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曇天。  作者: 凪
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1月 火種 ⑥

 現場検証のあった日の夜、京子がアパートに戻ると、恋人の遠峯大吾が来ていた。


「来てたんだ」


 京子は弾んだ声を上げた。


「ケガはその後、どうよ」


 大吾は玄関脇のキッチンで、ミネストローネを煮ていた。


「来週には抜糸できるみたい。夜、眠っているときにズキズキ痛むことがあるけど」

「痛み止めは?」

「なんか、薬に頼るのが嫌で、飲んでない」

「それだと寝不足にならないか? 嫌でもしばらくは飲んでいたほうがいいよ」


 大吾はテキパキとテーブルの上にスプーンやフォークを並べた。


「ありがとう。大吾も仕事で疲れてるのに」

「いや、今日のランチはお客さんが少なかったから、そうでもない」


 2つ年下の大吾とは趣味のウィンドサーフィンで知り合い、つきあうようになってから5年になる。

 大吾は都内のイタリアンレストランでシェフの一人として働き、いつか自分の店を持ちたいと考えている。独立するまでは結婚も待って欲しいと、つきあいだして3年が過ぎたころに言われた。

 たまに二人で外食しながら、「こんな店にできたらいいね」「料理なら、俺のほうが自信ある」などと話し合うのが、何よりも幸せな一時だった。


 夕飯は具だくさんのミネストローネとサーモンのホイル焼き、温野菜サラダにパンというメニューだった。


「これなら食べれそう?」

「うん、大丈夫」


 放火事件の後、京子はすっかり食欲が落ちてしまった。心配した大吾は、ほぼ毎日京子のアパートに様子を見に来てくれる。

 京子は青梅のアパートに住み、大吾は荻窪に住んでいるので、仕事をしながら通うのは大変なはずである。それでも愚痴ひとつこぼさない大吾の優しさが、今の京子にとって救いでもあった。


 ミネストローネを食べると、すっかり冷え切っていた体が内側からじんわりと温まるのを感じた。


「おいしい」

「まだあるから、いくらでも食べてよ」


 大吾もミネストローネを一口食べ、「うん、絶品」と嬉しそうな表情になった。


「現場検証、どうだった?」

「んー、質問されても、私は逃げるのに必死だったから覚えてないんだよね。あんまり役に立たなかったみたい」

「まあ、そんなもんだよな」

「警部さんに聞かれて答えられなかったら、なんだか悪いことしてるような気がして、ドキドキした」

「なんだよ、それ。考えすぎ」


 大吾は軽く笑った。

 京子は食べながら、あることを考えていた。


 ――やっぱり、とよさんのこと、大吾に話してみようかな。


 胸にしまっておいたほうがいいと思いつつも、一人で抱え込める自信もない。大吾には今まで何でも話してきた。


「あのね、大吾」


 食べ終わり、大吾の入れてくれたハーブティーを飲んでいるとき、京子は話を切り出した。


「あの夜ね」

「あれ、電話がかかって来てんじゃない?」


 大吾に教えられて、スマフォのバイブでバッグが振動しているのに気づいた。スマフォを取り出すと、大学時代の同級生である明海の名が表示されている。


「もしもし」


 電話に出ると、「元気ぃ? ケガは大丈夫?」と明海の朗らかな声が聞こえてきた。


「うん、来週には抜糸だって」

「本当? よかったねえ」


 しばらく京子の体調を気遣った後、明海はふいに、「あのね、ユーチューブでね」と声を潜めた。

「京子が出ているの、知ってた?」

「は? 私が!?」

 驚いて思わず甲高い声を出してしまった。


「京子、マスコミの人からインタビュー受けてたでしょ、その動画を誰かが投稿したみたいなんだよね。美人すぎる介護士って」

「えっ、何?」

「美人すぎる介護士」

 京子は絶句した。


 ――何それ? 一体、何が起きてるの?


 インタビューといっても、テレビで流れていたのは、ほんの数十秒である。


「そんなの……投稿してどうすんだろ。私、有名人でもないのに」

「それがね、巨大掲示板で京子が話題になっているみたい。あんなかわいい子が介護しているなんて、オレも面倒見てもらいたいって。京子、美人だからね。私も会社で『あの子は学生時代の友達』って言ったらさ、彼氏いないのか、合コンしたいって何人かの男の人に言われた」

「……」


 京子は完全に言葉を失っていた。


「一応、動画のこと、伝えておこうかと思って。そうそう、時間があるなら合コンやらない?」

「いや、だって、大吾がいるのに」

「そうだよね、ごめん、変なこと言って。聞き流して」 


 電話を切ると、キッチンで後片付けをしている大吾に「ねえ、私がネットに出てるんだって」と声をかけた。


「何、それ。どういうこと?」

「さあ」


 京子はスマフォでユーチューブを開いてみた。

 すると、確かに自分がインタビューに答えている動画があった。斎場に出入りしていたときの動画だった。


「やだ、何これ」


 時間にしたら数十秒だが、京子の顔は大写しにされ、ハッキリと確認できる。テロップには『美園ホーム職員 桂木京子さん』と名前まで出ている。


「美園ホームで当日夜、夜勤だった桂木さんは、炎の中に残り、入居者を命がけで助け出した」というテロップが入っている。


「最後まで残って皆さんを助けてたんですよね。怖くなかったんですか?」


 女性のレポーターが京子にマイクを向けた。確か若くてキャンキャンした声で話すレポーターだったのは、京子も覚えている。


「いえ、もう、助け出すのに精いっぱいで、余裕がなくて……」

「亡くなられた方もいらして、かなりショックだったんではないですか?」

「……」


 京子は何も答えられなくて、俯いた。


「今のお気持は?」

「……」

「その手の包帯、救出した時に怪我されたんですか?」

「ええ、まあ……」

「そうですか、体を張って皆さんを守られたんですね」

「……」


 京子の頬に一筋の涙が伝い、慌てて手で拭っている。


「そうですよね、ショックですよね」

 そこで動画は終わった。


 ――こんな動画が、ネットで流れているなんて。


 アクセス数を見ると、10万を超えていた。


「どうしたの?」

 大吾が後片付けを終えて、隣に座った。京子は「ねえ、これ見てよ」とその動画を見せた。


「えっ、何これ。誰かが投稿したの?」

「そうみたい。気持ち悪い、こんなところで繰り返し流されるなんて。巨大掲示板でも私のことが話題になっているんだって」

「ええっ?」


 大吾は、自分のスマフォで巨大掲示板サイトを開けた。

 明海から教わった「板」を開けると、「美園ホームの女の子について語るスレ」というタイトルを見つけた。開いてみると、すでに300件近くコメントが寄せられている。


『あんな子が介護しているホームなら、俺も入りたい』

『ジジババの下の世話もしているのかな(笑)』

『俺も下の世話をしてもらいたい。京子たーん』


 読み進むうちに、京子は背筋が冷たくなるのを感じた。まともに読めないような、卑猥な言葉も次々と出てくる。


「ひでえな、こりゃ」

 大吾も顔をしかめる。


「どうしよう、気持ち悪い」

「でも、ほっておくしかないだろ」

「消してもらうこととかできないのかな」


「うーん、プライバシーの侵害ってことで消してもらえるかもしれないけど、弁護士とかに相談しなきゃいけないんじゃないの? それはカネかかるでしょ。こんなのほっておけば、そのうち誰も書かなくなるよ」

「そうかなあ」

「人の噂も七十五日とかって言うじゃん」

「そうだけど」

「まともに反応しないほうがいいよ」


 京子は頷くしかなかった。


「お風呂どうする? シャワーだけにする?」


 大吾は立ち上がり、ふと、「そういえば、さっき、何か話しかけてなかった?」と尋ねた。

 とよのことを話す気はすっかり失せていたので、京子は「なんだっけ、忘れちゃった」と適当にごまかした。


 次々と予期せぬことが起こり、心身ともに疲れ果てている。今は風呂で温まり、ゆっくりと休みたいと、京子はスマフォをしまった。


************


 その日、隆太郎が自宅近くのバス停で降りると、近くの公園にパトカーや救急車が止まっているのが見えた。近所の人や通りがかった人が数十人、公園を取り囲むように集まっている。

 

 人垣から覗き込むと、担架に乗せられた人が公園から運ばれてくる。その顔にまですっぽりと青いシートをかぶせてあるのを見て、

 ――あれはすでに死んでいるんじゃないか。

 と、隆太郎は思った。

 

 シートに覆われた人は、ピクリとも動かない。

 救急車の後ろのドアが開けられ、担架が運び込まれる。


「公衆トイレの裏に倒れていたんだって」

「犬の散歩をしている人が見つけたって」

「昨日からおばあちゃんが家に帰ってこないって、探していた家があるみたい」

「それじゃ、そのおばあちゃん?」

「病気かなんかで倒れたんですか」

「いいえ、刺されていたみたいですよ」

「ええっ!?」


 やじうまが口々に話しているのを聞き、隆太郎は何が起きたのか、大体の見当をつけてからその場を離れた。


 ――静かで環境のいい住宅地だと思って、ここに住むのを決めたのに。まさか、こんな物騒な事件が起きるなんて。久美子に夜遅くなったら外に出ないよう、言わないと。


 隆太郎は足早に家に向かった。


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