5月 飛び火⑤
平野清子は水から顔を出したとたん、鼻から大量の水を吐き出した。
「こいつ、しぶといなあ」
と、そばにいた男が舌打ちをした。
「ねー、なかなか死なないねえ」
小型のビデオカメラを回しながら、女が相槌を打つ。
「この方法、今度からやめような。時間かかるし、ひっかかれるしさあ」
男はミミズ腫れができている左手を恨めしそうに見た。
「ババアだから、おとなしいかと思ったけど、結構抵抗しやがるよな」
「意外に面倒だったよね。ネンキンを多めにもらえないかなあ」
清子は遠くなる意識のなかで、二人の会話をぼんやりと聞いていた。
30分ほど前、水道の点検に来たという二人連れがドアの外に立っていた。水道局の制服らしき服を着て、胸元には名札もつけているので、清子はためらうことなく二人を家に招き入れた。
「お風呂の水の出をチェックしますね」
女が風呂場に行き、男は台所のシンクの下を開け、水道管を見ているようだった。
「ほかのうちも今日点検だったの?」
「ええ。この団地、古いから定期的に点検しないと、知らない間に水が漏れてたりするんですよね」
「そうなのよ。この間、隣の部屋の人が蛇口を閉めても水が止まらないって騒いでたもの。ああなったら、大変よね」
「そうですね」
「うちなんか、去年、トイレがつまっちゃって、大変だったわよ。すぐに修理に来てもらったけど、つまったときに修理に来てもらうのも、嫌なもんよねえ。お宅は、そういうのも見てるの?」
「まあ、そうですね」
「そう、こんな汚い仕事をしているなんて、偉いわねえ。近頃の若い子は、汚れ仕事を嫌がるって言うじゃない? それで株とか簡単に金儲けに走っちゃってねえ。私が若いころは、働いて稼ぐのが当たり前だったのに。あんな、株なんて訳わかんないわよ。ニュースを聞いていてもさっぱり」
清子がマシンガンのように話しているのを、男は作業をしながら適当に聞き流していた。
15分ほど経ち、女が「風呂の水、入ったよ」と男に言いに来た。男は「了解」と立ち上がった。
「お風呂の点検が済んだので、確認していただけますか」
女がにこやかに清子に話しかける。黒い髪を一つに結び、化粧はほとんどしていない、今時珍しく地味な女である。清子は好感を持ち、「ハイハイ」と喜んで二人について風呂場に行った。
風呂場に入ると、湯船いっぱいに水が張ってある。
「あら、こんなに水を出して。止まらなかったの?」
清子が眉をしかめると、
「蛇口の辺りを、ちょっと見てもらえますか」
と女が背後から声をかけた。
清子がしゃがんで蛇口を覗こうとしたとき、背後から頭をつかまれ、湯船の水に顔を沈められた。突然のことで、清子は混乱して鼻と口から思い切り水を吸ってしまった。
顔を上げようとしても、しっかりと押さえ込まれているので動かせない。両手を振り回し、男の手を引っかくと、ようやく手の力が抜けた。
清子は勢いよく顔を上げ、鼻と口から水を噴き出し、咳き込みながら床に倒れこんだ。
――何すんのよっ、死んじゃうじゃない!
抗議しようと思っても、声を出す余裕はない。
「いってえ」
男は舌打ちする。
「こいつ、ひっかきやがった」
「えー、大丈夫?」
男は目を吊り上げ、清子の腹を蹴り上げた。清子は「ボグ」と奇妙な声を出し、おなかを押さえて体を丸めた。
「なんか、縛るもんない? ガムテでもいいから」
男に言われ、女は「待ってて」と姿を消した。
――何、この人たち。
清子は恐怖で体が震えていた。
逃げようにも、ショックと痛みで体が動かない。タイルに転がり、震えながら、なぜ自分がこんな目に遭っているのかを必死に考えた。
この二人には見覚えがないし、乱暴される理由も思いつかない。
――この人たち、誰かと間違えてるんじゃないの。
「私じゃ……ない」
息も切れ切れに言うと、
「あん?」
と、男が顔を覗き込んだ。
「誰かと、間違え、てる」
「間違えてねえよ。あんた、平野清子だろ? 玄関で確認したとき、そうだって言ったじゃないか」
「……」
確かに、そんなやりとりがあった。てっきり身元確認だと思い、何の疑問も持たずに「ハイ」と応えてしまった。
「俺達を恨むなよ。お前がいけないんだからさ」
男はそばにあった浴室用の椅子に腰かけた。
「お前、嫁さんにひどいことばかり言ってるんだろ? 孫のしつけが悪いとか、男を産まないなんて欠陥品だとかさ。勝手に家にあがりこんで、嫁さんの大切にしてる服とか皿とか、趣味悪いって捨てたりしてんだって? 料理にも掃除にもケチをつけてばかりで、自分の家族からも嫌われてんだろ? 誰も同居してくれないから、こんなボロい団地で一人暮らししてるんだろ? あんたみたいのを、害虫って言うんだよね。んで、あんたの嫁さんから、お前を退治してくれって、それもできるだけ苦しめて、その様子を撮影してくれって頼まれててさ」
――嫁って、まさか。
「穂香のこと?」
「さあ。嫁さんの名前までは知らないね」
――じゃあ、あんたたちは一体何者なの?
尋ねようとしたとき、
「あったよ、ガムテ」
と女が浴室に戻って来た。
男は清子をうつぶせに転がし、背中を踏みつけた。全体重をかけたので、清子は「グエッ」と声をあげる。
「押さえてるから、口に貼って」
「ハイハーイ」
女は陽気に答える。
清子は「ちょっと、待って」とかすれた声をあげた。
――私の話も聞いて。お願いだから。私は嫁をいじめたりしてない。教育してただけなのよ。
清子は女を見上げて訴えかけようとしたが、女は「ペタッ」と言いながら、清子の口にガムテープを貼った。
――あなた、女の子でしょ? あなたなら、こんなことしちゃいけないって、分かるでしょ?
ガムテープを貼られた口でモゴモゴと訴えかけても、女は意に介さないようで、口元に笑みすら浮かべている。
その隙に、両腕を背後に回された。
「早く、貼って」
清子は腕を振り解こうとしたが、腕に爪が食い込むほどしっかりと押さえ込んでいる。
女が手首をガムテープでグルグル巻きにした。次は足首を押さえ込まれ、そこもグルグル巻きにされた。
いつしか清子は恐怖で涙を流し、失禁していた。
「こいつ、おしっこ漏らしてる。汚ねえなあ」
「ババアだから、ゆるいんじゃないの?」
男と女は乾いた笑い声を立てる。
「さあてと。平野清子さん、お風呂の時間ですよお……って、重いなあ、こいつ」
「太ってるからねえ」
男は清子の体を抱えあげて、再び湯船に顔を沈めようとした。そのとき初めて、女がビデオカメラで撮影していることに気付いた。
――おかしい、この人たち。
抵抗する間もなく、放り出されるように湯船に身を沈められた。意識が薄れそうになったときに、引き上げられる。
「あっ、まだ生きてた」
男はすぐに手を放す。清子は頭からざんぶと水に沈んだ。
3・4回そんなやり取りが続き、
「こいつ、しぶといなあ」
と、男が舌打ちをした。
「ねー、なかなか死なないねえ」
ビデオカメラを回しながら、女が相槌を打つ。
「ガムテをとるか」
口に貼っていたガムテープを剥がすと、清子は虫の息になっていた。
女がカメラを清子に近づける。
「なんか、お嫁さんに対して言うことある?」
清子は目を閉じ、かすかに息をするだけだった。
「ダメだよ、コメントもらうのなら、もっと早くにもらっとかないと」
男が苦笑した。
「そっか。遅かったね」
「それじゃ、今度で最後でいいかな」
「いいんじゃない」
「ったく、ダイエットしとけよ、ババア」
男は文句を言いながら脱力した清子の体を抱え上げ、引きずるように上半身を湯船に沈めた。
水面に大きな泡がブクブクと立つ。やがて、その泡は途切れ途切れになり、プクンと最後に小さな泡を立てて静かになった。
「――逝ったかな」
女は、ゆらゆら揺れている清子の後頭部と水面をズームで狙った。
「逝ったんじゃね?」
ややあって、男は乱暴に清子をタイルに引きずり落とした。
女は動かなくなった清子の姿を隈なく撮る。両目を苦しそうにつぶり、舌をダランと出している死に顔も、しっかりと撮影した。
「こんなもんでいいかな」
女はカメラのスイッチを切った。
「これ、服を脱がすんだっけ」
「そうそう。風呂に入ってて死んだように見せかけなくっちゃね。でも、こんなババアの服脱がせたら、オレ、夢に見ちゃいそうだよ。もうぜってえ、勃たなくなる。ヤバイなあ」
男はげんなりした表情でため息をついた。
「ネンキンのためだから、我慢するしかないって」
「まあね。仕方ない、やりますか」




