1月 火種 ③
小田急線の藤沢行きの急行が、新宿駅で発車時刻を待っていた。
車内は混雑しているほどではないが、席は既に埋め尽くされ、立っている乗客がチラホラいる。
杖をつきながら、一人の老爺が乗り込んできた。老爺は優先席に座っている乗客をギョロリと睨み、目を閉じている若い女の前に立った。
老爺は、いきなり女のすねを杖で叩いた。
女は、驚いて目を開ける。
「ここは優先席だろうが、なんで座ってるんだっ」
車内に響き渡るような声で、老爺は一喝した。
女は眠っていたのか、何が起きたのか理解できないようで、辺りをキョロキョロと見回している。
「目の前に年寄りが立っているのに、なんで譲らないんだっ」
老爺は、なおも怒鳴りつける。
ややあって、女は
「気分が悪くて、座ってたんですけど……」
と、弱々しい声で反論した。
「はあ? 出かけるぐらいの元気があるんだろ?」
「いえ、これ」
女は、カバンにつけているキーホルダーを示した。
「なんだ、それは」
「マタニティーマークです」
「は? なんだ、それ」
「だから、妊娠初期で具合が悪いから」
「妊娠は病気か? 違うだろうがっ」
老爺は目を見開き、額に青筋を立てながら怒鳴りちらす。
「お腹に赤ちゃんがいるんだから、いいじゃないですか」
見かねて、隣に座っていた老婆が助け舟を出す。
「あんたには関係ないっ。ここは高齢者が座る席なんだから、お前はどっか行けっ」
老爺の勢いに押されるように女は立ち上がり、青ざめた顔で電車から降りた。
「まったく、近頃の若者は、すぐに座りたがって。俺が若いころは、電車ではずっと立ってたよ。それが礼儀ってもんなんだ。優先席は高齢者が座るものだって、親が教えなかったのかねえ」
老爺は大声でまくしたてながら、席に座る。隣の老婆は顔をしかめて立ち上がり、電車から降りてしまった。
ややあってドアが閉まり、電車はゆるやかに走り出す。
優先席に座っている人たちは、老爺と目を合わせないように本を読んだり、目を閉じたりしている。
「あのジジイ、最低」
「頭おかしいよ」
離れたところに座っている女子学生がひそひそ声で話している。
女子学生の隣で、老爺を睨みつけている男がいた。男はスマフォを取り出し、すばやくLINEでメッセージを打つ。
小田急線で、害虫発見。
優先席に座っていた妊婦さんを杖で叩いて、妊娠は病気か?どけって怒鳴ってた。
この害虫、クジョすべき?
数秒後、メッセージが届く。
クジョブルーさん、クジョ、ゴー!
男は黒い毛糸の帽子をリュックから取り出して目深にかぶり、皮手袋をはめた。
老爺は代々木上原に着くと立ち上がり、杖をつきながらホームに下りた。男は老爺を追うようにホームに降り立った。
老爺は意外としっかりした足取りでエレベーターまで歩いていく。男は2、3メートルほどの距離をとりながら、後ろをついていった。
エレベーターの扉が開き、老爺は乗り込む。男も乗り込み、すばやく背を向ける。扉が閉まり、エレベーターはゆっくりと動き始めた。
「若いもんは階段を使え」
一瞬、誰に言っているのか分からなかった。
「これは高齢者が使うんだ。階段を使え」
杖で足をこづかれて、初めて男は自分に向かって言っているのだと気付いた。振り向くと、老爺が眉をしかめてこちらを見ている。
「ああ!?」
頭の中で、何かがプツンと切れた音がした。男はダウンコートのポケットに忍ばせてあるものを握りしめる。
老爺は男の剣幕に驚いたのか、気まずそうに眼をそらした。
「こいつ、やっぱり1ネンキンだ」
男がつぶやいたとき、エレベーターは改札階に着いた。
扉が開き、老爺がエレベーターを降りようとしたとき、男は老爺の肩を叩いた。何事かと振り向いた老爺の胸に、ポケットから取り出したものを目いっぱい突き立てた。それは、アイスピックだった。
「うっ……!?」
老爺は目を見開く。
男は老爺を突き飛ばし、閉まりかけた扉に挟まれかけながら、エレベーターを飛び出す。扉が閉まる瞬間、「だ・誰か……」と助けを求める老爺の声が聞こえた。
男は足早に改札を出て、駅から離れた。
歩きながら、LINEでメッセージを打つ。
代々木上原のエレベーターで、害虫を退治。
ブンブンうるさい、カナブン系の害虫。
オレも杖でつつかれた。死ね。ホント、死ね。
道具はアイスピック。1ネンキンよろしくです。