1月 火種 ④
「――まったく、世も末だな」
武山隆太郎は、お茶をすすりながら苦々しくつぶやいた。
テレビのニュースやワイドショーでは、繰り返し老人ホームの放火事件について報道している。
「うちは親父もおふくろも早くに亡くなっているから、老人ホームに入れる心配なんてしなくてよかったけど。安らかに死を迎えようと入ったホームで焼き殺されるなんて、残された家族もショックだろうなあ」
「ええ、本当に。隣の田中さんも、うちのホームは大丈夫かって心配してたわよ。田中さんのところはお父さんをホームに入れてるんでしょ。お父さんが3年前からボケはじめて。旦那さんの両親はまだ元気なんだけど、もしそっちの両親もボケたらどうなるんだって、この間話していて。旦那さんの両親は二人とも教師で、かなり厳しい性格みたいでね」
「ごちそうさま」
妻の久美子の話を遮るように、隆太郎は席を立った。久美子は話を始めると、時間も気にせずに延々としゃべり続ける。若いころはそんな久美子の明るさが好きだったが、今では騒音にしか聞こえずうんざりする。
隆太郎は洗面所に入った。メガネをはずし、歯磨きをした後、顔を冷たい水でザバザバと洗い、タオルで拭く。
背後に人の気配を感じて振り向くと、息子の透が立っていた。
髪はボサボサ、目はうつろで焦点が合っていない。色あせたTシャツからはたるんだ腹がのぞき、着古した青いジャージはずり落ち、パンツが見えている。体重は100キロを超えているのではないか。
「なんだ、朝早くから、珍しいな」
隆太郎が声をかけても、透は無言で洗面所の横にあるトイレに入った。
隆太郎はヘアトニックをつけ、髪を整えながら、透が出てくるのを待つべきかどうか迷っていた。数秒で透は出てきたので、「一昨日の面接、どうだったんだ?」と聞いた。
透は隆太郎と目を合わせず、何も答えずに二階の自分の部屋へと戻りかけた。
「結果ぐらい報告しろって。俺が紹介してやった会社なんだぞ?」
思わず隆太郎が声を荒げると、透は一瞬立ち止まったが、振り向きもせず階段を重い足取りでのぼっていった。
「どうしたの?」
久美子が顔を覗かせた。
「透がいたんだよ」
「あら、こんな早くから珍しい……そうそう、二階のトイレは詰まってたんだっけ。修理呼ばなきゃ」
「そんなんはどうでもいいよ」
隆太郎は苛立った。
「あいつに一昨日の面接はどうだったって聞いても、何も言わないんだよ」
「ああ、あれはダメだったの。電車に乗る前に気分悪くなって、帰ってきちゃったのよ」
「え? そんな話、聞いてないぞ」
「あなた、忙しそうだったから、話すきっかけがなくて」
「何言ってんだよ。知り合いに頼み込んで、面接してもらうことになってたんだぞ。すぐに俺に報告するべきだろうが」
「だって、仕事中は連絡するなって言うから」
「昼休みにでも電話すればいいだろ? それぐらい、自分の頭で考えろよっ」
久美子はあきらかにムッとした。
このやりとりは、透にも聞こえているだろう。構わない、自分のしたことでどれだけ親に迷惑をかけているのか、知るべきだと隆太郎はわざと声を大きくした。
「こっちから、先方には断りの電話はしておいたから、問題はないってば」
「お前が電話したのか?」
「そうよ。透がするわけないじゃない」
「もしかして、面接にもついていったんじゃ」
「しょうがないでしょ、透が電車に乗るのは久しぶりだったんだから。でも、会社の中にまで入ろうとは思わないわよ。外で待ってるつもりで」
「当たり前だっ。母親連れで面接に行ったりしたら、恥さらしじゃないか。勘弁してくれよ、もお」
「駅で引き返してきたんだから、恥なんてかかせてないじゃない」
「いや、そういう問題じゃなくて。分かんないかなあ?」
隆太郎はため息をついた。
久美子は顔を真っ赤にして、「いつも、そういう人をバカにした言い方をするんだからっ」と隆太郎をなじる。
「もともと事務の仕事なんて、あの子には向いてないし。いいじゃない、この話がダメになっても」
「向いてる、向いてないなんて、働いてみなきゃ分かんないんだっ」
隆太郎はますます声を荒げた。
「どんな仕事だろうと、仕事を選べるような立場にないだろう? とにかく外に出すのが目的なんだから、コンビニのレジ打ちだっていいんだよ」
「あの子には接客は無理よ」
「お前がそうやって甘やかすから、透は7年間も引きこもっているんだよ。俺もいつまでも働いていられるわけじゃないんだから。自立してもらわないと、老後はどうなるんだ? 俺らの年金を頼りに引きこもってたら、一家で首くくらなくちゃいけなくなるぞ」
「そんなの、まだ先の話じゃないの。それに、あんまり厳しくして暴力でも振るわれたら困るじゃないの。この前も、引きこもりの少年が親を殺したって、ニュースで言ってたでしょ。テレビの専門家も、子供をあまり追い詰めるようなことを言っちゃダメだって」
「もういいっ」
吐き捨てるように言うと、隆太郎はタオルを床に投げ捨てて、自分の部屋へと向かった。
珍しくもない、もう何年も繰り返されている武山家の日常の1コマである。