7月 火柱 ④
「いかがですか、仕上がりは」
冬実が京子に微笑みかけた。京子はカフェで一冊の本を手にしていた。
その本は『一歩、前へ』というタイトルがついている。著者の名前は桂木京子――邦雄が書いた京子の本が、ようやく仕上がったのである。
「ええ……なんだか、自分の顔写真がこんなに大きく載るなんて、恥ずかしいです」
「桂木さんは美人だから、帯じゃなくてカバーに写真を使ったほうがいいだろうって、最初に会ったときから決めてたんです。この写真、編集部でも好評でした」
「そうですか……」
カバーには、京子がきっと口を結び、まっすぐ前を見据えた顔をアップにした写真が使われている。撮影のときは緊張してしまい、冬実やカメラマンが必死に緊張をほぐそうとしてくれたのだ。
帯には『もう一度、あのホームに戻りたい――奥多摩老人ホーム放火事件を体験した、介護士の初エッセイ』と書いてある。
京子は何気なく本をめくった。
「えっ」
前書きの出だしを読んだとき、思わず声を上げた。
『3月のある朝、私は衝撃的な電話を受けました。
元さんが自殺した――。
山本元さんは私が勤めていた老人ホーム、美園ホームの園長だった方です。
この本のタイトルにもなっている「一歩、前へ」は、いつも元さんが投げかけてくれた言葉です。
足の悪い入居者さんに、「一歩だけ、前に進んでみましょう」とやさしく呼びかける。
私がミスをして「この仕事は向かないんじゃないか」と落ち込んでいると、「一歩だけ、踏み出してみようよ」と励ましてくれる。
立ち直れないぐらいに打ちのめされたときも、一歩だけ前に出ようと言われると、それならできそうって思えたのです。
みんなの心のよりどころでもあった元さんは、この世にはもういません。そのきっかけとなったのは、あの事件――奥多摩老人ホーム放火事件です。』
食い入るように読んでいる京子を見て、冬実は不安そうな表情で「どうしたんですか? 何か間違いでもありますか?」と聞いた。
「いえ、この話……元さんの自殺の話を出すなんて、聞いてなかったから。ゲラの段階では、この話はなかったですよね。放火の話はニュースにもなったからいいんですけど、元さんの話は、ちょっと」
「えっ? ホントですか!?」
冬実の素っ頓狂な声に、そばにいた人たちが振り返ってこちらを見た。
「うそうそうそ。安藤さん、桂木さんから『やっぱり入れたい』って言われたって、言ってましたよ。園長さんの遺族にも確認取ったって」
「えっ? そんなこと、言ってませんよ。元さんのご家族には、この本のことは何も話してないし。私が読んだときは、もっと普通でした。介護士になりたくてOLから転身したんだっていう話」
冬実は絶句して、しばらく言葉が出ないようだった。
「どういうことだろ……。私は、桂木さんが『どうしても入れたい』って言ってたって聞いてるんですけど……」
「そんな、そんなこと言ってませんよ。取材のときも言ったように、これだけは触れてほしくなかったんです」
「ちょ・ちょっと、安藤さんに聞いてみます。安藤さんから詳しい話を聞いたら、桂木さんにも連絡しますね」
「え・ええ」
冬実は二人がつきあっているのを知らない。
――なんだか、変なことになってきたな。
京子の胸の奥でざわざわと何かがざわめいた。
***************
「田口さんになんて言ったんだよ!」
その晩、京子はバイトを終えて帰宅し、家のドアを開けたとたん、邦雄から怒鳴られた。京子は靴を脱ぐのも忘れて立ちすくんだ。
目の前に仁王立ちした邦雄は、今まで見たことのない険しい表情をしている。
「今日、田口さんから連絡があって、桂木さんが園長さんの自殺のことは何も聞いてないって不安がってる、どういうことだって言われたんだよ。おかげで、忙しくて確認したつもりで忘れてたって平謝りしなくちゃなんなくて。これで信用失って、仕事なくしたらどうするつもりなんだよ!? フリーで仕事するのがどれだけ大変なのか、分かってないだろ、お前はっ」
「……」
「おかしいと思ったら俺に直接聞けばいいのに、田口さんに『私、知らない、聞いてません』なんて言うか? 俺が立場を失うって、考えなかったのかよ」
「だって、本当に知らなかったんだし」
ようやく京子は口を開いた。
「だって、元さんの話載せるなんて、聞いてないよ? 私に何も言わずに、あの文章にしたんでしょ? 遺族にも了解をとったなんて、そんなの嘘じゃない」
「いいんだよ、そんなちっさいこと」
「ちっさいこと? ちっさくなんてないよ。自殺したって知られたくないから、お葬式だってひっそりとあげたのに。元さんの家族がこの本を読んだら」
「読んでも怒りゃしないよ。放火事件の犯人に対して『今すぐにでも自首してほしい』って言ってあげてるんだから。家族も同感して感謝するって」
「そんな問題じゃないよ」
「じゃ、どんな問題なんだよ? あのさ、お前は本に関しては素人だろ? だから俺が代わりにすべてを仕切ってやってあげたんだよ。編集者に任せてたら、おっそろしくつまんない本になるかもしれないじゃないか。だから、売れる本にしてやったんだよ」
邦雄は顔をゆがめて「ハハッ」と短く笑った。醜い。こんなに醜い人の表情を見たのは初めてだと、京子は鳥肌が立った。
「お前も本が売れないと困るだろ?」
「売れるとか売れないとか、そこまで考えてないよ。そんなことより」
「だからさあ、今さらちっさいこと言っててもしょうがないって。本はもう店頭に並ぶんだし。それとも、本を出すのをやめるのか? 今から出版中止なんてことになったら、契約不履行でこっちが全額賠償しなくちゃならなくなるのかもしれないのにさ。そこまでするつもりあるの?」
「そこまでは考えてないけど……」
「じゃあ、いいじゃないか。俺が売れる本にしたんだからさ」
いつも、邦雄にはこの調子で強引に押し切られる。反論したいのだが、専門的な話はさっぱり分からないので、最後には黙るしかない。
邦雄は、急に優しい声音になった。
「まあ、確かに、相談しなかったのは悪かったよ、謝るよ。お前もホームレスになったじっちゃんたちの世話で忙しそうだったしさ。でも、いい出来だろ。いい本になったろ?」
「……まあね」
京子は力なく答えた。
「それよりさ、文集の編集者が、今回の記事はスクープ記事として冒頭に載せるって言ってきたんだよ。記事の中でこの本のタイトルも出してくれるよう、頼んどいたからな。いいタイミングだよな、売れるぞ、この本」
興奮気味に邦雄はしゃべり続ける。京子は相槌を打つ気力さえなく、靴箱に凭れかかった。
邦雄が京子を「お前」と呼ぶのは初めてだった。
大吾にも「お前」と呼ばれることはあったが、親しみをこめて言う「お前」とは大違いだ。
京子は、本当はドアを開けて駆け出したかった。大吾のもとへと走って行きたかった。
だが、そばにいてくれようとする大吾を拒絶したのは、他でもない自分である。
――なんてことをしちゃったんだろう。一番大切な人を、なくしちゃった。一番、大切な、人を。
京子は、のろのろと靴を脱いだ。




