええっと、違うのです。爽やかな舌鋒で人をやり込めていく姿が爽快と言いましょうか、そんな頼りになる旦那様がいれば心強く理想的であると言いましょうか。えぇ、えーっと……」
なにを言っているかわからないという自覚はあるのに頭がうまく回らない。
レスタヴィアン様は笑いが治らない様子で、最初と段違いに柔らかい口調で楽しそうに言う。
「ランヴシェーヌ嬢は結構言うほうなんだね」
「申し訳ございません……!」
もはや恥も外聞もなく淑女の仮面をかなぐり捨てて謝罪する。許されざる物言いだった。思いを告げた所為で、箍が外れてしまっていた。平生なら犯すことのない失態であった。
「いいよ。私は気にしていない。それにこの場にいるのは私と君だけだからね。二人だけの秘密ということにしておこう」
レスタヴィアン様は色っぽく笑む。
その姿に私はぽけっと見惚れてしまい、見惚れている場合ではないと自分を叱る。
「いいえそうわけには参りませんっ」
初めて彼に会った時からずっと自分を磨いてきたというのに、晒してしまったのがこんな礼儀知らずな醜態だなんて我慢ならない。好きな人には自分の淑やかな姿を見てもらいたいと夢見ていたのに。
「頑固だなあ。じゃあこうしよう。これから君には時々ここで私の話し相手を務めてもらおう」
――そんなのご褒美でしかない……!
食い気味に心の中で返してしまってから、はっとなる。
そうか。これはレスタヴィアン様に情報提供者として期待されているということなのだ。
先程の自分の激しい勘違いに私は自ら穴を掘って入りたい気分になった。それから自分が彼に認められたような気がして胸が熱くなった。色々な感情が荒れ狂い、面映くて堪え難いのをぐっと堪えて私は微笑を湛えた顔で粛々と承諾する。
「わたくしシェラリラ・ランヴシェーヌ、誠に僭越ながらそのお役目務めさせていただきます」
レスタヴィアン様は若干違和感を覚えたような、不思議な表情をしたが瞬きの間に彼の表情は私一人に向けるには勿体ない、甘く華やかなものに変わった。
「じゃあまた。読書の邪魔しちゃってごめんね」
彼は私が小脇に抱えていた本をちらりと見て、態々詫びてから去って行った。
紳士すぎて紳士すぎてもうわけが分からない。
一生分の幸運を使い果たしたような時間から醒めることができずに、私は暫くその場で立ち尽くしていた。
*・*・*・*・*・*・*
先日花筵の飾り気がない可憐さが際立つ場所で遭遇した令嬢、シェラリラ・ランヴシェーヌについて考える。
今は一休みしようと例の草花が咲き誇る場所に向かっている最中だった。
ランヴシェーヌ嬢はいるだろうかと何故か僕は期待していた。休むことが目的であるのに、令嬢に会えるかもしれないというのを、楽しみにしている気持ちが一欠片もある自分に気が付いて瞠目する。
確かにあの日のランヴシェーヌ嬢の言動は不愉快に感じるどころか、愉快に感じられるほどだった。
レスタヴィアン・フォンシャテールという存在に集る虫の一匹だと思っていただけに受けたのは強い衝撃だった。
薄らと赤みを帯びた顔で口にされた言葉が悪口とは、流石に僕も驚いた。それが愉快だったのだ。
他の令嬢とは一風変わっていて、節度を弁えた優秀なご令嬢。以前に彼女と話した限り、話がつまらなすぎるということはない。この間は話していて自然と肩の力が抜けた。
気楽な空気感が心地良く、もう少し話してみても良いかもしれないなんて思ったのだ。
入り組んだ道を進んで目的地に到着すれば、そこには既にランブシェーヌ嬢がいた。
彼女は読書の最中で、僕の存在に気付いたような素振りはない。何処にそんなものあったんだと自分に問いたくなるような悪戯心が芽生えてきて、僕は気配を消して彼女に近づく。
「ランヴシェーヌ嬢、なに読んでるの?」
「レ、レスタヴィアン様……!?」
背後からそっと本を覗き込みつつ尋ねれば、彼女はびくりと肩を震わせ、振り返って目を丸くした。
――レスタヴィアン、ね。
思っていたよりは反応が薄かったが、彼女は本当に驚いたらしい。即座に立ち上がって謝罪してくる。
「フォンシャテール様。馴れ馴れしくお呼びしてしまったこと、申し訳ありません……」
「いや構わないよ。でもこの際だからレスタヴィアンって呼んで欲しいかな」
そう言えばランヴシェーヌ嬢は嬉しそうに瞳を瞬かせた。
「身に余る光栄です、レスタヴィアン様」
受諾してもらえたところで、彼女に座るように促し、自身も座る。
何を話そうかと思考し、先程見た本のことに思い至る。彼女が読んでいたのは国一つ跨いだ先の国の小説のようだった。
「良く勉強してるんだね、そこの本をすらすらと読んでしまえるなんてさ」
「レスタヴィアン様にお褒めいただけるほどではありません。わたくしなぞまだまだ未熟です」
「君を未熟と言うのだったら他の者はなんて言い表せば良いのだろうね?」
彼女が異国の小説を読む速度は、ちょっと齧っただけという程度ではなかった。それに加え、異国は異国でも必修科目になっている周辺国の小説ではなく、遠く離れた小国のものとは。
ランヴシェーヌ嬢は勉学において申し分ない成績を収めているはずであるからして周辺国の言語も習得しているはずだ。勤勉で好ましいものだ。
結婚してフォンシャテール公爵夫人となる女性もランヴシェーヌ嬢のようであって欲しいと思う。
「差し出がましいようですが、わたくしご迷惑でないでしょうか?」
「うん?どうして?」
「お疲れでいらっしゃるようにお見受けいたします」
心配そうに、少し居心地悪そうに彼女は聞いてくる。疲れているというのが事実であった僕は柄にもなく驚愕して固まってしまった。
感情を悟られないようにいつも完璧な表情を作っているというのに。権力を貪る狸どもをも翻弄して陰謀渦巻く貴族の世界に次期宰相候補筆頭として残存しているというのに。学園在籍中の、それも年下の令嬢に見破られてしまったなんて信じられなかった。
「……そう思った根拠を教えてもらってもいいかな?」
「ご不快に思われるかもしれませんが…わたくしは幼い頃からレスタヴィアン様に憧れておりましたので、当時からずっと目で追っておりました。建前が本音とは掛け離れたお方だというのは承知しておりましたので、少しでもレスタヴィアン様を知りたくて表情をつぶさに見ることで知ろうと……」
気まずそうな彼女の話は尻窄みに途切れる。
「……」
お手上げ、だ。完敗だ。
例え憧れの君のことが知りたいからといって、周到に表情を作り込んでいる人間の感情を読める者がこの世に一体どれほど存在するのだろうか。
この観察眼は紛れもないランヴシェーヌ嬢の才能だ。
「ふっ、ふははっ……!」
思わず腹から笑いが込み上げてくる。制御不可能なおもしろいという感情が体を駆け巡る。
ランヴシェーヌ嬢は突然弾けるように笑い出した僕に戸惑っている。僕がこうなった原因は彼女であるというのに。
「レスタヴィアン様!?だ、大丈夫でございますか……?」
「くっ、ふふ……」
一頻り笑い、目じりに溜まった涙を人差し指で拭って一息吐く。
「あー笑った笑った。こんなに笑ったの初めてじゃないかな」
彼女は僕の顔を見て呆気に取られたようだった。無理もない。僕だって自分が朗らかな顔をしているような不可思議な気分がするのだから。
「君に僕の話し相手を引き受けてもらって正解だったよ。ありがとう」
私ではなく僕と、素の自分が溢れる。
「わたくしは感謝されるに値するようなことをしておりませんよ?話し相手を引き受けたことも……あ、そうでした」
何かを思い出したようである彼女に続きを促した僕は次の瞬間目を点にした。
「ご所望の情報仕入れてきました」
「え?」
「最近レスタヴィアン様への態度が目に余るご令嬢の弱点、レスタヴィアン様を羨む男子生徒の企みの内容、レスタヴィアン様に恋人の心を奪われたと恨む男の襲撃計画。他にも色々と調べてきました」
「えっと……?」
「信憑性のご心配は要りません。各方面から探りを入れましたので。それでもご不安でしたらお手数ですが確認をなされてください」
「ランヴシェーヌ嬢、実は情報屋だったりする……?」
「はい?」
噛み合わない会話にやっと気付いた彼女と互いの誤解を擦り合わせる。
どうやら彼女は僕の話し相手になって欲しいという頼み事を、情報提供者になれと言われたと勘違いしていたようだ。
僕は思わず天を仰いだ。
悪いことをしたわけでもないのに日頃の行いが悪いと自分に返ってくるという言葉が頭に浮かぶ。
勘違いさせた罪悪感はあるものの情報はありがたくいただいた。
「普通さあ、自分を一切見ずに情報だけを求めてる男に進んで利用されようとするかな?」
意味が分からないと呆れて尋ねてみれば。
「しますとも!好きな人が自分に利用価値があると思ってくれているのですよ?それに僅かながらでも力になれるのです。しないわけがありません」
等々と熱弁された。
悪い気は、しなかった。
普段集ってくる令嬢たちの熱を鬱陶しく思っていたのにだ。結構自分はランヴシェーヌ嬢を気に入ってしまったのだなと自覚する。
万感の思いに感傷に浸っている時、風がびゅうと吹いて彼女の下ろした長い髪を巻き上げた。長い髪は僕と彼女を遮るように彼女の顔を隠す。
僕は無意識に彼女の顔を隠す髪を払って耳に掛けていた。長めの前髪までも共に耳に掛けてしまったようでいつもより顔が明るく見えた。いつも前髪に隠されている左目の下には黒子があったようだ。黒子は彼女の清楚で儚げな容姿に色気を足していた。
「あの、その、そんなに見ないでくださいませ」
ほんのりと頬を染めた彼女は潤んだ目で上目遣いをしてくる。無自覚のようだから質が悪い。
「あまりにも綺麗だから見つめてしまっただけだよ」
彼女を婚約者に考えるのもいいかもしれない。
身に付けている教養、過去の素行等を詳しく調べてみるかと決め、そろそろお暇しなければと彼女から手を離して立ち上がる。
「またね、シェラリラ嬢」
*・*・*・*・*・*・*
『あまりにも綺麗だから見つめてしまっただけだよ』
『またね、シェラリラ嬢』
レスタヴィアン様が立ち去ったのを視認した後、私は甘い言葉に身悶えた。
――シェラリラ!シェラリラって!
その言葉が私に与える影響を分かっていて発しているのだから質が悪い。
彼は滅多に女性の名を呼んだりしない。気があると勘違いされては困るからだ。これは年頃の令嬢なら皆知っている話。
だというのに彼はさっき。
私をシェラリラ嬢と、呼んだ。
冗談のようなものだとは分かっているけれど嬉しい。舞い上がりすぎておかしくなりそうだ。
それと同時に。この叶わない恋が。虫の私が花の彼に恋する惨めさが。苦しくて苦しくて堪らない。胸が張り裂けそうなほどに辛い。
どうして私は彼に恋をしてしまったんだろう。
どうしてここで彼に会ってしまったんだろう。
……この場所で、あの日彼と出会わなかったら。
これほど強い心の痛みは訪れなかっただろうか。素直に彼を諦めることができたであろうか。
ぽたりぽたりと水が頬を濡らして服へと落ちて行く。これが嬉しいからなのか辛いからなのかもう分からない。水を止める方法も今後どうしたら良いのかも、分からなかった。
*・*・*・*・*・*・*
陽光が穏やかで優しいよい日和。
「シェラリラ嬢」
今日は彼女に会う為にやって来た。
「レスタヴィアン様……」
明るく僕が好きだという態度を隠しもせずに迎えてくれると思っていた彼女は、どうやら元気がないようであった。
「なにかあった?」
「……」
黙り込む彼女に不安になる。
一々他人の態度に左右されている自分に苦笑が漏れた。
「体調が悪いの?」
「いえ……」
おろおろと彼方此方に視線を動かした彼女は、やがて俯いて哀願してきた。
「わたくしに、必要以上に優しくしないでください……。愚昧にも、思い違いをしてしまうのです。わたくしは分かっておりますから、そのように丁寧に接していただかなくても大丈夫でございますよ……?」
「……!」
唖然とした。
どこまでこのご令嬢は最低な男に一途なのだろう。
彼女は一拍置いて堂々と、でも何処か悲しげに言って見せた。
「わたくしはレスタヴィアン様という花に集るちっぽけな虫の一匹でしかないのですから」
*・*・*・*・*・*・*
思いを振り切るように顔を上げて毅然と言い放つ。レスタヴィアン様は無表情で、生意気だったかと反省する。しかし後悔はしていない。
「そんなふうに、君は自分を卑下してはいけないよ」
レスタヴィアン様は珍しくも一つ一つ選ぶようにして言葉を紡いでいく。
「確かに僕は、僕の持つものを目的に近寄って来る輩を虫、それも害虫のように思っていた。それは君のことも同様だった」
分かっていたことでも改めて言われると胸がずきずきと痛む。けれど彼が話す本音ならどんな内容でも聞きたい、受け止めたいと思う。
「でもここで君と関わって考えが変わったよ。今はこう思ってる。君がもし虫だとするのならきっと虫は虫でも蝶だろうってね」
「え?」
予想外の台詞に頭が真っ白になる。
「花は美しい蝶に側に来て欲しいから自分を綺麗に魅せようと咲くのだろうなってふと思ったんだ。他の虫が集るのはその弊害にすぎないのかなって。蝶が花に引き寄せられるんじゃなく、花が蝶を全力で引き寄せるんだよ。そう考えれば蝶って罪深い存在だよね」
「それは、どういう意味ですか……?」
困惑して尋ねても意味深長にはぐらかされてしまう。
そのままレスタヴィアン様は帰ってしまって、どういうことなのか分からない私は一日一日を悶々と過ごし、数日後。
フォンシャテール家のレスタヴィアン様からランヴシェーヌ家のシェラリラに婚約の申し入れがあった。
翌日急いでいつもの花園に行くと既にレスタヴィアン様はいて、手をひらひらと振って声を掛けてくれた。
「やあ、シェラリラ。早いね」
呼び捨てに感じることは沢山あるものの、後回しにして問う。
「婚約ってどういうことでしょうか……?ランヴシェーヌは伯爵家ではありますがフォンシャテール公爵家とは天と地ほどの差がございます」
「謙遜がすぎるよ。ランヴシェーヌは力も伝統もある名家じゃないか」
「フォンシャテール公爵家には遠く及びません。公爵家にとって利益になる相手は他にいらっしゃいますよね……?どうして恋愛感情があるわけでもないわたくしなのですか?」
「僕は恋愛感情が全くないとは言ってないよ。君を他の誰かには渡したくないって思うし、今の時点でもう君のことがちょっと気になっている。いずれ好きになるんだろうなって気もする」
自分と同程度の気持ちでなくとも、彼の気持ちが充分に籠った言葉に悲鳴の声を上げそうになる。
私はしがない伯爵令嬢で彼は次期宰相と言われる時の人で。彼とどうにかなれる可能性は万に一つもなくて。諦めるしかないとこれでも押し殺して、自分を愚かだと自嘲してきたのに。
「君以上に公爵家にとって利益になる存在はいないだろうしね。いくら凄い家と繋がりを持つことができても、フォンシャテール公爵夫人になる人間に能力がないんじゃ困るからね。シェラリラが一番の適任者だよ。それに言っておくけど君は、君たち家族も他も。皆ランヴシェーヌの価値を知らなさすぎるよ」
彼が確信を持って断言するのならそうなのだと素直に受け入れることができる。
「わたくしに公爵夫人が務まると本当にお思いなのですね」
「勿論」
「でしたらわたくし精進しなければなりませんね。レスタヴィアン様に相応しい、公爵家に相応しい存在になる為に」
覚悟を決め、彼の瞳を強く見つめて宣言する。
「婚約の件、お受けいたします。わたくしを選んでくださったこと光栄に思います」
今までの努力はレスタヴィアン様の近くに寄れるようになる為のものだった。
でもこれからは――
レスタヴィアン様の隣に立つ為に努力をする。
心が躍って落ち着かない。
彼の為だったらなんだってできてしまうのではないかと思えるほどだ。
「よかったあ。断られるんじゃないかって少し不安だったんだよね」
ふにゃりと可愛らしく彼が笑う。
他人には見せない表情。破壊力が凄すぎる。
「ああ、そうそう。これ未来の旦那様からの贈り物」
思い出したようにそう言った彼は近くに置いてあった鞄から四角い箱を取り出して渡してきた。なんだろうと疑問に思った私に彼は「開けてみて」と囁く。
彼にじっと見守られ、緊張しながら慎重に開ける。中に入っていたのは翠緑玉が遇われた黒い蝶の髪飾りであった。
「綺麗……!」
私はほう、と感嘆のため息を吐く。
「気に入ってもらえたようだね」
「はい!レスタヴィアン様の瞳と同じ色をした翠緑玉の装身具、とても嬉しいです……!ありがとうございます!」
彼の瞳と翠緑玉を見比べて頬を緩めていれば、彼が「つけてあげる」と髪飾りを手に取った。
彼は私の少し長めな前髪ごと左横の髪を掻き上げると少し弄って髪飾りを挿して留めた。
「うん、似合ってる。シェラは美人だからどんな髪型も似合うけど、僕は前髪横に流してたほうが好きかなあ」
愛称呼びに美人と言われ気分は気絶寸前であったけれどもなんとかお礼の言葉を口にする。
顔に掛かっていた前髪が取り払われ、すうすうするものの今後は絶対前髪を横に流すと、思考が纏まらない頭でそれだけ決めた。
「可愛いなあ」
その様子を見ていた彼が呟く。
私も思ったことがぽろっと口から出た。
「レスタヴィアン様が甘すぎます……」
「シェラに絆されちゃったからね」
即座に返されて私は面食らう。
「だからって……」
「僕はあれだけ熱烈に好き、見てくれなくてもいいから力になりたい、とか言われたのになにも感じないような男じゃないよ」
戯けたように彼が言う。
嘘だ、と私はむくれて心中で反論した。
「ねえ、僕のことレスタって呼んで」
打算的な彼だけど。現状恋愛感情があるわけでないと明言しているけれど。彼が私を見る目は愛おしい者を見ているかのようだった。狡い人だ。
「はい、レスタ様」
春の花が咲き誇る園では、蝶がひらひらと舞って一際美しい花に止まった。
私とレスタ様は明るい未来に思いを馳せ、見つめ合ってふんわりと微笑んだ。